『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫)★★★★★

ザ・ロードコーマック・マッカーシー/黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫)

 『The Road』Cormac McCarthy,2006年。

 荒廃した世界で旅を続けながら生きてゆく父と息子の物語です。

 いわゆる終末ものの多くで描かれるのが、変容してしまった世界であったりサバイバルアクションであったりするのに対し、本書の終末はSF的要素などほとんどない、生々しいまでの現実でした。

 宇宙人が攻めてきたわけでも放射能に汚染されたわけでもなく、スラムが拡大したような、被災地が復興せず荒廃し続けるような、無残な現実が広がっています。

 盗み、殺し、レイプ、奴隷、人肉食が当たり前となってしまった世界で、父子も生きるために火事場泥棒をしたり他人を見捨てたりしながらも、最低限の矜恃は失わず、父親は息子に教育を施してゆきます。

 台詞のカギかっこがなく、一行空きのブロックが連ねられる形でエピソードが綴られてゆくこともあり、物語自体はとても静かです。静かだからこそ、残酷さが際立つのでしょう。

 ほとんど武器も持たない無力な父子にとって、他人との接触は暴力を受けることや殺されることを意味します。だからそもそもなるべく人に見つからないように用心しているのですが、それでもときには衝突は避けられません。

 カートを盗んだ追放者に対する父親の容赦ない仕打ちにはショックを受けました。そしてすべてを奪われた追放者の選択にも。

 母親がみずから死を選んだように、捕まった場合には自殺するよう息子が命じられているように、弱い者にとってはそれが一つの、ではなく唯一の選択なのでしょう。

 父と息子はことあるごとに「お礼をいったほうがいい?」「そうだな」のような簡単な会話のやり取りをするのですが、最後になって活かされるのが「善い者」「ぼくたちは火を運んでいるから」という二つのフレーズでした。善い者とは父親が生き抜くなかでも守ろうとしたものであり、火とは恐らく希望の火なのだと思われます。父親の教えはきちんと息子に受け継がれていたことがわかり、この暗くつらい物語のなかで一筋の光明でした。

 空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作(カバーあらすじ)

 [amazon で見る]
 ザ・ロード 

『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊』東雅夫編/金井田英津子絵(汐文社)★★★☆☆

『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊』東雅夫編/金井田英津子絵(汐文社

「あれ」星新一(1975)★★★★☆
 ――あるホテルの一室で、出張中の男が眠っていた。静かな真夜中。男はふと寒気を感じて目をさました。そばに人のけはいを感じる。一メートルほどはなれて、なにものかが立っている。やがて消えた。本社へ戻った男は、同僚と酒を飲んだ時そのことを話題にした。ただの悪夢とは思えず、ついだれとはなしにしゃべってしまう。そのうち、男は専務に呼ばれた。

 登場人物の一人が「霊魂かな」とは言っていますが、著者自身は霊とも何とも断定していません。オカルト的にはホテルの部屋に出るものは心霊現象と相場が決まっているのでしょうが、飽くまで「あれ」としか呼びようのない存在で、実際引き起こされる現象は幽霊というより座敷童に近いものでした。
 

「霊魂」倉橋由美子(1970)★★★☆☆
 ――死病の床に就いているMが、婚約者のKに「わたしが死んだら霊魂がおそばにまいりますわ」といった。Kのところに霊魂がやってきたのは、葬儀が終わった翌日の夜のことだった。「お待たせしましたわ」という声がして、霊魂が膝にあがってきた。それは半透明の塊で、二、三歳の子どもほどの大きさだった。その日からKはMの霊魂と同棲しはじめた。

 一種の異類婚姻譚ということになるのでしょうか、Mの霊魂といいながら、Mらしさは最初から皆無で、遊びに来た屈託のない女の子のようです。オカルト的な幽霊とも仏教的な死者の霊とも違う、不思議な魅力がありました。
 

「木曾の旅人」岡本綺堂(1913,1921)★★★☆☆
 ――重兵衛という男が、そのころ六つの太吉という男の児と二人きりで、木曾の山奥の杣小屋に暮していました。「怖いよ。お父さん」少年を恐れさせた唄うような悲しい声は旅人のものだった。木曾の山中に行きくれて、焚火の煙を望んで尋ねてきたのであろう。旅人が来てから半時間ほど経っても太吉は怯えたまま隅に小さくなっていた。そのうち猟師の弥七が訪ねて来たが、弥七の飼っている黒犬が旅人に吠えかかった。

 この作品と次の「後の日の童子」は、同じ編者の『日本怪奇小説傑作集』にも収録されているので何だか損した気分です。もしや旅人の正体は怪物《えてもの》なのではないか――という恐怖が、また別の現実的な恐怖に変わり、それがまた最終的に幽霊か何かが存在するのではないかという恐怖に変わるという、贅沢な一篇です。
 

「後の日の童子室生犀星(1923)★★★☆☆
 ――夕方になると、一人の童子が門の前に立っていた。いつも紅い塗のある笛を携えていた。「きょうは大層おそかったではないか。犬にでも会ったのか。」「いいえ、お父さん。ねえお母様。」「なあに。」「僕にそのあかん坊をちょいと見せてください。」童子は赤ン坊を覗きこんだ。「おまえによく似ていると思わないかい。」「少しも似ていない。僕のような顔はどこにもない、似てやしません」

 死者との距離感が独特で、親子の会話からは『蜜のあはれ』の金魚と老作家を彷彿とさせます。童子というのが幽霊というよりは妄想に近い、けれど両親にとっては確かに実在する、という曰く言いがたい存在のように感じました。ゴースト・ストーリーですらないかもしれないジェントルなストーリーでありながら、死者の足許に虫が湧くというところだけが妙に生々しかったです。
 

「ノツゴ」水木しげる(1983)★★★☆☆
 ――妖怪作家のH氏は夫婦の激論で苦戦すると話題を“未知の力”にむける。「心を残して死んだ者は次世代の心にひっかかり、新形式の“生存”をつづける。つまり作家がシゲキをうけて書き、読者の頭に残るのだ」。それから十日ばかりになる。夢で見たのと同じ景色がテレビに出てきた。「なんで四国の山を夢にみるのだろう」。H氏は四国に行って地元のカジ屋にたずねた。「このへんに人にとりつくお化けはいませんか」「ノツゴですたい」

 氏の漫画とまったく変わりない暢気な文章です。書けない言い訳を未知の力のせいにして、奥さんもそれに協力してお祈りをはじめるというのがすっとぼけていて、ユーモアは一級品です。一方で、ふつう怪談というものは怪異が起こる手続きを踏むものですが、視える人や信じてる人はそれが当たり前のように書くので、一般人は置いてけぼりを喰らいます。だからクライマックスの恐怖も、出来すぎの暗合のようにしか感じられませんでした。
 

「お菊」三浦哲郎(1981)★★★☆☆
 ――「八号車は県立病院へまわってください」「了解」。六蔵は車を出した。女は右側のドアが開くのを待つふうで、タクシーとはあまり馴染みのない客だとわかりました。「車を頼んだお客さんですね?」「はい。里村リエです」高校生ぐらいに見えます。「鷹の巣まで」。五十キロ先で二時間はかかります。「患者さん?」「はい……家へ帰ります」「外泊のお許しが出たんですか、そいつはよかった」一時間ほど走ると、女が声をあげました。「菊が……」なるほど菊ざかりです。「菊が好き?」「はい、大好き」

 ストーリー自体は陳腐です。よくあるタクシー怪談でしかありません。けれどタクシーに乗り慣れない描写や、少女がひさしぶりの外の景色を見たときの反応など、確かに「生きた人間以外のなにかだったとは、どうしても思えない」ような、血の通ったリアリティに裏打ちされています。お菊という幽霊としては由緒正しい名前を、一面の菊畑と結びつけた発想に意外性がありました。
 

「黄泉から」久生十蘭(1946)★★★★★
 ――終戦後、仲買人となって八年ぶりに日本に帰ってきた光太郎が、恩師のルダンさんとばったり出会った。ばつが悪い思いをしながら「どなたの墓まいりですか」とたずねると、「この戦争でわたしの弟子が大勢戦死をしたぐらい察したまえ。みんなの霊と大宴会をやるんだ」「おけいも呼ばれているのですか」「ひどいことをいうね。八年の間、手紙も書かずにいて」

 もう読むのは何度目かになる名作です。ラストシーンのインパクトが絶大な作品ですが、おけいの南方での様子もただの思い出話ではなく作品にとって不可欠な要素でした。南方の雪のエピソードは、作法や真贋ではなく思いやる気持という点で、まさに光太郎が現在おこなおうとしていた独自の供養と重なります。そのエピソードを伝えに来たのがおけいの友人でなければ、当然ながら作品自体が成立しません。そしておけいが南方で話していたのが謡曲「松虫」だったという事実によって、霊の導きなのではないかという想像が補強されていました。
 

「幻妖チャレンジ!」

謡曲「松蟲」」
 ――これは津の國阿倍野の市に出でて酒を賣る者にて候。さても此の程いづくとも知らぬ男、酒を買ひ飲み候が、更に歸るさを知らず候。今日も來りて候はば、如何なる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。

 かつて松虫の声に誘われて草むらに入ったまま頓死してしまった友人を偲んで、今も松虫の声に惹かれて霊となって現れる男を描いた作品で、久生十蘭「黄泉から」のサブテキストとなっています。

 [amazon で見る]
 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊 

『図書館の魔女 烏の伝言(上・下)』高田大介(講談社文庫)★★★★★

『図書館の魔女 烏の伝言《つてこと》(上・下)』高田大介(講談社文庫)★★★★★

 『図書館の魔女』の続編は、マツリカもキリヒトも出てこない場面からスタートします。前作での混乱によりニザマ国の一姫君と近衛兵たちが山の民・剛力の力を借りて亡命行の真っ最中でした。

 前作との関係が薄い人たちばかりが出てくるので、正直なところこのあたりの序盤はあまり乗れませんでした。焼き払われた村に出くわし、ただ一人の生き残りである少年を見つけ出した場面には昂奮しましたが、結局のところ少年との出会い以上の広がりを見せることなく旅は続けられます。

 そうこうしているうちに目的地である港町の遊廓にたどり着きます。そこで姫君は次の担当に引き渡され、剛力たちは報酬を貰って山に帰るはずでした……。

 ここから桁違いに面白くなってきます。

 遊廓が報酬どころか暗殺を目論んでいると気づいた剛力たちは、遊廓を抜け出し地下暗渠を縄張りにする「鼠」と呼ばれる少年たちにかくまわれます。鼠たちが剛力たちをかくまうことにした理由というのが格好よく、こういうことを恥ずかしがらずにできるのが本物の男なのでしょう。主要人物の一人である剛力のワカンが鼠の一人ファンに話す、わきまえについての説明にも心を打たれました。ファンが剛力に憧れた理由は筋肉だけではありません。こういうことを話してくれる大人は貴重ですね。

 同じく遊廓から逃れようとする近衛兵たち、鈴の音とともに現れる不気味な首切りの大男、囚われの姫君救出作戦、目を覚ました少年の身許、剛力の一人の不可解な動き、別働近衛の生き残り兵の隠しごと、遊廓に残されていた手紙、本国や遊廓の目的……新たな事実が明らかになってもそれがどう繋がってゆくのか、前作との関わり云々などいつしか忘れて読み耽っていました。

 遊廓や人斬りなど、今回の舞台は日本っぽいところがありました。人斬りなんてむしろ忍者みたいですし。

 下巻の後半以降には待ちに待ったマツリカたちも登場しますが、それ以外にも前作の影響や登場人物が随所に散りばめられているので、嬉しいやら驚くやらわずかなりともゆるがせにはできません。

 タイトル「烏の伝言」とは、作中に登場する剛力のカラス遣い・エゴンに由来します。カラスは姫君たちの逃亡に重要な役割を演じますし、タイトルの意味するところや言語障害のあるエゴンの存在と才能は容易に前作を連想させます。

 第三作がなかなか発表されません。第一巻の文庫帯では2016年刊行予定でしたがはや数年……。単に著者が忙しいだけなら気長に待つだけなのですが。講談社では同じ2016年頃の荻原規子エチュード春一番』も第三曲が未刊行のまま2021年8月になってようやく角川文庫から刊行ですし、講談社内の人事のゴタゴタが理由でなければと不安です。

 道案内の剛力たちに導かれ、山の尾根を行く逃避行の果てに、目指す港町に辿り着いたニザマ高級官僚の姫君と近衛兵の一行。しかし、休息の地と頼ったそこは、陰謀渦巻き、売国奴の跋扈する裏切り者の街と化していた。姫は廓に囚われ、兵士たちの多くは命を落とす……。喝采を浴びた前作に比肩する稀なる続篇。(上巻カバーあらすじ)

 [amazon で見る]
図書館の魔女 烏の伝言(上) 下図書館の魔女 烏の伝言(下) 

『緋の堕胎 ミステリ短篇傑作選』戸川昌子/日下三蔵編(ちくま文庫)★★★☆☆

『緋の堕胎 ミステリ短篇傑作選』戸川昌子日下三蔵編(ちくま文庫

 創元・中公の小泉喜美子やちくまの仁木悦子に続いて刊行された、同じ日下三蔵編による戸川昌子の傑作選です。戸川昌子は『大いなる幻影』『火の接吻』『蜃気楼の帯』を読んだことがありますが短篇には初挑戦です。

 選集『緋の堕胎』全作に『ブラック・ハネムーン』から三篇を追加した構成です。
 

「第一部」

「緋の堕胎」(1964)★★★★☆
 ――井田産婦人科医院は七カ月を過ぎた妊婦の堕胎も引き受けていた。書生の健次郎は看護人の資格を持っていない。麻酔のきかない患者を押えつけたり、手術が終ったあとの胎児の始末が主な仕事であった。二十歳をいくらも出ていない中山という患者が苦しがっているので、妾のところにいる医者に電話をかけたが素気なくされただけだった。この女も汗みどろになって男と交わったに違いない……理性が失われ、欲望だけが健次郎の行動の先を走った。

 非合法なことをおこなっている堕胎医院の許で昏い青年が犯した人知れぬ犯罪が、女の嫉妬によって思いも寄らぬ形を取って白日の下にさらされます。当然ながら青年の犯罪と罪悪感が軸になるため、医者の気持や妻の気持は本文中ではさらっとした触れられていません。そうした青年の犯罪の陰に隠されてまぶされていた二人の感情が、最後の最後ではち切れる場面が強い印象を残します。
 

「嗤う衝立」(1976)★★★★☆
 ――判田安夫はベッドの上でまた性欲の昂進を覚えた。入院してからすでに一カ月、日記はまめにつけているが、文面には気をつけていた。中学生の娘の奈津子に読まれるおそれがあるから、性欲の昂まりを死への昂まりと置き換えてごまかしている。自分は右足を切断し動くこともままならないというのに、妻の香代はゴルフのアシスタント・プロと浮気しているに違いない。隣のベッドの患者のところには夜な夜な奥さんが夜とぎに来ているため、判田は昂まる一方だった。

 この手のタイプの作品のなかではよくできています。帯には「官能ミステリの女王」とありますが、恐らくは著者が自分の作風に自覚的なのでしょう、読む側も著者の世界に引き込まれ、その結果こうした仕掛け【※ネタバレ*1】にもしらけることなく意外性として楽しむことができました。妻が浮気しているという疑惑や、成長した妻の連れ子に女を感じてしまうところなど、主人公と読者をその気にさせてゆく細部の外堀も丁寧に描かれています。衝立の向こうの隣の患者が視覚聴覚を失った四肢切断者なのが、単なるエログロ趣味ではなく、仕掛けのための必然である点も見逃せません。
 

「黄色い吸血鬼」(1970)★★★☆☆
 ――表の雨戸を叩いているのが正治郎の耳に聞こえる。吸血鬼はよほど腹を空かせているにちがいない。一カ月のあいだにどれだけの血を吸われたことだろう。寮生が脱走しないように閉鎖してあった玄関が開き、吸血鬼の使い走りをしている御代田という女が入ってきた。無理心中があったという。吸血鬼は血を流している人間を見ると我慢できなくなる。女の方の血液型が、正治郎と同じRhマイナスのAB型だった。

 赤い毛だらけで嘴のある吸血鬼というイメージが斬新でした。それには理由があって、それが平凡といえば平凡なパターンではありましたが、吸血鬼ものとして細かいところまで気を遣って作り込まれているのは特筆すべきです。白い血という表現をしているところから、正治郎の正体には薄々感づいてしまいますが、それもフェアな伏線だと見なすこともできます。
 

「降霊のとき」(1971)★★★★☆
 ――霊媒相談の客が来た。「死んだ人の霊を呼び出していただけますか……」「霊媒のほうは予約制なんですよ。妙空霊女先生はお忙しいのです」未津はそう喋った。「あなたはできないの?」客にそう言われ、自分の霊感を試してみたい……美津は気持を抑えられなかった。妙空霊女のやるとおりにすればいい……すると燃えさかる炎のなかに裸の男が見え、裸になった未津の下半身に巨大なものが押しこまれる感覚があった。

 やたらと官能的に描かれる憑依はともかく、依頼者が性的に満足すると納得して引き上げてゆくというのはよく考えるとおかしいのですが、それをおかしいと感じさせないのが筆力というものでしょう。霊媒師というのが霊と交流する媒介者としてだけではなく本音を引き出す触媒として機能しているということもあるでしょうか。
 

「誘惑者」(1979)★★☆☆☆
 ――河崎先生の別荘まで原稿をいただきにうかがった時のことでございます。奥様のマリアンヌさまのご容態が急に悪くなり、わたしも献血することになりました。原稿が出来上がるまで、二晩ほどのご看病の予定で奥様の病室に泊まりました。三日目の晩です。夜中に目が覚めると、黒いマントの男が奥様を抱きかかえるようにして、首筋に吸いつくようにしたのです。

 また吸血鬼ものです。吸血鬼が存在するに至る経緯が強引なのは否めません。著者はどうしても疑う余地のない吸血鬼を登場させたかったのでしょうが、語り手にまで手を出すのはやり過ぎで、説得力がありません。精神的におかしくなってると言えば何でもありなのは、やはり昔の作品なのでしょう。
 

「塩の羊」(1973)★★☆☆☆
 ――フランスに渡ったまま行方不明になった日本のある政治家の私生児をさがしに、佐伯は料理研究家だと身分を偽ってその娘の働いていたレストランに潜入した。秘伝のソースのために初代の料理長は死んだという伝説が残されていた。女中に乳蜜を搾り取られた佐伯は、次の日には女料理長から修道院に案内され、娘の行方のことや日本人修道僧の過去について聞かされた。

 さすがにこれは、幻想よりも性愛が勝りすぎていて、戦争と迫害とトラウマという題材がエロ描写に負けていました。そこまでのことをしてでも仇を見つけて確定させたかったのでしょうけれど、絵を思い浮かべるとさすがに羊には見えないので、何をやってるんだか……と呆れてしまいました。
 

「第二部」

「人魚姦図」(1978)★★★★☆
 ――俳優研究所の同期生Sが持ってきた求人広告には、美しいマスクと健康的な肉体をした美潜水《ダイビング》の専門家という条件があった。俺は水族館のパトロンからこう言われた。「ここでほんものの人魚を飼育していることは絶対に口外してはならない。人魚との見合いを成功させるのだ」。ジュゴンとファックしろということですか、という俺に、パトロンは「ジュゴンとはなにごとだ。きみはそれでも役者か……」と怒りを露わにした。

 人魚とセックスするというバイトに雇われた俳優の卵の顛末を描くエロティック幻想譚です。あまりに荒唐無稽な内容にもかかわらず、ここまで振り切れてぶっ飛んでいると現実感など忘れてすっかり没入してしまいました。パノラマ島などの江戸川乱歩の諸作を思わせます。体験者の一人称であることや水中の暗闇であることなど、アホらしさが目立ってしまっていた「塩の羊」よりも説得力を持たせる工夫も為されていました。主人公の生い立ちやSとのエピソードなど、構成も細かいところまで考えられています。
 

「蜘蛛の巣の中で」(?)★★★☆☆
 ――検事さま。ほんとうのことを申し上げます。私は高校生の時に義父に犯されました。これを契機に家を出て、アメリカ軍将校の家にベビー・シッターとして住みついたのでございます。奥さまが入院中のことでした、一度だけご主人の自慰をお手伝いをいたしました。その後アメリカ人の主人と離婚し、日本に帰ってまたベビー・シッターをしておりましたが、奥さまが事故で大怪我をして入院中に、ご主人から押し倒されたのです。

 子どもを作れない女の、子ども憎しと性遍歴と犯罪遍歴です。嘘で固めた人生の最後に訴えたのが、果たして「ほんとうのこと」なのかどうか、恐らくは検事の考える通りなのでしょう。告白のどこまでが真実なのかわかりませんが、仮に直近の罪から逃れて立証できない過去の殺人の犯人になるために遠大なストーリーを作りあげたのだとしたら、それはそれで面白い発想だとは思いますが、さすがに非現実的すぎる読み方でしょうか。
 

「ブラック・ハネムーン」(1976)★★★☆☆
 ――三十年間、夢にまで見たハネムーン。母は器量も悪いあたしを心配して結婚相談所に登録していたのでした。そして一カ月前、思いがけず主人から見合いの申し込みがありました。G島の小さな教会で式を挙げ、ホテルに戻って床入りしたのは十時過ぎでした。主人が右手をあたしの腿の内側を滑らせて奥に近づいてくる、その時です。テラスから男たち五人が闖入してきました。

 性的描写が作品にとって必然であるという点では本書中でも完成度の高い作品です。短い作品のなかにヒントも散りばめられていて真相はわかりやすいのですが、真相が単純なだけに実際にそういうこともあってもおかしくはないのかも、と思わされるところもあります。

 [amazon で見る]
 緋の堕胎 


 

 

 

 

*1すべて芝居だった

 

『幻想と怪奇』7【ウィアード・テールズ 恐怖と冒険の王国】

『幻想と怪奇』7【ウィアード・テールズ 恐怖と冒険の王国】

「『ウィアード・テールズ』――ある雑誌の歴史と、表紙画家たちの横顔」
 パルプ雑誌のカバーワークの良さはよくわかりません。
 

「パルプ・ホラーが映しだすもの」牧原勝志
 

「レッドフック街怪事件」H・P・ラヴクラフト/植草昌実訳(The Horror at the Red Hook,H. P. Lovecraft,1927)★☆☆☆☆
 ――ニューヨークから来たマローンという刑事は、事件の最中に煉瓦造りの建物が倒壊して精神に痛手を負い、木造建築しかないチェパチェットで長期療養中だった。この世ならざる存在を、マローンはつねに感じていた。レッドフック街に注意を向けたのは、ブルックリンに配属されていた頃のことだ。ロバート・サイダムは中世の迷信に造詣の深い老人だったが、毎晩のように外国人やならず者たちを地下室に集めて怪しげな儀式をしているらしい。

 これまで雑誌やアンソロジーなどで、苦手なりにもラヴクラフト作品を幾つか読んで、「これは凄い!」という作品もなかにはあったのですが、本篇は凡作に類する作品だと思います。むしろ人種差別的な描写があるために悪い意味で埋もれずに済んだとさえ言えるでしょう。
 

「アンポイの根」クラーク・アシュトン・スミス夏来健次(The Root of Ampoi,Clarke Ashton Smith,1949)★★☆☆☆
 ――サーカスで出会った八フィートはありそうな大男は、巨人症によくある不均衡な感じがしなかった。わたしが声をかけると、ジム・ノックスは自分が大男になった経緯を語ってくれた。冒険好きの船乗りだったジム・ノックスは遭難してニューギニアの小島に運ばれた。そこで稀少な部族の話を聞いた。女性は九フィートもの身長があるが男たちは普通の背丈だという。旅行者が訪れると、付近の山腹で産出する紅玉をガラス玉と交換してくれる。部族の山を訪れたジム・ノックスは女王と結婚することになったが、いつしか男が女に従っていることに懊悩を感じ始めた。

 没になったのもむべなるかな、巨人の現在の境遇とそうなるに至った過去の奇譚とのあいだの繋がりが雑すぎて、やっつけ感がひどいです。男一人が巨大になったところでどうにもならないのは明白だし、当時の船乗りなら教養がないので潰しがきかないのだろうとはいえいきなりサーカス団員になるのもよくわかりません。
 

「消え失せた女たちの谷」ロバート・E・ハワード/宇野利泰・中村融(The Vale of Lost Women,Robert E. Howard,1967)

「H・P・ラヴクラフトの退化論の進化論――人種という疫病の恐怖」西山智則
 

「レオノーラ」イヴリル・ウォレル/植草昌実訳(Leonora,Everil Worrell,1927)★★★★☆
 ――何度も話してそのたびに「頭がおかしい」と言われてきた。十月、十六回目の誕生日の晩、マーガレットの家から帰る途中、自動車が駐まっていた。わたしはその夜、恋に落ちた。彼と再会したのは二か月後のことだった。「今夜は乗っていかないか、レオノーラ?」一歩前進――とうとう誘われた! でもわたしにはその気はなかった。「またいつかの晩に」。三月になった。わたしが外に出なかった一月の嵐の夜も、彼はあの十字路にいたのだろうか。十二時十五分前、わたしは外に出た。

 冒頭で精神を病んでいる(と思われている)らしきことはわかりますが、描かれるのはどうやら超常的な怪談というよりは火遊び的なスリルと貞操危機の恐怖の様子です。これはこれでけっこう読ませるので、無理に怪異に絡めなくともよいと思うのですが、かなりストレートに悪魔の恋人というオチが待っていました。
 

「殺人スチーム・ショベル」アリスン・V・ハーディング/高澤真弓訳(The Murderous Steam Shovel,Allison V. Harding,1945)★★☆☆☆
 ――エドはずっと建設現場で働いていた。ある晩、彼が帰ってきて言ったの。現場にショベルが来たんだ、って。女房なら亭主の考えていることぐらいわかるものよ。ああ、エドはそのスチーム・ショベルを動かしたいんだって。とうとうエドの不満の矛先は、ショベルを動かすためにやって来たロンスフォードという男に向けられるようになった。ところがしばらくして、ロンスフォードが姿を消したの。代わりにエドがショベルを動かすことになった。エドはショベルが言うことを聞いてくれないと言うようになった。

 エドがロンスフォードを殺して呪われたショベルカーに襲われるまでなら当たり前な怪異譚なのですが、エドが襲われたあとに妻の方も延々と襲われ続けるという点、一種異様な内容でした。
 

「廃屋」クリステル・ヘイスティングズ/植草昌実訳(An Old House,Crystel Hastings,1927)★★☆☆☆
 ――月の光のもと そは黙し佇む/曲り畝る小道 人の影も絶え/扉を覆い塞ぐ 蜘蛛の巣の帳/仄白く揺らぎ 宛ら屍衣の如/窓を震わすは 風の噎び泣き/沼から靡くは 重く深き夜霧//明かりもなく 物音も聞かず/……

 詩。なので韻律を楽しむべきものなのでしょう。内容にはさしたるものはありません。
 

「魔の潜む館」メアリー・エリザベス・カウンセルマン/岩田佳代子訳(Parasite Mansion,Mary Elizabeth Counselman,1942)★★★☆☆
 ――マーシャが道路を運転していると、フロントガラスに穴が開いた。狙撃されている! 外に出ようとした拍子に足首をひねった。気づくと目の前には髭面の男、神経質で殺伐とした少年、ミイラのような老婆がいた。「こいつはロリーを捕まえにきたんだ。殺してやる!」とわめく少年をなだめて、髭面の兄はマーシャを部屋に案内した。だがマーシャが異常心理学の准教授だと知った髭面のヴィクターは、「ここでは科学の話などするな!」と一喝した。老婆は意地の悪い態度を取るばかりだった。やがて物音に気づいて顔を上げると、十六歳くらいの少女が部屋に入ってきた。マーシャのブローチに興味を示し、触れようとした瞬間、ブローチがひとりでに飛んでいき、ロリーの手首にひっかき傷ができていた。

 「ハーグレイヴの前小口」『漆黒の霊魂』()、「七子」『怪奇文学大山脈3』()「三つの銅貨」『たべるのがおそいvol.6』()などの邦訳あり。ポルターガイスト現象に襲われた少女とその家族の不幸。それ自体がつけ込まれたものであり、縛りつけるためのものだった――にしても、怪異は怪異として存在しているのがユニークです。
 

「怪奇な話再び」藤元直樹

「うなばらの魔女」ニクツィン・ダイアリス/野村芳夫(The Sea-Witchi,Nictzin Dyalhis,1937)★☆☆☆☆
 ――ヘルドラは呪わしいとともに愛らしい女性なのである。閉所恐怖症に悩まされたわたしは、大風のなか渚へ散歩に出かけ、一糸まとわず冬の海からあがってきた女性を見つけた。「乗っていた船が沈んでしまい、衣服を脱ぎ捨てラーンのふところに飛びこんだの」。ラーンだって? 古代スカンディナヴィアのヴァイキングが信仰した海の女神じゃないか。

 異国趣味とファム・ファタールをやりたかったのかもしれませんが、いかんせん平板です。
 

「『ウィアード・テイルズ』の幻の作家たち」植草昌実

「道」シーベリー・クイン/荒俣宏(Roads,Seabury Quinn,1938)
 

「稲妻マリー」/S・チョウイー・ルウ/勝山海百合訳(The Shapeshifter Unraveled,S. Qiouyi Lu,2019)★★★★☆
 ――マリーは霹靂であり稲妻であり、大平原を引き裂く竜巻であり、兵器のような憤怒だった。わたしはといえば遠くで草むらにしがみつくネズミであり、彼女の栄光の軌跡に震えるのだった。羨望がわたしを飲み込んだ。彼女になりたかった。わたしはまず貝になった。だがそれは砂を噛んで内側を切り刻んだにすぎなかった。こんどは孔雀になろう。しかし羽は自らの重みでしなだれた。次にマリーに会ったのは、サンフランシスコの中華街だった。わたしは何かのふりをするのをあきらめて、自分自身の醜い身体に戻っていた。同じ茶館で彼女と鉢合わせた。

 《Le forum du Roman Fantastique》とあるので投稿作のようです。訳者は中国ファンタジーの著作もあるプロの小説家。著者は中国系アメリカ人で、『S-Fマガジン』2021年10月号()に同じ訳者による「年年有魚」が訳載されています。子どもの頃には特別な存在に思えたものが、長じてみると当たり前に見えた。それが幻滅ではなく前向きなものとして描かれている、少女たちの成長譚。「マリーは霹靂であり稲妻であり、大平原を引き裂く竜巻であり、……」という文体にもまた引き込まれます。
 

「天使についての試論」伊藤なむあひ ★★★☆☆
 ――二〇二三年に地上で初めて天使が観測されたのは、北海道伊達町の公園だ。一日一羽以上のペースで落ちてくる天使たちを、ついには事実上隔離する形で離島に移動することになった。天使が国際人権法によって保護されるかどうかは議論を生んだが、最終的に『天使三原則』という形に落ち着いた。だがC国により天使を傷つけずにクローンを食材にするという建前の抜け道が取られ、北海道に密猟者が殺到した。二〇二四年六月十一日、事実上、日本から北海道はなくなった。日本時間で十三時。ファンファーレのような音が鳴った。

 創作の投稿作。天使を生物・獣として描いた小説はいくつか読んだことがありますが、生物として描き且つ聖書の天使の要素も兼ね備えている作品は初めて読みました。
 

「蛙中人」柳下亜旅
 

 [amazon で見る]
 幻想と怪奇7 ウィアード・テイルズ 


防犯カメラ