『チェコSF短編小説集』ヤロスラフ・オオルシャ・jr.編/平野清美編訳(平凡社ライブラリー)★★☆☆☆

チェコSF短編小説集』ヤロスラフ・オオルシャ・jr.編/平野清美編訳(平凡社ライブラリー

 英米以外のSFの翻訳は少ないうえに、訳されたものの多くはSFというよりも幻想小説や風刺小説だったりするのですが、懸念は的中し、本書収録作も前半はそんな話でした。後半はごく普通の現代SFっぽくなります。
 

オーストリアの税関」ヤロスラフ・ハシェク(Rakouské celní úřady,Jaroslav Hašek,1912)★★☆☆☆
 ――オーストリア税関の検査にあった。スーツケースからは疑わしいものは出てこなかったものの、病院で作成された教授と助手の署名入りの証明書が見つかった。「証明書によると、頭蓋骨の代わりに銀のコンロの天板を使っていますね。純度検証刻印がありませんから、一二コルナの罰金を払わなければなりません」

 『兵士シュヴェイクの冒険』の著者による〈フモレスカ〉。事故の被害者がサイボーグ化されるという設定こそSFですが、本質はお役所仕事の諷刺にあります。
 

「再教育された人々――未来の小説」ヤン・バルダ(Převychováni,Jan Barda,1931)★☆☆☆☆
 ――裁判官兄弟、図書の発見について知りながら隠していたことを否定することをするつもりはありません。また女性と男性の関係、とりわけ親の実子への関係と子どもの養育について矯正されるかぎり、現体制に賛成できない、と人前で意見を述べたことも告白します。

 長篇からの抜粋。諷刺ですらないと思うのですが、例えば中国で事実をそのまま記したとしたらそのこと自体が諷刺たりうるようなものなのかもしれません。
 

「大洪水」カレル・チャペック(O potopě světa,Karel Čapek,1938)★★★★☆
 ――先の大洪水を覚えておいででしょうか。当時、キルヒネルさんだかベズジーチェクさんだかそんな名の老人がいました。年金暮らしの身で考古学を始め、発見した土のかけらの文様をルーン文字だと決めてかかりましたが、考古学者からは相手にされませんでした。老人が私怨を募らせていたそのような折りに大洪水が起きたのです。近所の人から堤防を築くのに手を貸してほしいと言われても見向きもしませんでした。

 さすがユーモアのキレが違います。うろ覚えの老人の名前の候補二つが似ても似つかないのにはユーモアを通り越して悪意すら感じますし、物語のスケールに比して下世話なオチも効果を上げていました。
 

裏目に出た発明」ヨゼフ・ネスヴァドバ(Vynález proti sobě,Josef Nesvadba,1960)★★☆☆☆
 ――シモン・バウエルの発明により、工場は完全オートメーション化に成功した。だが妻のイレナは夫の頭がおかしくなったと言って家を出てしまった。バウエルは図に乗っていたが、得たのは金だけで、地位も名誉も手には入らなかった。しかも自動化により職を失った人々はやりがいを求めて無償で働き出したので、金さえ不要な世の中になってしまった。

 巻末資料を見る限り結構邦訳のある作者です。オートメーション化の発明により生きがいを失うというのには現代もしくは近未来のアクチュアリティを感じますが、逆に言えば発想が現実を超えられずに面白くありません。
 

「デセプション・ベイの化け物」ルドヴィーク・ソウチェク(Bubáci v Deception Bay,Ludvík Součekk,1969)★★★☆☆
 ――兵役も終盤を迎えたころ、NASAが勧誘にやって来た。NASAの訓練は軍隊よりもきつかったよ。ロシアの月に対抗した火星探検の訓練のため、ツンドラを車で走破するテストがおこなわれた。準備期間の一〇日が過ぎ、われわれは宇宙服を着て出発した。見張りは怠るわけにはいかなかった。軍隊のドッキリ好きはご存じだろう? なんらかのしかけに出会う確率は高かった。「止まれ、何か動いた」「火星人?」

 ここまでのなかでは一番SFらしい作品で、未知の敵に襲われて応戦するという古式ゆかしい定番中の定番です。古くさい宇宙観が繰り広げられますが、そうしたステレオタイプのなかに現実を潜ませている内容である以上は、古くさいのも仕方のないところです。
 

「オオカミ男」ヤロスラフ・ヴァイス(Vlkodlak,Jaroslav Veis,1976)★★★★☆
 ――脳移植の研究をしていたリント教授は、共同研究をしていた外科医のシレス助教授に裏切られ、グレートデンに脳を移植されてしまう。閉じ込められていた檻から脱走したリント教授は、底辺生活者のマースと出会い、サーカスに出て大金を稼ぐ代わりに復讐を手伝うよう取り引きする。

 SFや諷刺に頼らない作品の方が普遍性を持ち得るのは皮肉なもので、人間の知性を持った犬がやがて獣性に目覚めてゆくのが哀れです。「山月記」の李徴はプライドが高いだけの人間でしたが、リント教授は実際に知性と才能のある人間なだけに、いっそう悲しみを誘います。
 

「来訪者」ラジフラフ・クビツ(Když jsou hosté v domě,Ladislav Kubic,1982)★☆☆☆☆
 ――呼び鈴が鳴ったのでドアを開けると、ぶかぶかの服を着て大荷物を抱えた男が薄気味悪く笑っていた。「どうも。こちらを間借りすることになりました」「うちは賃貸なんてしていませんよ」「おたくに住まわせてもらいます」「警察を呼びますよ」「どうしたって追い払うことはできないと思いますがね」

 宇宙人が侵略してきたというだけの内容そのまんま過ぎて意味がまったくわからないのですが、1982年当時のチェコはまだ共産国家だったことを考えるとこれも諷刺なのかもしれません。
 

「わがアゴニーにて」エヴァ・ハロゼロヴァー(U nás v Agónii,Eva Hauserová,1988)★★☆☆☆
 ――下の階の光景のなんと恐ろしいこと。アゴニー全体が無意味なミニ国家で、何もかもが窮屈だと態度に示していた。初めて会ったときには、クランを、成熟した家母長制を、アゴニーの暮らしを熱心に擁護したものだが。「うちのクランの生活はすばらしいのです。死亡した女性からクランの心臓をいただいたの。うちのクランに何かあったら困るわ」

 家母長制社会に於けるご近所づきあいに主婦同士の姦しい感じがなく理屈っぽい。女同士に対するステレオタイプなイメージは避けたかったのでしょうけれど。
 

クレー射撃にみたてた月飛行」パヴェル・コサチーク(Let na Měsíc pojednaný jako střelba do pohyblivého terče,Pavel Kosatík,1989)★★☆☆☆
 ――スパイダーは興味深い短編を読んだ。自分の知っていることをバラードという作家も探り当てたのだ。ジョン・ケネディは貧民窟の出だった。六歳のとき、母親が秘密を打ちあけた。本当の父親はアメリカ大使のジョー・ケネディだと。ジョンはその話を信じた。役所も鵜呑みにし、なぜか大使も信じた。

 J・G・バラード「下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルドケネディ暗殺事件」に想を得て、さらに発想を飛ばした作品で、宇宙人からの交信を受けたケネディがカーレースのゴールである月を目指してアポロ計画を推し進めるという筋の周辺を法螺で固めたバカSF。
 

ブラッドベリの影」フランチシェク・ノヴォトニー(Bradburyho stín,František Novotný,1989)★★★☆☆
 ――火星探査隊副隊長メル・ノートンが行方不明になった。「ブラッドベリの影」という謎めいた言葉を残して……。峡谷に救助に向かった一行は、マイナス八六度の中に立っている女の姿を見つけた。生きていたメルと連絡がつき、女はメルの母親だという。火薬を使ってメルを助け出そうとする一行の前に、次々と幻が現れた。

 タイトルになっているブラッドベリ火星年代記』のほか、レム『ソラリス』の影響が顕著ですが、ソラリスの海が人間の似姿をコピーするだけの完全に理解不能交流不能の存在だったのに対し、本編の「ブラッドベリの影」はその人の心のなかの記憶や感情を汲んで再現するなど、むしろディスコミュニケーションの表現としては後退してしまっています。『ソラリス』をブラッドベリふうにアレンジしたということなのでしょうか。無駄に長い。
 

「終わりよければすべてよし」オンドジェイ・ネフ(Konec dobrý, všechno dobré,Ondřej Neff,2000)★★★☆☆
 ――「フォト・コンテスト歴史ルポ部門、第一位のポールをスタジオにお迎えしています。わたしも時間旅行のときのきれいな写真もあるわ」「だがね、やはり心がほしい。テーマを選ぶ時点でね。アウシュヴィッツ」「テーマに怖じ気づいた?」「それはないね。宿主はSS中尉にした。ガス室に送られる女がいた。ぼくが子どもを預かると、女の目に希望の火がともったね。その瞬間に子どもを犬の群れに放り出してやった。その瞬間をシャッターに捉えたんだ」

 はじめのうちはただの司会者とゲストの何でもないやり取りが続くので、クリエイターズ・ファイルみたいなパロディなのかと勘繰ってしまいましたが、ようやくアウシュヴィッツの現場写真という趣向が明らかになり、そこから先はマスメディアによる真実と正義というお決まりのパラドックスとそこから始まった復讐譚となります。

  

『ミステリマガジン』2021年11月号No.749【機龍警察 白骨街道/ハヤカワ文庫JA総解説PART2】

『ミステリマガジン』2021年11月号No.749【機龍警察 白骨街道/ハヤカワ文庫JA総解説PART2】

 予告されていた古畑任三郎特集は延期され、代わりに『機龍警察 白骨街道』特集に。予定変更が急だったためなのかどうか、本人のほかは作家や評論家ではなく書店員座談会やライターのエッセイで構成されていました。

「庶民の怨念と文学の強度」月村了衛

「迷宮解体新書(124)月村了衛」村上貴史
 座談会で回答した内容とも重なる部分もありますが、海外出張についてはより詳しく説明されていますし、「現実を照射するために構想した作品」という発言も。

月村了衛さんの『機龍警察 白骨街道』を読んだ」上田早夕里

「『機龍警察 白骨街道』を語る書店員座談会 with 月村了衛
 なぜか「書店員座談会」と銘打たれていますが、実質的に書店員による月村了衛インタビューです。迷宮解体新書と重なる部分もありましたが、山田風太郎忍法帖は意識していない、狛江事件と沖津の過去は無関係、などズバリ回答してくれていました。
 

「大河の源流へ――『無印』を今読むべき理由」青柳美帆子

「〈機龍警察〉マラソン」小野由佳
 

「第11回アガサ・クリスティー賞 受賞の言葉」逢坂冬馬

「第11回アガサ・クリスティー賞選評」北上次郎鴻巣友希子・法月綸太郎・編集長清水直樹

『同志少女よ、敵を撃て』(冒頭掲載)逢坂冬馬
 ――1942年、モスクワ近郊の農村で暮らす少女セラフィマは半農半猟の生活をおくっていた。だが、無残にもその平和は破壊された。急襲したドイツ軍により、母親が殺害され、村人たちが惨殺されたのだ。自らも殺されそうになったその時――赤軍の女性兵士イリーナに命を救われる。(p.4 あらすじより)

 世界名作劇場みたいな家族やご近所さんの会話が続いているあいだはどうなることかと思いましたが、そんな絵に描いたような平和があるからこそ、それが破られたときの衝撃が大きいのでしょう。
 

「ハヤカワ文庫JA総解説 ミステリ篇 PART2[1013~1493]」

「Let's sing a song of...」皆川博子
 ――バートンズ再び! ダニエル先生と弟子たちは無事公開手術をできるのか?(惹句より)

 『開かせていただき光栄です』の前日譚。
 

「これからミステリ好きになる予定のみんなに読破してほしい100選(4)特殊設定ミステリ」斜線堂有紀

「華文ミステリ招待席 第1回」
紅楼夢曲――仙女の神隠し」張舟/稲村文吾訳
(红楼梦曲之仙子神隐,张舟,2014)★★☆☆☆
 ――風雪は強さを増し、黄河を渡れない人々が破廟《あれでら》に集まってきた。富人が紅楼夢曲を歌い始めた。あちこちから喝采の声があがったが、品格高い貴人が冷笑を漏らした。富人がそれを見咎めると、貴人は林黛玉は賈宝玉との恋に破れて傷心から死んだのではなく、縁戚に殺されたのだと答えた。だが居合わせた僧は、雪の降り積もるなか足跡を残さず林黛玉の消えたことから、仙女である林黛玉は天上へと戻っていったのだと主張する。それに対し貴人は驚くべき推理を伝えた。それを聞いた富人は……。

 出版社・行舟文化セレクトによる華文ミステリの連載が始まりました。第一回は『紅楼夢』を材に取った、なるほど中国らしさ全開のミステリです。柴田天馬訳『聊斎志異』のように客桟《やどや》、虎狼之徒《ならずもの》といった漢語にルビを振って雰囲気を出そうと努めているようです。この種の作品は原典に縛られて窮屈になってしまいがちで、せっかくの多重解決も活きていません。
 

「おやじの細腕新訳まくり(24)」田口俊

「巣箱」ウィリアム・マーチ/田口俊樹訳
(The Bird House,William March,1954)★★☆☆☆
 ――窓から見えた鳥の巣箱のことから、客たちは身の安全に関して意見をぶつけ合い、最後にウォルター・ネイションが話を始めた。「ここニューヨークでエマニュエルという男が殺された事件があった。行商人と父と洗濯屋の母に先立たれ、幼いエマニュエルは天涯孤独の身となった……」。客たちは天涯孤独な少年について想像をめぐらした。「恐ろしい世の中にただひとり残された少年は、窓という窓、ドアというドアに大急ぎで鍵をかけてまわるの」。実際にそうだったかもしれない。それが警察を悩ますことになるこだわりの始まりだったのかもしれない。とにかく、大人になり洗濯屋をエマニュエルは、あるときドアに鍵のかかった部屋のなかで三発の銃弾を食らって死んでいた。凶器も犯人も見当たらない。

 こういう、文学ではなく文学くさい作品はごめんです。
 

「BOOK REVIEW」
『悪童たち』紫金陳は前号で紹介されていました。『骸骨 ジェローム・K・ジェローム幻想奇譚』は、『ボートの三人男』の著者による幻想作品。

『invert 城塚翡翠倒叙集』相沢沙呼は、タイトル通り倒叙ミステリ集。倒叙好きとしては見逃せませんが、『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(こちらは倒叙にあらず)に続くシリーズ二作目で、「なるべく前作を先に読んでおいたほうがいい」そうです。

◆復刊ものは『パーカー・パインの事件簿』

◆コミック『国境のエミーリャ』池田邦彦は、『シャーロッキアン!』の著者による新作のようです。

 

「時代劇だよ!ミステリー(26)「大奥開かずの間」は実在した!」ペリー荻野

  

『不在の騎士』イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳(白水Uブックス 海外小説永遠の本棚)★★★★★

『不在の騎士』イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳(白水Uブックス 海外小説永遠の本棚)

 『Il cavaliere inesistente』Italo Calvino,1959年。

 鎧のなかに肉体は存在せず意思の力によって存在している――という観念的な設定からは思いも寄らないユーモア小説でもありました。

 シャルルマーニュ大帝が武将一人一人に棒読み口調で話しかけるのは序の口で、若きランバルドが仇討の相手を間違い続けるに至っては完全にスラップスティック喜劇です。しかもその肝心な仇討すらも中途半端に果ててしまうのだから、可笑しくてしようがありませんでした。

 やがてランバルドは女武者ブラダマンテに恋をするものの、当のブラダマンテは不在の騎士アジルールフォに夢中という三角関係の構図が出来上がるのですが、ベタな構図というなかれ、惚れたきっかけがベタどころではありませんでした。

 それでも次にはアジルールフォの騎士の資格に疑惑が生じ、疑義を呈したトリスモンドには出生に疑いがあるという、それだけ聞くといかにも騎士道物語にありそうな名誉と家名の問題が立ち上がります。

 けれどその内容というのがアジルールフォがかつて助けた女性の処女疑惑という、これまた脱力ものの事柄で、ただの騎士道物語にはなってくれません。

 斯くして二人は疑惑を晴らすため旅に出ます――。

 そしてこれまた古典喜劇のような無茶苦茶な人間関係が明らかになって大団円を迎え、不在を存在せしめていた事実も終わりを迎えます。

 そんなせっかくのしんみりした気持を、ランバルドがぶち壊してくれます。仇討のときもそうでしたが、無考えにその場の流れに乗っちゃうんですよね、この若者は。

 結局はそのおかげで、生きていることによる希望のようなハッピーエンドを迎えるのだから、わからないものです。

 時は中世、シャルルマーニュ大帝の御代、サラセン軍との戦争で数々の武勲を立てた騎士アジルールフォ。だが、その白銀に輝く甲胄の中はからっぽだった。肉体を持たず、意思の力によって存在するこの〈不在の騎士〉は、ある日その資格を疑われ、証を立てんと十五年前に救った処女を捜す遍歴の旅に出る。付き従うは過剰な存在を抱えた従者グルドゥルー。文学の魔術師カルヴィーノが人間存在の歴史的進化を奇想天外な寓話世界に託して描いた《我々の祖先》三部作開幕。(カバーあらすじ)

  

『月の文学館 月の人の一人とならむ』和田博文編(ちくま文庫)★★★☆☆

『月の文学館 月の人の一人とならむ』和田博文編(ちくま文庫

 月がテーマの日本文学アンソロジー。ヒグチユウコによるカバーイラストに味があります。月の形を巻き貝という生き物で表現する発想と目の表情。姉妹編に『星の文学館』も。学者さんが編纂しているので初出や底本の情報が細かいのがいいですね。
 

「1 月光密輸入」

「月の出と蛙」草野心平(1928)★★★★☆
 ――○月をめがけて吾等ゆく夢の脚

 草野心平らしい視覚的効果も狙った詩です。原文は当然縦書き。タイトルからすると「吾等」とは蛙の一人称なのでしょう。月めがけてジャンプしてゆく同胞の後ろ脚を見ながら蛙たちが列になって次々とジャンプしてゆく姿がそのまま詩の形になってでもいるようです。
 

「月の記憶」川上弘美(2001)★★★★☆
 ――月を見るたびに「それは近づいていた」という一節を思い出す。「それ」とは月のことだ。月を見るたびに私は、この小説の中の「蝋の滴りのように地球にむか」う月の表面を、ありありと思う。小説の中のことなのに、実際にあったことのように、印象づけられてしまっている。

 イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』を通して現実を幻視してしまうのは、アブナイと同時に得がたい才能でもあるのでしょう。「まるで現実のよう」ではなくまさしく現実そのものらしく書けるのが著者の持ち味だと思います。
 

「月光異聞」佐藤春夫(1922)★★★★☆
 ――その家といふのはフランス革命まへにさる貴族が住んでゐたといふ由緒のある建物で、一室に幽霊が出るといふ噂が立てられてゐる。二階に住む二人の若い画家が、財政が逼迫してお化けの出る室を無料で借りやうと思ひついた。まづは扉に穴を明けてのぞいてみることにした。どうであらう! 窓がみんな明け放たれて月光が差し込んでゐるではないか。そしてまんなかに、一人の老婆が箒で床を掃いてゐた。

 確かに幽霊屋敷ものではあります。しかしながら、幽霊屋敷に忍び込んでみたら、月光の差し込んだ絵画のような風景が広がっていた……という、怖いよりも不思議な印象を受ける作品で、著者自身も最後にこれは幽霊ではなく月の優しさではないかとコメントするなど、すっとぼけた味わいがありました。
 

「月光酒」吉田一穂(1925)★★☆☆☆
 ――朝はやくから米つき??が米をつき、蟻とはなしてゐました。その話を屋根裏で盗み聞いた蝙蝠が、話に出てきた蜜蜂の酒をまきあげやうと考へました。屋根裏に巣を張つてゐた蜘蛛を怒鳴りつけ、蝙蝠は夜中に六角形の酒蔵へ近よつてゆきました。

 全体的には寓話のようなのに、最後にオチも教訓もなく唐突に終わります。酒という要素で一貫してはいますが起承転結のバランスがおかしいので読んでいて居心地がよくありません。
 

「月光密輸入」稲垣足穂(1926)★★★☆☆
 ――「目利きは片方の指数でげしょうな。月じるしを貼っただけの贋樽をつかまされるのは当り前でげす」「ステッキに仕込んだらどうかね」「ところがまるでニトロでげしてな。今夜のような良いお月夜にうっかり振り廻しでもしようものなら、ドカン! この前も小屋が吹っ飛んじまったのはご存じでげしょう」
 

「月光騎手」稲垣足穂(1926)★★★☆☆
 ――土地の者の案内によって、一隊は月夜村の丘上におもむいた。やや待つうちに馬どもがおびえたようないななきを発した。視よ! 月明の下、丘陵のかなたに、白馬に跨った白装束の騎手が、幾数百千とも知れず繰り出されてきた。

 一篇目の「月光密輸入」は、吉田一穂の掌篇と同じく「月光酒」という発想が用いられた、台詞付きのパントマイム無声映画のような作品。「月光騎手」はムーンライダーズが登場する一篇。
 

「月光」堀口大學(1922)★★★☆☆
 ――とくとくと戸口を/叩くものあり//来る可き女も/あらぬ夜ふけを//とくとくと戸口を/叩くものあり//われ待つ友も/なき夜更を//――誰かゐるのか?/戸を引けば流れ入る月光《つきかげ》

 これで全文です。た行の繰り返しのリズムが効果的で、実際には存在しない月光の音が聞こえてくるようです。
 

「鏡像」多和田葉子(1994)★★★★☆
 ――昔あるところに僧侶がひとり住んでいた。池に映る月を抱こうとして飛び込んだ。それは満月の夜だった。僧侶は経典を読みながら眠ってしまった。深い眠りの中で池まで歩いていった。僧侶は池の中に月を見ます。眠っているから目を閉じたまま見ます。僧侶は水の中に飛び込みます。それから? 溺れます。飲みます。水を飲みます。月を飲みます。あなたはいったいどなたですか? わたしは読書が好きで、眠れない夜には散歩に出ます。

 水に映る月とは水であって月ではないのか、それとも水が月なのか。「泳ぐことは誰にでもできますが、溺れることができるのは、水にかたちがないことを知っている人だけです」という言葉をはじめとして、当たり前の(ように思える)ことがさまざまに語り直されて綺羅星の如く光り輝いています。昔話のように始まりながらも、着地が「うしろを見るな」のようでぞくっとしました。
 

「2 月と死の気配」

月下の恋人」浅田次郎(2004)★☆☆☆☆
 ――海を見に行こうよと、雅子は言った。雅子の唐突な提案は、別れ話を察知していたかのようだった。高校のクラスメイトだった僕らは古風な性格で、恋人がいなかった。「みんなあの人が悪いの」僕らの恋を他人のせいにするなら、たしかにその易者しかいない。海に着くと旅館に泊まった。「話があるんだけど」「私の話を、先に聞いてね」

 浅田次郎のロマンティシズムべたべたの文体は苦手です。いい歳をした大人が過去に浸りきってナルシシズム全開で回想しているのは気持ち悪いのひとことに尽きます。
 

「月とコンパクト」山川方夫(1963)★★★★☆
 ――そのとき私は夜汽車で伯父の家に向かっていた。向かい側の席にはでっぷり肥えた中年の紳士と髪に白いカーネーションを挿した若い女がいた。おそらく父娘だろう。茅ヶ崎を過ぎたころ、女が髪から花を抜いてシートに落し、席を立った。ごく自然に、手洗いに立ったのだと思った。ところが大声がして急ブレーキがかかった。飛び降りだよ!

 衝撃的な発端。関係者同士の邂逅という有り得ないほどの偶然。はっきり言ってこれだけでも一つの作品にはなっていたでしょう。けれどそこからさらに怪奇幻想めいた出来事が起こります。果たして最後に映った景色がコンパクトの中に閉じ込められているのか、はたまた意図も手段も皆目わからないながらもトリックが用いられたのか。その出来事をきっかけに自分の過去に思いを馳せ、月を「凍死した古い地球の過去」と表現し、地球という「若々しい生きている産みの親をはるかな高みから眺め下ろし」ているという発想が非凡です。
 

「月夜」林芙美子(1939)★★★☆☆
 ――あつくるしい夜だけれど/あの月のいろはどうだらう/……/つれなくさびはてた海底の船のデツキは/月光を眺めようとひとがひしめき歩いてゐる/……/幽闇の慟哭はうすい波間に消えてしまひ/そのためいきは不知火となつて/月夜の水平線を走つてゆく。

 最初の二行は素晴らしいのですが、そこから先は情景の描写になり、最後はきれいではありますがありきたりな譬喩で終わってしまいます。
 

「月」千家元麿(1922)★★★☆☆
 ――大きな怪物めいた剥皮体のやうな/赤く破壊《こは》れた半月が/暗い水のやうな地平に浮いてゐる/何かにぶつかつて二つに割れた断片のやうに/酸鼻の姿である/見てはならないものを見たやうに思ひ/空気はそよともせず/巨人の掌の上のやうに/森も河も小さく死んだやうに/夜の神秘の光りに浮んでゐる/天変地異でも起りさうだ

 これで全文。三日月でも満月でもなく、ぱっくり割れたような赤い半月というのが不気味さを誘います。
 

「月」金井美恵子(1978)★★★★☆
 ――母が言うには、わたしは夜でももう一人でおつかいに行ける年齢だった。お前のお姉さんなど(彼女は六歳で死んだのだが)、自分の飲む粉末ミルクを買いに行った、と父は上機嫌に笑う。急行列車が街に着いたのは夜遅くで、わたしは予約をしていたホテルが以前とはすっかり変ってしまっているのに驚いた。死者についてかつて抱いていた恋のことを思い出そうと努めてみたが、何も思い出せなかった。それでも彼女を恋していたことがあったのだ。

 おつかいと死んだ姉の思い出から思いは飛んで、死者に会いに故郷へ帰ってきた現在の出来事が綴られたかと思えば、やがて過去も現在もそれどころか語り手さえもが交錯して一つになる結末が衝撃的です。
 

「3 身体のリズム、ルナティックな心」

「ルナティック・ドリーム女性器篇」松浦理英子(1986)★★★★☆
 ――あなたは女性器を持たない。わたしが持っているのが女性器だ。女性器は血と親しい。女性器はまた月と親しい。もはや行為によっては赤に染まらぬわたしの性器だが、月の満ち欠けに呼応して二十八日おきに血糊を吐き出すのは相変わらずである。

 生理を身体のリズムと捉え、リズムは同調し、生理周期が月の満ち欠けに影響されるように生理周期が月に影響を与えるという、奇想あふれる理屈が魅力的です。月も人間も自然の一部なら、少なからず似たようなことはあってもいいのでは……とさえ思ってしまいます。
 

「月光と蔭に就て」伊藤整(1932)★★★★☆
 ――鈴子は、私が茫然としていることを嫌った。私は書物を読んでいないとき、翻訳をしていないとき、必ず彼女と話し、愛撫しなければならなかった。でなければ、私が死んだ葉子のことを考えている、と言いだすのだ。あなたは、妾《わたし》が葉子さんの病気をわざと手遅れになるようにしたと考えているのだわ。

 月明かりの下の夢遊病者。絵に描いたようなゴシックハートあふれる場面です。前妻の死とそれにまつわる夫婦間のしこりがあるなか、月影によって際立たされた暗闇のなかで自分以外は眠りと死という状況下では、確かに闇に引きずり込まれてしまいそうです。心中や自殺というのはこういうときに起こってしまうものなのではないでしょうか。
 

「月夜の浜辺」阿部昭(1972)★☆☆☆☆
 ――高校時代Mという級友がいた。彼と過ごした高校三年間に、私は文学というものの或る気分のようなものを教わったように思う。受験時代のある晩、Mが濡れた砂の上に一個のボタンを見つけた。

 Mというかつての級友に対する劣等感を、中原中也の詩「月夜の浜辺」そのままになぞった身辺エッセイ。
 

「都会の夏の夜」中原中也(1929)★★★☆☆
 ――月は空にメダルのやうに、/街角に建物はオルガンのやうに、/遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。/――イカムネ・カラアがまがつてゐる――//その脣は?ききつて/その心は何か悲しい。/……

 中原中也が飲み会帰りのサラリーマンの詩を書いているとは思いもしませんでした。「イカムネ・カラア」とは何のことだかわからなかったのですが、礼装用の胸当てを「烏賊胸」と呼んだのだそうです。「死んだ火薬」とは花火のことでしょうか。
 

「殺人者の憩いの家」中井英夫(1978)★★★★☆
 ――「あなたがお書きになった“月光浴”という言葉。あれはいいですね。月光療法なんてしゃれているじゃありませんか」所長は新聞記事を見せてくれた。“本当に月の光で膚が焼けるんですよ”。「月光より月蝕の方が似合うかもしれませんな。この療養所を月蝕領と名付けたくらいです」月蝕領主。私は嫉妬した。その名を名乗るために所長を抹殺して、私が代わらねばならぬと知った。

 法の手を逃れた殺人者の収容施設「月蝕領」の領主に収まりたいと考える著者を思わせる語り手が、ひそかに領主の地位奪取を企むという虚実綯い交ぜになった作品で、かなり自虐的な内容です。
 

「4 月の人/月のうさぎ/かぐや姫

「月の人の」井上靖(1976)★★★☆☆
 ――角川源義氏のお見舞いに上がったのは、亡くなられる前日であった。その病院からの帰りに、出版部の方から「俳句」十一月号を頂戴した。その中に「月の人の一人とならむ車椅子」というのがあった。

 これは井上靖のエッセイが良いのではなく、角川源義の俳句あってのものでしょう。わたしは竹取物語に出て来る月の都の人の飛車を連想しましたが、そうなると「月に還る」というような句意になるのでしょうか。
 

「月と手紙――花嫁へ――」尾形亀之助(1928)★★☆☆☆
 ――私はあなたと月の中に住みたいと思つてゐる。でも、雲の多い日は夕方のうちに街に降りて噴水の沢山ある公園を散歩しよう。私は手紙の中へ月を入れてあなたへ贈つたのに、手紙の中に月がなかつたとあなたから知らせがあつた。
 

「月夜の電車」尾形亀之助(1926)★★☆☆☆
 ――私が電車を待つ間/プラツトホームで三日月を見てゐると/急にすべり込んで来た電車は/月から帰りの客を降して行つた

 ポエムと言って馬鹿にされるような、悪い意味での詩人という印象です。内省的で感傷的で観念的な自己陶酔的な言葉の羅列で、あまり好きになれません。
 

「明月」川端康成(1952)★★★☆☆
 ――今年は十月三日が仲秋の明月ださうな。私は一日の夕方、宗達の墨絵の兎を床にかけて箱根へ書きものに出た。月子の誕生日に東京にゐないわけなので四五日前に祝つておいた。月子は妹の子だが、仲秋明月の日に生まれて、月子と名づけられてゐた。月子の誕生日は旧暦で祝ふことになつてゐた。

 仲秋の明月の日に生まれたので月子とは、いい名前です。誕生祝いをいつも十五夜にするのでたまの洋食レストランだと喜んだり、車の明かりに照らされて萩を見る美しい場面などの、何でもない描写が印象に残ります。
 

「月」宮尾登美子(1987)★★★★☆
 ――人間が初めて月面に下り立ったとき、月に対するイメージが狂ってしまうのではないかと懸念したが、従来どおり仰ぎ見ることが出来る。月はやはり嬉しいときよりも悲しいときに眺めるのがふさわしい。直木賞に落選した晩、夜更けの町をひとりで月を見ながら歩きまわったものだ。

 科学と月の神秘性、悲しいときが似合う月、など、いちいち首肯できるエッセイです。最後は月の名で終わるのですが、なぜか「覚えるのが楽しみ。」と中途半端な体言止めで終わっているので文章の調子が台無しになってしまっていました。
 

「月の兎」相馬御風(1936?)★★☆☆☆
 ――月の中の黒い陰を兎と見立てた最初の人はどこのいかなる人であつたらう。それにしても、人々はなぜもつと\/さま゛\/にあの月面の黒影に形を与へて見ないのだらう。なぜ人々は幼い者共にまでも自由な想像の代りに昔ながらの型を与へようとしてゐるのであらう。

 月の兎に関するつぶやき。もっともらしいことを言っているようでただの放言です。子どもが好きに想像しても記録や伝承に残らないだけでしょ。この人、自分の子どもと遊んだことないのかな。
 

「月夜」前田夕暮(1929)★★★★☆
 ――微かな月光の下の一路を、白い薄い服をきて、一人の若い女がほのかにくる。「貴女はどこから来ました。」と私は訊ねる。「妾は妾の寝台から。」と彼女の言葉は打ち烟つてゐる。「月は毎晩、明るい光で白い妾の寝台を照らしてくれます。さうすると、妾の魂が明るく静かに眼をさまします。さうして妾は私の故郷へ参ります。」

 著者は歌人。語り手が月光の下で離魂病者の魂と出会う話ですが、果たして語り手の体験自体が現実なのか夢なのか判然としません。描かれている光景はそれだけ幻想的で、月の光が「味覚的」であり「掌の上にほのかに反射する」「空をあふぐと顔に冷たい滴りを感じる」ように、どこか物質的に描写されています。だからこそ最後の「白い芙蓉の上に朝の月がほのかに淡くのこつてゐた。」という〆の一文に力があります。
 

「赫映姫――姫の歌える――」原田種夫(1967)★★★★☆
 ――お翁さん お嫗さん お別れです。さようなら。わたしは もう 月のお宮へ還るの。もとの天人になるの。わたしは めんど臭い 生死苦楽の 塵の世に 飽きました。愛想がつきたの。嫌になったの。

 かぐや姫視点の別れの詩。いいだけ好き放題した挙句に文句を言って外国に旅立ってゆくドライな自立した女みたいです。日本って最低、アメリカは天国なの、みたいな。原典でもかぐや姫って何のために地上に来たのかよくわからないですし、実際こんな勝手な感じかも、と思わされます。
 

「5 月見の宴を、地上で」

「お月さまと馬賊小熊秀雄(1976)★☆☆☆☆
 ――ある山奥に大勢の馬賊が住んでをりました。酒に酔つた馬賊の大将が冷たい風に当たらうと外に出ると、『なんといふ、きれいなお月さんだらうな』。月に浮かれて気づくと山塞からだいぶ離れてをりました。街の灯を見た大将は急に荒々しい気持ちに返り、たつた一人で襲撃し、捕まつて首を切られてしまひました。

 童話ふう。
 

「月と狂言師谷崎潤一郎(1949)★★★☆☆
 ――わたしがあの疎開先から京都へ出て来てからまる二年になん\/とする。町内にも顔馴染が出来、私たちは昨今では狂言の千五郎氏を贔屓にしてゐるのであつた。月見もかねて狂言と小舞の会をすると云ふ案内があつて、もしも私が出席するなら千作翁と千五郎氏とが特に一番づゝ舞つてくれると云ふことであつた。

 後半は代わる代わる演じられる演しものについてひたすら説明してゆくちょっと忙しい文章なのですが、自分の好きなことを全部書きたい!という感じが伝わって来てお茶目とさえ言えるようなエッセイでした。
 

「月夜のあとさき」津村信夫(1940)★★★☆☆
 ――私の宿つた坊では、月夜の晩にはきまつて蕎麦を打つた。蕎麦を打つのは家内総出であつて、少年と雖も心得てゐる。もつとも少年少女はこつそり蕎麦粉を盗んで粘土細工のやうにするのが楽しみなのである。坊の娘はいつも着物を長目にきるので、歩くたびにかすかな衣ずれがする。まるで昔の人のそれのやうである。

 室生犀星の弟子とのこと。足の速い老婆がただの前座話なのが可笑しい。「戸隠では、蕈と岩魚に手打蕎麦」というメモのそれぞれがまったく別々の話だし、月夜の話であるのに月の美しさ自体は描かれることなくその周辺のことばかり記されていたりと、つかみどころのない作品でした。
 

「月、なす、すすき」西脇順三郎(1961)★★★☆☆
 ――すすきが穂の先を少し出かかった時分はなんともいえない自然の風味を覚える。これは風流心とか俳味を解するからでなく、ごく普通の素朴な自然愛からであろう。すすきに関連して思うに、なすも日本の夏から秋への風情をますものであると思う。

 十五夜とすすきという定番の組み合わせに、茄子を取り合わせたところに創意があります。
 

「名月の夜に」横光利一(1939)★★★☆☆
 ――昨夜の睡眠不足のところへ写真である。今夜は名月だから月見をしたいと思つたが眠い。次男の一年生が読本を両手に捧げ、「オツキサマ」のところを大きな声で読み始めた。句を一つ作らうとしてみたが、家内が剥いてゐた林檎の匂ひばかりひどく漂つて、句にならぬ。

 エッセイですらない日記のようなもので、身も蓋もない眠いという感想に大笑いしました。「写真である」と言われても、これだけ読んでも何のことやらさっぱりです。
 

中秋の名月太田治子(1989)★★★★☆
 ――中秋の名月が近い。まんまるなお月さまもよいが、十三夜もよい。うなじの清らかな少女に似ているといったのは、三年前に空にいった母である。「十二、三歳の少女がきれいなように、満月になる前が一番清らかで美しい」。一足飛びに、大人になりたかった。新派のお芝居にでてくるような、明治の奥さまに、ひたすらあこがれていた。ところが実際に大人になって、独身のまま二十五を過ぎると、奥さんでもないのに奥さんと呼ばれるようになった。

 十三夜をうなじの清らかな少女に似ているといった表現もいいですが、何よりも文章が美しいので、ただ読んでいるだけで心洗われる気持になれます。著者は太宰治の娘だそうです。
 

「6 大陸の月、近世の月」

「月光都市」武田泰淳(1948)★★☆☆☆
 ――毎日さまざまな中国人に接触していると、杉が支那文化に抱いていた思想や考え方の順序までが雲散霧消して、後にはあたり前の旅人の感覚だけが残っていた。「半年やそこらでわかろうとしたって駄目よ」と博士夫人は杉を子供あつかいした。「徐光啓の墓が見つけられなくて、教会だけ見てきましたよ。一度は事務所の給仕と一緒に」「ああ、あの閻姑娘と。あの子キリスト教なの?」

 武田泰淳は好きな作家ではありません。土臭い話ばかり書いている人という印象です。
 

「月の詩情」萩原朔太郎(1940)★★★☆☆
 ――昔は多くの詩人たちが、月を題材にして詩を作つた。月とその月光が、何故にかくも昔から、多くの詩人の心を傷心せしめたらうか。すべて遠方にある者は、人の心に憧憬と郷愁を呼び起し、抒情詩のセンチメントになるからである。しかも青白い光を放散して、燈火の如く輝いてゐる。そこで自分は生物の本能である向火性といふことに就て考へてゐる。

 かつて月を詠んだ詩歌が多かった理由について真面目に考察しているのでしょうが、導き出された答えがプラトニツク・ラヴやらフエミニズムやらでは、とてもではないけれどついていけません。最後には都会も田舎も電光化されてしまって云々という平凡な結論になってしまっています。
 

「町中の月」永井荷風(1938)★★★★☆
 ――燈火のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降ると、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、大きく浮んでゐるのを見ることがある。街上の人通りを見ると、誰一人明月の昇りかけてゐるのに気のつくものはないらしい。佃のわたし場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋から南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。

 散策の過程と物思いを綴ったエッセイですが、月を見ながら歩くという行為自体が古き良き時代のゆとりある行動のようで、何だかうらやましくなりました。
 

「句合の月」正岡子規(1898)★★★☆☆
 ――句合の題がまわつて来た。月といふ題がある。最初に浮んだ趣向は、月明の夜に森に沿ふた小道を歩行いて居る処であつた。景色が余り広いと写実に遠ざかるから狭く細かく写さうと思ふて、森の影を蹈んでちら\/する葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても月は葉隠れになつた儘で自分の顔を照す事はないといふ趣を考へたが、長すぎて句にならぬ。

 俳人である著者が俳句作りに当たって頭の中に描き出した光景を文章化していて、芸術作品の創作状況を知ることが出来る貴重な内容です。俳句を作る人には参考になるのでしょうか。
 

「7 月面着陸と月の石」

「月に飛んだノミの話」安部公房(1959)★★★★☆
 ――会議は午前零時きっかりにはじめられた。零時より前は会場がふさがっていた。ここは私の行きつけのバーだったのである。全国害虫協議会の出席者の大半はノミだった。当夜の議題は「せまりくる平和の危機をどうするか」……以前なら、自然から遠ざかった人間を、戦争が引戻してくれた。しかし今度ばかりは平和がながすぎた。

 地球を見限りロケットで月に行こうとするノミの話で、これは月じゃなくても海底コロニーでも何でもいいと思うのですが、人間のいないところに行く理由として人間の心理が挙げられていました。ちょっとこじつけめいて感じられましたが、蟻を踏み潰す子どもというよく引き合いに出される例えを考えれば、一つ目は無くは無いのでしょう。二つ目の理由にしたって、つい掻いちゃう気持はわかります。
 

「月世界征服」北杜夫(1963)★★★★☆
 ――ポリネシア諸島にあるイッツアライ島が独立した。文明の余波がこの島を侵しつつある。日本商社の男がシャボン玉の製法を伝え、以来島民たちは日がなシャボン玉をふくらまして暮らしている。夏の暑さのため大酋長がふきげんになった。「この島は独立国だ、国威を発揚せねばならぬ。科学大臣を呼べ」。科学大臣はケンブリッジ卒のインテリであった。「米ソが月へロケットとやらを射ちあげようとしているのは事実か?」「さようです」

 ナンセンス・ユーモア作品かと思っていたら、きちんと伏線が張られてあって、さらに笑いました。「It's a lie」をはじめとした、ぬけぬけとした法螺が小気味よかったです。
 

月世界旅行安西冬衛(1964)★★★☆☆
 ――クラブ「ダイアナ」/ボックスへきたのは/森田という厚木育ちのホステスで/黒い絹靴下の留金の十仙銀貨《ダイム》が/三文オペラモリタートを思わせた。/バー「ムーン」/カウンターでしけていたのは/上越線月夜野がふるさと/「だもん、月乃」と/繊い糸切歯を見せた/……

 くだらない。月にゆかりのある酒場で出会った女たちが詠まれています。1964年というとアポロはまだ計画・準備段階で月に行ってはいなかったことを考えると、当時の人々には有人月面着陸なんてそうした冗談程度の絵空事だと思われていたのかもしれません。
 

「私のなかの月」円地文子(1975)★★★☆☆
 ――アポロ8号が月のまわりをまわって帰って来たころ、友だちが興奮して、これからは月をみる目が違って来るといった。今度の11号の人たちが月面に足をつけても、月はあのままの月であって、うさぎもかぐや姫も住わせて置くことが出来るのである。月の魅力を多く感じるのは、都会育ちのものの方に多いかもしれない。

 そりゃそうだよね、という内容です。見慣れている人にとっては特別なものでも何でもないに決まってます。
 

「月の石」高橋新吉(1972)★★★☆☆
 ――月の石を見た/四十五億年の黒い色/それは地球の黒さとちがっている/今まで見たことのない色である/深々とした黒い色だ/不思議な色だ/これほどまでに地球のものと/ちがっているとは思わなかった/豊かな色である/これから先五十億年は変色しないだろう/……

 月の石に肉眼での違いを認めるのは詩人ならではのロマンチシズムであり、そこに真理を見るのも詩人ならではのデリケートな感性です。
 

「月のいろいろ」花田清輝(1992)★☆☆☆☆
 ――サーバーの『たくさんの月』という話は、月を最初から手のとどかないところにあるものだときめつけている大人たちより子供たちのほうがまだしも見どころがあるといいたかったのであろうか、それとも子供たちというものはにせものをほんものと信じこむほどおめでたいといいたかったのであろうか。たしかにレノア姫は今日の子供たちにくらべると時代おくれかもしれない。

 評論家とは因果なもので、ジェイムズ・サーバー『たくさんのお月さま』の内容にすら意味を見出そうとしてしまうようです。しかもそれがことごとく陳腐なのが悲しい。そのうえ自分で否定的なことを言っておいてからそれをひっくり返すという自演ぶり。昔は花田清輝、好きだったんですけどね。これでは何にでも取りあえず文句をつけておくだけのご意見番おじさんです。
 

「湖上の明月」瀬戸内寂聴(1989)★☆☆☆☆
 ――ふと車窓を見ると、大きな満月がぽっかりと空中に浮き、白金色に輝いていた。思わず私は見知らぬ乗客のだれにともなく、「まあ、きれいなお月さま」といってしまった。「あんな月見ると、なにやら死後のことが思われてくるなあ」六十すぎの男らしい。「そうかなあ、ピンときいしまへんなあ」二十代らしき黄色い声。

 クサい。満月を見て思わず見知らぬ乗客に声をかけてしまったというのもクサいし、それをきっかけに月を見て話し始めた乗客たちの言葉の一つ一つがクサすぎます。

  

『世界ショートショート傑作選1』各務三郎編(講談社文庫)★★★★☆

『世界ショートショート傑作選1』各務三郎編(講談社文庫)

 1978年初刊。
 

「クライム&ミステリー」

「走れ、ウィリー」ヘンリー・スレッサー矢野浩三郎(Run, Willie Run,Henry Slesar,1959)★★★★★
 ――ウィリーは監房の寝床に腰かけて、足を前後に動かしていた。子供のころから耳からはなれないあの声が聞こえた。走れ、ウィリー。お袋に言われて買い物に走った。上司に言われて注文を届けに走った。けれど、それだけだった。「あつらえ向きの楽な仕事なんだ」とその男は言った。「大金をもった年寄りだ」

 走ることだけが取り柄の男を評価してくれたのは犯罪社会だけでした。監房に閉じ込められた死刑囚のラスト・ラン。走ることが喜びであり生きている証拠だったウィリーだからこそ、たった五十ヤードが胸を打ちます。
 

「失礼、番号ちがい――ではありません」チャールズ・アインスタイン/各務三郎(Sorry, Right Number,Charles Einstein,1958)★★★☆☆
 ――スローン夫妻はマーティンスン夫妻についてくわしくならざるを得なかった。過去十二年おなじ共同電話を使用してきたのである。電話をかけようとして受話器をとると、マーティンスン夫人が話し中ということがよくあった。そのたび「盗み聞きはやめてよ」とかみついてくる。あるとき受話器をとると、マーティンスン氏の声が聞こえた……。

 迷惑で不快な隣人に対する良心と悪魔の囁きとのせめぎ合いの果てに、最後の最後にすでに思い出話にしてしまっているのが可笑しかったです。
 

「五人目の客」G・G・フィックリング/小鷹信光(The Fifth Head,G. G. Fickling,1963)★★☆☆☆
 ――ジョージ・マレイが死んだ。十二の斧傷が見つかった。床屋のフレッドは午前中で五番目の頭に取りかかりながら、ジョージの話ばかり繰り返していた。店に入ってきたログ・メルトンにもその話をした。「ジョージがきらいだったな、あんた」「いやなやつだった」よそ者である五番目の客も「誰が殺したと思う?」と会話に参加した。

 果たして殺人犯なのか否かというリドル・ストーリーのような不気味さが魅力的な話だったのですが、オチのある話にしてしまったことで辻褄すら合わなくなってしまいました。ただの狂人ということでしょうか。
 

「とんだ災難」ジェームズ・M・アルマン/石田章訳(I Never Felt Better,James M. Ullman,1964)★★★☆☆
 ――ラリー・スプルーイルは、自分が死んだのを知った。ラジオのニュースが飛行機事故の被害者を報じている。「ヘレン、すぐにマイアミのルディーを呼び出せ。わしがエルパソにいることが知れたら,取引がおじゃんになる」「社長と同じ名前の人物が飛行機に乗っていたのでしょう……」「だまれ、役立たず」

 比較的長めの作品ですが、社長がいかにむかつく奴であるかをしっかり書けば書くほど効果的なので、この長さも必然なのでしょう。抜きん出たところはありませんが、平均的なオチのあるショート・ショートでした。
 

チェックメイト」サミュエル・W・テーラー各務三郎(Checkmate,Samuel W. Taylor,1939)★★★☆☆
 ――保安官助手は自分が追っている殺人犯に命を助けられた。二人は冬の間、チェスをして過ごした。「おい、トレンチ。どうして仲間を殺したんだ?」「ビルのやつ、靴下を洗おうとしなかったんだ」「お前を逮捕する」たっぷりと時間をかけたが、トレンチは猟銃を取ろうともせずチェスを続けた。

 ひとたび恩義を感じてしまうと悪いようには出来ないのが人情でしょう。だからこそやむを得ず逮捕せざるを得ない状況を作り出そうとしているわけですが、なかなかうまくいきません。最後にはついに目的適うわけですが、保安官の機知が光ったわけでも落とし噺ふうにサゲているわけでもなく、サイコもののような味わいでした。
 

「死刑囚監房」ウィリアム・P・マッギヴァーン/中上守訳(Peter Fereney's Death Cell,William P. McGivern,1941)★★★☆☆
 ――あと一時間もすれば、ピーター・フェレニィは電気椅子にしばりつけられる。女房と親友の手で罪に陥れられたのだ。独房の中で、拳がごつんと固いものに当たった。目に見えない何かがあった。「ワレワレハ四次元ノ者ダ。アナタガ次元通路ノどあヲ開ケテクレタ

 進んだ文明を毒する野蛮な現実世界という発想自体はありきたりですが、罪に陥れられたことや死刑という制度があることがフェレニィの決断の理由になっているという点で完成度の高い作品です。
 

「危険な曲り角」ジム・ボズワース/小鷹信光(Around Any Turn,Jim Bosworth,1950)★★★★☆
 ――ジェイとマーガレットを乗せた車は、美しい町を通り抜けた。サンタ・バーバラ、ヴェンチェラ、サンタ・モニカ……。カーブにさしかかったとき、手を振っている男女が眼にとまった。ジェイは急ブレーキをかけた。「なぜとめるの?」「ただのヒッチハイカーさ」「危険じゃないかしら?」ラジオからは銀行強盗のニュースが流れてきた……。

 オチの予想がついてしまいますが、つまりそれだけよく出来た作品だと言えるでしょう。しかもオチについては言わずもがなのことは書かずに留めているのも優れています。
 

「心あたたまる記事」M・C・ブラックマン/各務三郎(A Good Little Feature,M. C. Blackman,1929)★★★☆☆
 ――五千五百ドルを持っていた老人が、七五セントの食料品を盗んで逮捕された。農場を売って町に来たばかりで信用できる銀行をさがしているという。居合わせた新聞記者は記事にしたがったが、巡査部長から釘を刺された。記事になんかしたらじいさんが強盗にあってしまう。

 目の前のことだけで頭いっぱいで、その前後関係にまで頭が回らない人や場面、いますしありますね。盗まれるお金がなければ強盗には遭わない……それはその通りなんですが、相手と会話が成り立って事情を聞いてくれる可能性の方が低いわけです。
 

「名人気質」ロン・スティーヴンス/竹内俊夫訳(King of the Meat Cleavers,Ron Stevens,1956)★★★★☆
 ――二等寝台室で道連れになった小柄なフランス人から完全犯罪の話を聞いた。寄席演芸で肉切庖丁投げをしていたアルフォンスと若い妻リタというのがいました。リタの嘲りの笑い。夫の顔には血の色がのぼってきます。リタを満足させることのできない夫。誇張された演技が見物人の満足感を満たしました。そしてクライマックス――。

 ストーリーも話の肝もまったく違うのですが、どことなくロアルド・ダール「南から来た男」を連想するのは、刃物と妻のあれが共通するからでしょうか。夫がおこなったのは完全犯罪というよりは賭けという方が相応しいのも一因でしょう。原題は「~Meat Cleaners」となっていて何のことやらと思いましたが、「Meat Cleavers」の誤植のようです。
 

「拝啓 ケスター様」ギルバート・ラルストン/藤田保訳(I am Not a Thief, Mr Kester,Gilbert Ralston,1961)★★★★☆
 ――ケスター農場S・J・ケスター様 拝啓 おれは泥棒なんかじゃないぜ、ケスターさん。あんたがおれとあんたの娘ミリーが金を持ち逃げしたとしゃべっているのを新聞で読んだんだ。いきさつを教えといたほうがいいな。おれとミリーはサンタモニカの美人コンテストで出会ったんだ。泳ぎにさそった次の日、ミリーと暮らすことになった。

 ミリーが花をぜんぶ切ってしまったという出来事が、いかにもかしましい女のいくつもあるエピソードの一つのように説明されているので、ありがちな結末のわりには先が読みにくくなっています。金を盗んじゃいないという言葉の真意は最後で明らかになります。フィニッシング・ストローク作品は多々ありますが、追伸という形は手紙形式だからという必然性もありこうした衝撃にはぴったりだと思いました。
 

「宇宙探偵小説作法」H・F・エリス/浅倉久志(Space-Crime Continuum,H. F. Ellis,1954)★★☆☆☆
 ――凶器はイプシロン光線かそれに類似した手段で、被害者から二光年以内の距離から発射されたものだ……。近く出る私の小説『点と線と面』からの一節だ。白状するとアリバイをどう処理するかがむずかしかった。

 『奇想天外 復刻版 アンソロジー』()にも収録されていました。出オチの身内ネタです。
 

「ミニー伯母さんと事後従犯者」サミュエル・ホプキンズ・アダムス/各務三郎(Aunt Minnie and the Accessory After the Fact,Samuel Hopkins Adams,1945)★★☆☆☆
 ――ぼくたちのアパートの同じ階に住んでいるハンス・ゴマー老人は四十年の乞食生活で大金を貯めていた。五、六十代の身寄りが一人いて、名前はフィニー。弁護士資格を剥奪された人物だった。月曜日の夜、ハンスじいさんが殺されたが、凶器のナイフが見つからない。

 ミニー伯母さんといっても実の伯母ではなく、同じアパートの最上階に住んでいる元教師です。観察眼の鋭い暇な老人というのは安楽椅子探偵にはもってこいなのでしょう。自殺に見せかけるのならともかく、殺しておいて凶器だけ隠してもしょうがないと思うのですが……。身近なネタを使った物理トリックでした。勝手に捜査したり犯人扱いしたりする傍若無人な語り手の職業が明記されていませんが、探偵なのか記者なのか、これがシリーズものなのかどうかも不明です。『怪奇小説傑作集2』の「テーブルを前にした死骸」の著者なんですね。
 

ツグミの巣」ヒュー・H・ケーヴ/藤田保訳(The Catbird Nest,Hugh B. Cave,1965)★★★☆☆
 ――町から一マイルほど離れた湖の両端に小屋が建っている。クズニック氏が借りている小屋に自動車が到着した。乗客を殺したクズニックは計画通り湖に死体を沈めたが、もう一つの小屋のピーブル教授が双眼鏡で鳥を見ているのに気づいた。もしや見られたのでは……。

 タイトルも「ツグミの巣」で、野鳥観察をしている描写がありながら、鳥ではなく釣りにも造詣が深くて釣りに関するクズニックの不自然な発言に気づくところが、意外性といえば意外性です。邦訳ではミドル・ネームが「H」となっていますが正しくは「B」のようです。
 

「黒板に百回」シド・ホフ/各務三郎(A Hundred Times,Syd Hoff,1966)★★★★☆
 ――コンプトン先生は美人だ。「フィリップ、先生の話をきいていましたか?」「い、いいえ」「だったら黒板に『授業ちゅうはぼんやりしません』と百回書きなさい」。ほかの生徒は算数の授業を続けていたが、隣の席のアランだけは見抜いていた。「フィリップは先生を愛してる」と言われてアランをなぐった。フィリップは黒板に逆もどりとなった……もうアランをなぐりません。もうアランを……

 前ふりからオチまで、ショート・ショートのお手本のような作品です。叱られ方がうまくなっていたという何気ないひとことも、罰を受ける前に自分から始めることにつながり、オチを補強していました。
 

「では、ここで懐かしい原型を……」ロバート・シェクリイ伊藤典夫(Meanwhile, Back at the Bromide,Robert Sheckley,1960)★★★☆☆
 ――お尋ね者ヴィラディンも年貢の収めどきだ。FBIに追われ、森を抜け山を登り、採石場に出た。まだチャンスはある。器用に偽物の石を作り始めた……。/秘密諜報員ハドリイが捕えられた。目の前には秘密警察長官とその下男、そして冷酷なマダム・ウィ。マダムたちが部屋を出ると、長官がすぐさまハドリイの縄をといた。「急ぐんだ、相棒」……

 タイトル通り古典的なショート・ショート三篇から成ります。『ミステリマガジン』2012年10月号()にも再録されています。「その一 必死の逃亡者」はイマイチでしたが、どんでん返しもののパロディである「その二 変装したスパイ」、密室もののパロディと思いきやホラーに転じる「その三 密室殺人」と、どんどん面白くなってゆきます。
 

「特別サービス」エド・レイシイ/大井良純(Pick-up,Ed Lacy,1959)★★★★☆
 ――デトロイトまで行きたがっているヒッチハイカーを乗せた。「職さがしねえ。いままでどんな仕事をしていたんだい?」「なにもしていません。スリをやって懲役刑を終えてきたところですよ」脱獄囚ではないだろうか。高速道路を避けて小さな町をいくつも通ってゆこう。時間は食うがスピードをあげはしなかった。わたしに誇れることがあるならば、それは安全運転である。

 どこかで読んだか観たかしたことがありますが思い出せません。ロアルド・ダール「ヒッチハイカー」が同じような話らしいのですが、オチのきれいな作品なので、類話はいくらでもあるのかもしれません。
 

「怪奇&幻想」

「風のなかのジェレミイ」ナイジェル・ニール/長島良三(Jeremy in the Wind,Nigel Kneale,1949)★★★☆☆
 ――わたしがはじめて彼に会ったのは、風の強い日でした。彼は野原のまん中に立ち、地面にまかれた種をついばむ黒い鳥に腕を振り回していたのです。「ジェレミイ、一緒に散歩しない?」わたしはジェレミイの腕をとり、足をひっぱり出してやりました。

 案山子を友人と思い込むサイコパスの一人称で綴られる犯罪記録で、飽くまで案山子を人間として描き自分を善意の人間だと思い込んでいるところに恐怖を感じます。
 

「浮遊術」ジョセフ・ペイン・ブレナン/各務三郎(Levitation,Joseph Payne Brennan,1958)★★★★☆
 ――〈モーガンの驚異の見世物〉の催眠術師が客の若者を舞台に上げ、催眠術をかけている最中、だれかの投げたポプコーンがとんできた。ポプコーンは若者の頭に当たり、術は失敗した。催眠術師はポプコーンを投げた男を舞台に上げて改めて術をかけた。「眠れ、眠れ……浮き上がれ!」

 ジョン・コリア「登りつめれば」やコッパード「消えちゃった」のような不条理な読後感でした。実際に魔術というものがあった場合、果たしてスイッチはオンの状態のままなのか、電源自体が落ちるのか、興味のあるところです。
 

「夢の家」アンドレ・モロア/矢野浩三郎(La Maison,André Maurois,1931)★★★★☆
 ――五年前、大病をしていたときのことでした。毎晩おなじ夢ばかり見るのです。田舎道を歩いていくと、遠くに白いひくいお家が見えます。繰り返し見つづけたので、子供の頃これと同じ庭園と家を見たことがあるに相違ない、その家をつきとめてみたいと考えるようになりました。そして遂に、夢の家を捜しあてました。

 いくつかのアンソロジーにも収録されている名篇で、『幽』7号()にも小林龍雄訳「幽霊屋敷」が掲載されていました。生死の境をさまよった折りの臨死体験や離魂体験はよく聞くところですが、表向きはそれを穏やかで美しい「夢」として描き、最後に裏から怪談として反転させる構成は、怖いかどうかはともかくとして衝撃と余韻を与えることは間違いありません。視点が違えば見え方も違うという当たり前のことだけで優れた幽霊譚ができあがるのだと感心しました。
 

「二〇〇〇年」ロバート・アバーナシイ/浅倉久志(The Year 2000,Robert Abernathy,1956)★★☆☆☆
 ――元旦の朝はすがすがしく明けた。ジョゼフ・ブロークは目をあけて回春ルームへ歩いていった。電子走査機が老廃分子をとり除き、新しい分子を補充していった。朝刊によれば、わが国の驚異的繁栄にかんがみ税金の全廃法案が可決、カゼの完全治療法発見……。

 オチがわかりづらいのですが、「いまでは見なれたものになった奇形」という表現があることから、どうやら核戦争か何かがあった未来のようです。「いつからの勘定だい?」という台詞から、キリスト紀元2000年ではなく原始時代の2000年かとも思ったのですが、この台詞はただの皮肉なのでしょう。
 

深夜特急」アルフレッド・ノイズ/高見沢芳男訳(Midnight Express,Alfred Noyes,1935)★★★★★
 ――それは赤いバックラム装幀の痛んだ古本。モーティマーが十二歳のとき父親の書斎で見つけた本だ。題名は『深夜特急』。五十頁目に一枚の挿絵があったが、眺めることができなかった。こわかったのである。その絵には恐ろしいものはなかった。夜の鉄道のプラットホームに一つの人影があり、トンネルに顔を向けていた。

 「続いている公園」であり「うしろを見るな」であり『ドリアン・グレイ』でもあり、その他いろいろこれだけ詰め込みながらうるさくなっていません。この手の作品の極北でしょう。モダンでありながらも導入は「子どものころ恐ろしくて開けなかったページのある本」というクラシックな恐怖。『もっと厭な物語』()に「深夜急行」の訳題で収録されているのですが、内容をまったく覚えていませんでした。当時の感想も「よくあるタイプの作品」と書いてますね。
 

「ふるさと遠く」ウォルター・S・テヴィス/伊藤典夫(Far From Home,Walter S. Tevis,1958)★★★☆☆
 ――管理人が、奇蹟をうすうすと意識したきっかけは、そのにおいだった。それは、海のにおい――大きな海草の生いしげる、みどりの塩水をたたえたあの海原のにおい。こんな砂漠の町の、朝の市営プールの更衣室で――。プールの中にいるのは、たしかにクジラだった。

 アンソロジー『冷たい方程式』新版()にも収録されています。この作品が面白いのは、実は有名なある型【※三つの願い】であるにもかかわらず焦点がその【願い】の内容と顛末にはなく、その型をオチ(というか真相)に使っているところでしょう。そうでありながら結末を落とし噺ふうにではなくノスタルジックなところに持っていくのも非凡です。著者は『ハスラー』『地球に落ちてきた男』の原作者だそうです。
 

「ルーシーがいるから」ロバート・ブロック/各務三郎(Lucy Comes to Stay,Robert Bloch,1952)★★★☆☆
 ――「こんなことしてちゃいけないわ」ルーシーはわたしより頭がいい。けっして酒など飲まないし、身動きとれない立場に追いこまれたこともない。「ジョージやお医者さんたちはあなたになおってほしくないのよ。看護婦のミス・ヒギンズは見張り役。それにジョージと……」

 ロバート・ブロックらしい、とも言えます。よく出来ているとはいえ、今となっては陳腐な内容なのは致し方のないところでしょう――けれども、最後の一文によってそんな感想は吹き飛ばされます。飽くまで「のように」と書いてあるのが怖い。
 

「一ドル九十八セント」アーサー・ポージス伊藤典夫($ 1.98,Arthur Porges,1954)★★★☆☆
 ――ウィルがいたちから救ったねずみは小さな神さまだった。「わたしは神だ。チェスでインチキした罰として、百年ごとにねずみの姿に変えられるのだ」「なにか、ご褒美とか――」「いかにも。しかし小さな褒美で我慢してくれ。見てのとおり、小さな神なのでな、一ドル九十八セント分が限度だ」

 普通は人間の側が知恵や悪知恵を絞って得をしようとするものですが、神さまの方で知恵を絞ってくれるところが変わっています。恋する主人公からすればがっかりなオチであるとともに、一ドル九十八セントの価値の意外性と、小さくてもさすが神さまという現象の、三つの味わいがぶつかり合う何とも言いがたい結末でした。
 

「遅すぎた来訪」ジョン・コリア/矢野浩三郎(Are You Too Late or Was I Too Early,John Collier,1951)★★★☆☆
 ――田舎でならば決まりきったありきたりの生活もいいものだ。私は部屋のカーテンを四六時中閉めたままにして、思い出したときに食べ、読書と喫煙にふけった。目を覚ましたとき、コルクのマットの上に、濡れた素足の足跡をみつけた。それは女の足跡、ニンフの足跡だ。私のさまよう精神が、幸運の貝殻から伴侶をつれて帰ってきたのだ。

 これを「遅すぎた」と表現するところに毒があります。たとえ早かったとしても語り手には何も起こらず運命は変わらなかったでしょうから。【語り手が幽霊だったという】よくあるタイプのオチですが、幻想譚ふうの本文とタイトルの毒のギャップによって月並みな作品ではなくなっていました。
 

「ふだんの一日」ウィリアム・F・ノーラン/竹内俊夫訳(One of Those Days,William F. Nolan,1962)★★★☆☆
 ――青と黄のまだら蝶がラ・ボエームの「おお、わが愛しのミミよ」をひらひらと唄っているのを耳にしたとき、ぼくはふだんと変わらぬ日になりそうだと思った。これからすぐに精神分析医に診てもらったほうがいいだろう。バスから降りたとき大きなぶち猫がとび出してきた。「どいた、どいた! 道をあけてくれ。この赤ん坊を通してくれ!」

 語り手ははじめから「ふだんと変わらぬ日」と言っているのだから、それを無視して何かあるだろうと思うのは、読者が小説の起承転結というものに知らず知らず縛られているからなのでしょう。頭がおかしいと思ったら頭がおかしかったというそれだけのことが意外な結末になり得るというのは新鮮です。
 

「選択」W・ヒルトン-ヤング/高見沢芳男訳(The Choice,W. Hilton-Young,1952)★★☆☆☆
 ――未来へいく前にウィリアムズはカメラとレコーダーを買い、速記も習った。「いってこいよ、でもあまり長くなるなよ」とぼくは言った。「そうするつもりだ」とウィリアムズ。実際すぐに戻ってきた。「どうだった?」「じつはなんにも思い出せない」「どういうわけだ?」「たったひとつだけ思い出した」

 ところどころ意味が通らないので原文で確認したところ、「He must have made a perfect landing on the very second he had taken off from.」なので、「きっちり離陸一秒後の時間に着陸したに違いない。」タイムマシンで未来に行ってから、出発直後の時間めがけて戻って来たということですね。「He seemed not a day older; we had expected he might spend several years away. 」「一日も年取っていないように見えた。数年間は向こうで過ごすものと考えていたのだが。」。「"And you chose not to? But what an extraordinary thing to?" "Isn't it?" he said. "One can't help wondering why."」「『それで忘れる方を選んだのか? だけど何てことを――』『だよねえ。人間って不思議な選択をしてしまうものだよ』」。でしょうか。
 

ヒューマニスト」ロマン・ギャリ/大友徳明訳(Un Humaniste,Romain Gary,1962)★★★☆☆
 ――ヒトラーが権力の座についたころ、ユダヤ人の血を引くカルル・レーヴィというおもちゃ製造業者がミュンヘンに住んでいた。ユダヤ人の友人たちは荷物をまとめて亡命を勧めたが、ナチの制服をまとっていようと人間性に全幅の信頼を置いていた。戦争が起こり事態が急速に悪化したときも信念は変わらなかったが、予防手段を講じて地下室にこもった。

 そりゃ人との交わりを絶って自分だけの世界で生きていればいくらでも理想を信じ続けることはできるでしょう。家政婦と庭番のシュッツ夫妻に裏切られていることも知らず、戦争が終わったこともわからず、現実ではなく自分の頭のなかだけの理想を信じたまま死ねるのは、本人にとっては幸せには違いありません。
 

「金色の霧」ピーター・カーター/藤田保訳(The Mist,Peter Cartur,1952)★☆☆☆☆
 ――小男は言った。「わたしは幽霊などの専門家です。どうしても今夜その現象を見たいのです」。「土曜の夜は町に出かけることにしてるんだ」と大男は答えた。「その現象は今夜が最後かもしれないんです」「あんた、いい指環をしとるねえ」。二人は指環を取引して金色の霧のなかに足を踏み入れた。

 オチのわりには全体的に間延びしていますし、オチに持っていくための筋運びが強引なのも否めません。押し問答を短くして、指輪の部分がもっと自然に見えればまだしもだったでしょうが、どっちみち心霊ものかと思ったらSFだったというのが意外性ではなく落胆にしかなってませんでした。
 

「メリー・クリスマス」L・P・ハートリー/大井良純(Someone in the Lift,L. P. Hartley,1955)★★★★★
 ――「ママ、エレベーターにだれか乗ってるよ」「ただの影でしょ。ほら、空でしょ」いつもこんな調子だった。マルドン夫妻とその息子ピーターは、クリスマスをホテルで過ごす計画だった。エレベーターなるものを初めて見た息子はすっかり魅せられてしまった。ピーターは一つの仮説を立てた。父親と一緒のときは人影を見ることがないのなら、それは父親かもしれない。

 別訳題「エレベーターの人影」でも知られる作品です。子どもの空想上の存在をサンタクロースとからめて、エレベーターという場所ゆえの悲劇にまで持ってゆく展開に、いっさい無駄がありません。初めから静謐な雰囲気は漂ってはいるのですが、サンタクロースに期待する子どもを見て、読んでいる方としても同じように温い結末を期待してしまうんですよね。だからこそ結末がいっそう効果的でした。
 

「コント」

「人生の楽しみ」オルガ・ロズマニス/石田章訳(Scared to Life,Olga Rosmanith,1947)★★★☆☆
 ――小屋を建て直すあいだおじいさんは、ぼくの家に来ることになった。「噂話もないしケンカもない。なんとつまらんところに住んどるんだろう!」。おじいさんは手はじめに家じゅうを修繕してまわった。おじいさんの連れて来た犬が役に立つことがわかって、ママが犬を飼ってもいいといってくれたので、メキシコ人労働者の部落に仔犬を見つけにいった。ゆうべ、光って気味の悪いシャレコウベが走り去ったとかで、大さわぎだった。

 何ということはない、平凡の日常のなかに突然現れたおじいちゃんとのひとときです。こういうちょっと面白い親戚のおじさんってのはどこにでもいるものです。
 

「蛇踊り」コーリー・フォード/竹内俊夫訳(Snake Dance,Corey Ford,1934)★★★★☆
 ――「もしもし、ママかい。ジェリーだよ……先週送った金のこと? もちろん奨学金さ。フットボールの選手がもらうやつさ。部屋代は一セントもいらない。もう切るよ。じきに仲間たちがやってくるんだ」バンドの音楽が大きくなってきた。蛇踊りのかけ声がブラスバンドを打ち負かしそうになった。

 北村薫宮部みゆき編『教えたくなる名短篇』()で読んでいたはずなのにすっかり忘れていました。「snake dance」とは(優勝)パレードの行列のことです。都会に出て夢破れる話は数多くありますが、若くしてというところに何とも言えない悲哀を感じます。嘘は言ってないからこそ、落差が切ない。
 

「昨日は美しかった」ロアルド・ダール矢野浩三郎(Yesterday was Beautiful,Roald Dahl,1946)★★★★☆
 ――捻挫した足をさすって、崩壊した家のあいだを縫って海辺へおりて行くと、一人の老人がいた。「飛行機が撃ち墜されたんだ。小舟で本土に帰りたい」「イギリス人《イングレスス》かね。小舟はヨアニスが持っている。だが家はもうない。ドイツ人《ゲルマノイ》がけさ爆弾を落とした。家のなかには娘がいた」

 水槽というのがよくわからなかったので原文を見ると「drinking trough」家畜用の水飲み槽のようです。一瞬にして日常が失われてしまったときの、怒り・悲しみ・虚無……ありとあらゆる感情が、母親と父親の二通りの態度によって表現されていました。憎しみというわかりやすい感情を剥き出しにする母親に対し、父親のどうにもならないやるせなさこそ胸を打ちます。果たして語り手の飛行士は所詮は自分も同類だと自覚しているのかどうか。
 

「ゲームは公平に」テリー・サザーン稲葉明雄(Fair Game,Terry Southern,1957)★★★★★
 ――美容院にすわったグレイスは鏡にうつった自分にあらためて讃辞をおくる。すばらしい! 金髪にするとこうまで変るとは。ラルフはなんというだろう? 彼の好きな金髪の女が今後は自分のものになるのだ。帰り道でハリーを見かけた気がしたが、とにかく今は夫のラルフより先に帰宅しなくては。ハリーのことなどラルフは想像したこともないはずだ。二人の夫婦関係は機械的な友達づきあいに堕していた。が、はじめて出会ったときのラルフのすがたが突然ちらっと浮かぶ。ずっと昔のことだが、まだ遅すぎやしない。

 脚本家としては『博士の異常な愛情』『イージー・ライダー』の作家として著名なものの、小説家としては古くさいお色気コメディ『キャンディ』のみで知られる著者ですが、これが思わぬ拾いものでした。ちょっといい話ふうに落ち着きかけた道筋を裏切るオチは衝撃的ながら、やっぱり男はみんな金髪が好きなんですね……という笑いもあり、シリアスな人生の真実と間抜けなユーモアを同時に描き出すという技巧が凝らされていました。
 

「脚光」バッド・シュールバーグ/常盤新平(Spotlight,Budd Schulberg,1938)★★★☆☆
 ――「テストする候補者を何人か選んでくれ」監督がそう言うと、エキストラのあいだにざわめきが起こった。助監督は老人ところへやってきた。「おじいさん、あんたにおねがいするよ。にっこり笑ってこう言うだけでいい。『わしは待っていたのだ、三十年間も』」老人はうなずいてみせた。

 束の間だけ脚光が当たってからすぐに消されてしまった冴えない老人の、明らかにされた人生は、あまりにもクサく陳腐でした。著者は映画『波止場』の脚本家として有名です。
 

「赤色の悪夢」フレドリック・ブラウン小鷹信光(Nightmare in Red,Fredric Brown,1961)★★★★☆
 ――最初の“地揺れ”から一分後に襲ってきた二度目の“地揺れ”がベッドを揺さぶる。開いた窓から点滅する明りが見えた。夜の音が聞こえた。どこかでベルの音。こんな時間になぜ? 破滅を告げる警鐘なのか? 彼は走り出した。廊下のドアから外にとびだし、ゲートに通じる長い小径を走った。

 まさかこんな視点で語られる物語だとは、発想力に脱帽します。話の内容自体はたいして面白くないのですが、こんなことを思いついてやってしまえるんだという驚きとも呆れともつかないインパクトがありました。
 

「オスカー賞の夜」ジョン・マクレーン/石田章訳(Crybaby,John McClain,1946)★☆☆☆☆
 ――オスカー賞が授与されるころには深夜になりかけていた。わたしは神経質になっていた。この手で発掘したマイラが隣りにすわっている。通路のまむかいにはジョーン・ウェイランドがいる。最優秀助演女優賞の発表が目前に迫っている。勝つか負けるか――二人のライバルが通路をはさんで対峙している。

 アカデミー賞授賞式で流す嬉し涙や悔し涙の意味にはオチがあろうとなかろうと変わりはないはずです。当たり前に思えたものが別の角度から見ることで違って見えてくるのには、批評性や意外性があってこそ面白いのであって、その点この作品のオチにはそれがありません。この作品以外に一切著者の情報が出てこないのも納得の出来でした。
 

「時間厳守」ジョン・オハラ/浅倉久志(On Time,John O'Hara,1944)★★★★★
 ――ローラはつねに時間厳守だった。それは他人を待たねばならないことを意味する。事実、以前ひどい待ちぼうけを食わされたことがあった。そしていま、客車の反対側にその張本人がすわっている。ローラは十年前の屈辱を思い出していた。待ち合わせ場所はバーだった。マスターはたいそう垢ぬけていた。まるで夫を捨てて駆けおちする若い女にあいさつするのが日課であるかのように。。

 失ってしまったものを認めることを拒み、なかったことにするための、なけなしの矜恃が胸を打ちます。相手は悪くなかった、でも自分が負けだなんて認めたくはない――わがままでも自己中でもなく、そうしなくてはどうにもならない瞬間というのが、誰の人生のどこにあってもおかしくはないでしょう。
 

「ヒーロー退場」ジェラルド・ミゲット/竹内俊夫訳(Exit for a Hero,Gerald Mygatt,1946)★★☆☆☆
 ――父親がフレディーにいった。「獣医さんの話じゃ、すぐやってくれるそうだ」「いやだ」「わかっているはずだ、キャップは苦しんでいる。獣医さんは安楽死のやりかたを心得ている」「いつか猫のときは暴れまくったよ」キャップは老犬だった。いちばん思いやりのある方法で苦しみから救ってやりたかった。父親が表に出ていくと、フレディーはショット・ガンを携えてキャップと森に入った。

 いい話ではあるのですが、あまりにも陳腐です。
 

「虹ます」ショーン・オフェイラン/小鷹信光(The Trout,Sean O'Faolain,1945)★★★☆☆
 ――毎年、村に帰ってくるたび、ジュリアがまっさきに駆けつけるお気にいりの場所が〈暗闇の小径〉です。小径のわきの岩に、小さなほら穴があり、一クォートほどの水がたまっていまいた。そのなかに苦しそうにあえいでいる一匹の虹ますを見つけました。どうしてそんなところにいるのか誰にもわかりません。

 情緒不安定で子どもっぽいようでいて、退屈ななかに自分で楽しみを見つけることを知っているのは、才能だと思います。
 

「わかれ」レイ・ブラッドベリ稲葉明雄(I See You Never,Ray Bradbury,1947)★★★★☆
 ――台所のドアにノックがきこえた。オブライエン夫人がドアを開けると、間借り人のラミレス氏が二人の警官にはさまれて立っていた。「どうなさったの?」「ここにごやっかいになって三十ヵ月になります」。「つまり六ヵ月だけ長くいすぎたわけだ」と警官が説明した。「そんなわけでメキシコに帰ることになりました」

 短篇集『太陽の黄金の林檎』には「二度と見えない」の邦題で収録されており、「I see you never」という表現がカタコトに訳されています。その方が警官たちの笑った理由もわかりますし、時間を置いてからオブライエン夫人が「I'll never see Mr. Ramirez again.」と実感するのも効果的です。
 

「ライター」マッキンレー・カンター/大井良純(A Man Who Had No Eyes,MacKinlay Kantor,1931)★★★☆☆
 ――乞食がこちらに歩いてくる。パースンズ氏がホテルから出たときのことだった。「ちょっといいですか」「急いでるんだ。金かね?」「物乞いじゃありません。このライター、たったの一ドルです」。パースンズ氏は溜息をついて小銭を払った。「視力はまるでないのかね?」「あっしはあの爆発のあった工場にいたんです」

 二人を対に描くことで、成功者と落伍者の対比が残酷なほど露わにされていました。才能や運だけではなく、人間性や向上心というものが如何に大事かがわかろうというものです。一応のところは「コツコツと音をたてながら近づいてくるのを聞いていた」というフェアな表現もあるものの、それが冒頭など全篇にわたっては徹底されていないため、最後に明らかになるせっかくの凄みが活かされきれていないのがもったいない。

  


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