『アスペクツ・オブ・ラブ ガーネット傑作集II』デイヴィッド・ガーネット/新庄哲夫訳(河出書房新社)★★★★☆

『アスペクツ・オブ・ラブ ガーネット傑作集II』デイヴィッド・ガーネット/新庄哲夫訳(河出書房新社)★★★★☆

『Aspects of Love』David Garnett,1955年。

 舞台が散々な結果となり、次の舞台まで文無しで過ごさなければならなくなった女優のローズは、熱心なファンのアレクシスに誘われ、アレクシスの伯父の別荘に滞在することになり、アレクシスと恋仲になる。庭師から二人のことを聞いたジョージ伯父が別荘を訪れると、ジョージに惚れたローズはアレクシスの許を去り、女優として成功してゆく。戦争から帰還したアレクシスはローズに会いに行くが、衝動的にローズに発砲してしまう。怪我から復帰したローズはジョージに結婚と子作りを申込み、ラブレーの出身地に居を構える。

 愛の諸相というタイトル通り、ジョージにはジュリエッタというイタリア人の愛人がいて、ローズにもヴァンサンという愛人がいて、ジョージとローズの娘ジェニーはアレクシスに惚れ、アレクシスも少女であるジェニーを意識しつつ理性を守りはする……という様々な恋愛関係が繰り広げられています。

 自らを男食いと称するローズは確かにファム・ファタルで、自分の思いに素直であるがゆえに周りを振り回す、典型的なトラブルメイカー型のヒロインです。

 作中でもっとも人間くさいのはアレクシスでしょう。嫉妬深く、衝動的で、優柔不断で、移り気で、大人に恋することでロリータをフるのを正当化して、およそ主人公の器ではありません(し、実際主人公とは言えないでしょう)。

 それなのにジョージの死とともにローズがフェイドアウトし、最後はアレクシスとジェニーの話(をダシにしたアレクシスとジュリエッタの話)になるのは、一つの物語が終わった、という宣言なのかもしれません。

 あるいは、惚れた女の娘から惚れられるというご都合主義な、男性作家ガーネットの限界だったのでしょうか。

 母娘二代にわたって前妻の洋服という地雷を踏み抜きますが、ジョージの反応はそれぞれ違っていて、老いによる時間の経過を否が応でも感じさせます。ジェニーにはローズと違い反省するだけの分別もあります。そんな世代の交代を予感させる流れだというのに、いったんジェニーを留保してモラトリアムに逃げるのがアレクシスという人物らしくて苦笑してしまいました。

 劇団四季によって、というかロイド=ウェバーによってミュージカル化されています。

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 ガーネット傑作集2 アスペクツ・オブ・ラブ 

『ゲームの王国』(上・下)小川哲(ハヤカワ文庫JA)★★★★★

『ゲームの王国』(上・下)小川哲(ハヤカワ文庫JA)★★★★★

 2017年親本刊行。

 政治家や警官の腐敗と共産主義者への弾圧が著しい1956年のカンボジア。高校の歴史科教師サロト・サルは、革命組織を新たに作り直そうとしていた。同じころ、郵便局員ニュオン・ヒンは、タクシー運転手ティヌーから赤ん坊を押しつけられ、ソリヤと名づけて大切に育てていた。だがソリヤが八歳になった1964年、ティヌーが共産主義者として逮捕され、ヒンもまた罪をでっちあげられる。ソリヤがサロト・サルの子である可能性をヒンの口から聞いた潜入捜査官によって、かろうじてソリヤだけがよそへ逃がされる。

 1964年、貧村ロベーブレソンの農民スウ・サムに次男が生まれた。最初に発した言葉が「水浴び《ムイタック》」であり、異常なまでに清潔にこだわったため、子どもはムイタックと呼ばれ、気味悪がられた。ムイタックが四歳になった1968年、サムの弟フオンが村に戻ってきた。共産主義者のフオンはティヌー逮捕時にどうにか逃げ延びてきたのだ。

 数年後。ソリヤの恩人とムイタックの姉の結婚式の日、ソリヤとムイタックが出会ったその日にクメール・ルージュの革命が成功し、ポル・ポトによる虐殺が始まる……。

 ロベーブレソンの住民は個性的です。天才児ムイタックをはじめとして、恐らくは発達障害を持つ〈輪ゴム〉や、土を食べ土と会話して土壌を利き分けられる〈泥〉、精霊に声を奪われていた〈鉄板〉など、南米マジック・リアリズムのようでした。ソリヤもまた、人の噓を見抜く(本人によれば「真実を見抜く」)才能を持っていることがわかります。

 マジック・リアリズムがもっとも発揮されるのは、〈泥〉による戦闘シーンです。土と会話できる〈泥〉がその才能を発揮し、有り得ないことが現実に起こっているのか妄想なのかも怪しいなか、けれど結果だけは現実に残されていました。超人ハルクのように、怒りによって理性をなくして超人的な力を発揮した、と考えるのが穏当(?)な考え方でしょうか。

 そんな田舎にも革命の波は確実に押し寄せます。フオンは痛々しいほどの理想の持ち主で、当初は「賢い=共産主義」という偏った考えを信じ、クメール・ルージュの噓に気づいてからも人の善に基づいて改革を起こそうとするなど、本質的に無邪気な人なのでしょう。

 一方で革命や思想とは無縁なサムは、みずからの信じるところに基づいてムイタックを認めていたりするなど、単なる惰性ではなくそれなりの理由によって伝統が機能していて、田舎には田舎のルールがあることがわかります。

 新政府側は史実のポルポト同様に理想と言うにも幼稚な愚かしい行為を続けてゆきます。革命がうまくいっていないのは「内部に革命を邪魔する勢力がいるからだ」(上p.315)。「オンカー指導部はその原因のひとつが内部のスパイにあると考えていて」(上p.340)。思想に限らずこういう人は現実にけっこういますね。自分の間違いを認められない――というより、自分が間違っている可能性を考えることが本当に出来ない面倒臭い人たち。

 けれどそんなポル・ポト打倒を目指すソリヤやムイタックもまた、みずからのルールに縛られて犠牲を生み出してしまうという点で、ポル・ポトたちと何ら変わりはありませんでした。

 下巻になると時代はあっと言う間に飛び越え2023年。ポル・ポトはとっくに失脚し、ソリヤがカンボジアの首相を目指していました。

 遡ること20年前の2003年、教授となり脳波の研究をしていたムイタックは、脳波ゲームを開発しているロベーブレソン出身のアルンと出会います。

 相変わらず理想を目指しているソリヤに対し、ムイタックはもはや脳波とゲームの研究に打ち込んでいるだけのように見えます。果たして脳波が結果ではなく脳波を起点として偽の記憶に作用することがわかり……

 腐敗しているカンボジアだからこそ、改めてルールを敷衍する余地があるのでしょう(下p.277)けれど、「ソリヤは『ゲームの王国』をカンボジアで実現しようとしている。(中略)私は『ゲームの王国』におけるゲームの定義は、間違っていると思っている」(下p.232)ように、ソリヤは相変わらず平和のために人殺しを厭わぬまま、ムイタックとはすれ違うばかりです。

 家族を殺したソリヤを絶対に許さないと決意していたはずのそのムイタックの方は、下巻に入ってからは研究とゲーム開発に勤しんでいて、いったい何を目指しているのか真意は見えません。ようやく下巻p.405以降になってからソリヤの娘の口から真意を指摘され、すべてが繋がっていたことがわかります。なるほど長々と脳波の講義の様子を描いていたりしたのも、一つにはそうしたSF的な狙いのためだったのですね。

 上巻には異能なロベーブレソン住民が何人も登場しましたが、下巻にも性的興奮で不正を見抜くテレビマンや、ヘモグロビン医師や、何しに登場したんだかよくわからないことになってる殺し屋など、おかしな人物に事欠きません。

 疑われたら不機嫌になればいい(下p.343)というのは現実に於いて一部の女性の得意技ですが、それが元警察長官のラディーが殺し屋に言う台詞なのが可笑しかったです。

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ゲームの王国(上) 下ゲームの王国(下) 

『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ/関口英子訳(国書刊行会 短篇小説の快楽)★★☆☆☆

『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ/関口英子訳(国書刊行会 短篇小説の快楽)

 『Ultimo viene il corvo』Italo Calvino,1949年。

 カルヴィーノの第一短篇集から邦訳のあるものと趣が異なるものを除き、1958年の『短篇集』より「工場のめんどり」「計理課の夜」を加えた全23篇。前半は素朴な作品が続き、中盤は戦争もの、後半は大衆ものが占めます。
 

「ある日の午後、アダムが」(Un pomeriggio, Adamo,1949)★★★☆☆
 ――新しくやってきた庭師はまだ少年だった。マリア=ヌンツィアータは皿を濯いでいた手をとめて声をかけた。少年は顔をあげ、ほほえんだ。「名前は?」「リベレーゾ。いいもの見せてやろうか」「なあに?」「そこだよ」。蟇蛙だ。「なんなの、気持ち悪い」

 タイトルにアダムと謳いつつ無垢なる存在ではなく、自由という名も政治的な意味合いで名づけられたものであることがわかります。話が通じないという点では少年は完全にサイコパスであり、一方的な善意の押しつけはまさしくテロにほかなりません。当時のイタリアの政治状況が背景にあるとはいえ、いま読むとそう読めてしまいます。
 

「裸の枝に訪れた夜明け」(Alba sui rami nudi,1947)★★☆☆☆
 ――このあたりの冬は寒さより澄みきった空気のなかに感じられる。そんななか葉の落ちた枝に何百もの赤い電球が灯る。柿の実だ。マジョルカ男のピピンは毎朝自慢の八本の柿の木を偵察してまわり、実の数が減っていないか確かめた。

 抜け作文学はただでさえ苦手なのに、さらに訳者が苦手な関口英子でした。
 

「父から子へ」(Di padre in figlio,1946)★★★☆☆
 ――このあたりには牛は一頭しかいない。ナニンが飼っている一頭だけだ。道すがら目にするのはリボンを結んだ男児と花嫁衣装の女児ばかり。堅信式の日だった。息子にも娘にもおそおらく衣裳を着せてやれない。とんでもなく値が張るだろう。子どもたちが痩せっぽっちのナニンを見て囃し立てた。かつてナニンの父親も同じようにからかわれていた。

 貧しいからといって誇りを持って悪いわけではなく、けれどやはり誇りでは食えません。むろん誇りという格好いいものだけではなく、劣等感や憎しみや妬みも混ざった、きれいなものではありません。
 

「荒れ地の男」(Uomo nei gerbidi,1946)★★☆☆☆
 ――パチッチンが小屋から出てきて、僕が銃を構えているのを見ると、近寄ってきた。「野兎か、野兎か」「そうだ、また野兎だ」

 父と、少年と、間抜けによる、ちぐはぐな野兎狩り。
 

「地主の目」(L'occhio del padrone,1947)
 

「なまくら息子たち」(I figli poltroni,1948)
 

「羊飼いとの昼食」(Pranzo con un pastore,1948)
 

「バニャスコ兄弟」(I fratelli Bagnasco,1946)★★☆☆☆
 ――葡萄園に行くと、葉の陰から少年が顔を出した。兄が少年の髪を鷲づかみにし、僕は耳をつかむ。つきあたりから女が現れて喚く。「この卑怯者め! 子供に当たり散らすなんて」。僕らがとっとのその場をあとにすると、二人の男と出会った。「おい、どこからその薪を拾ってきた? うちの森から盗ってきたんだろう」「そもそもあんたら誰だ?」「バニャスコ兄弟だ」「ああ、因縁を吹っかけてくる兄弟か」

「養蜂箱のある家」(La casa degli alveari,1949)★★★☆☆
 ――遠くからですと容易に目につきませんし、一度来たことのある人でも道を憶えていませんから二度と来ることはできません。周囲の土地を耕すことはできたはずなのですが、私はそうはしませんでした。犬に番をしてもらう必要も、掛け金に頼る必要もありません。養蜂箱がぐるりと取り囲んでありますから、私以外の者は通り抜けられません。

 変人の一人語りだと思えたものが、強姦殺人者の言い逃れに変わります。
 

「血とおなじもの」(La stessa cosa del sangue,1949)
 

「ベーヴェラ村の飢え」(La fame a Bévera,1949)
 

「司令部へ」(Andato al comando,1946)
 

「最後に鴉がやってくる」(Ultimo viene il corvo,1947)★★★★☆
 ――少年が男から銃を奪い、水面に向けて一発撃つと、鱒が白い腹を見せて浮かんでいた。銃を撃つ楽しみを覚えた少年は、射撃の名手が欲しい男たちに請われるがままついていった。だがむやみと動物を撃つ少年の銃声を聞きつけて兵士たちが現れ銃弾を浴びせた。少年は兵士を一人ずつ撃ち始めた。

 鴉は死の使いであり、兵士が撃たれたから降りてきたのでしょう。兵士から見れば少年が銃弾を無駄撃ちしてくれる鳥は救いだったはずです。だからこそ最後にやってきた鴉に期待を掛けたのでしょうが、それは文字通りの最後でした。もちろん少年の側からは現実に存在しない鴉は見えるわけがありません。史実的には少年の側だったはずのカルヴィーノが、兵士の側から殺される瞬間を描き、兵士の立場で読者が読む。それができるのが小説の強みなのでしょう。
 

「三人のうち一人はまだ生きている」(Uno dei tre è ancora vivo,1949)★★★★☆
 ――捕虜は三人とも裸だった。村の衆は腰に武器を提げ、三人を山道伝いに歩かせて縦に深い洞穴の縁に立たせた。村の衆がめくら滅法に撃ちはじめ、一人がくずおれ、一人が転がり落ちた。最後の一人も落ちていった。だが死んだ様子はない。撃たれる前に飛び降り、仲間の死体が落下の衝撃を和らげてくれたらしい。村人たちは正式に銃殺刑にするために男を引き上げようとした。

 安全圏で読むときれい事というか、よくできた話にしか思えないのですが、死の瀬戸際から逃れてきたからこそ見える切実な景色というものは確かにあるのでしょう。捕虜の死を願う村人たちもまた一枚岩でなく各人各様の思いを抱き、死をも包み込むさらに大きい戦争という混沌を感じさせます。
 

「地雷原」(Campo di mine,1946)★★★☆☆
 ――ズアーヴ兵風のズボンを穿いた男は、老人の制止を聞かずに地雷の埋まっている危険のある峠を越えようとした。マーモットがいるということは……地雷の埋まっていない証だ……それは筋の通ってない論理だ。途端に恐ろしくなった。別のルートを探すべきだ。

 現にある地雷を前にしていくら自分を鼓舞しようと何の意味もないのですが、せずにはいられない気持も理解できます。どんな状況であれ理知的な判断ができる人などごくわずかなのが現実です。
 

「食堂で見かけた男女」(Visti alla mensa,1947)★★★★☆
 ――女は田舎の未亡人だった。そこへくたびれた様子の老人がやってきて、相席の許しを請うた。成り上がりの女は、かつて金持ちだった男の声を無視した。かすかな笑いを浮かべて、ウエイトレスに「ワイン」と言った。老人に羞恥心か見栄が働いたのかもしれない。「わたしにもワインを頼む!」と言った。老人は未亡人の食べ物に包囲されていた。

 非礼な人間に対する対抗手段が過去の栄光しかないのが哀し過ぎます。それでも怒りを飲み込んで努めて落ち着いて振る舞おうとする老人が紳士なのでしょう。女と男、働き盛りと老人、金持ちと元金持ち、闇商人と元兵士、何もかもが正反対でした。
 

「ドルと年増の娼婦たち」(Dollari e vecchie mondane,1948)★★☆☆☆
 ――「フェリーチェの店にアメリカ人が六人来ているぞ。急げ」エマヌエーレとイオランダ夫妻は米ドルで闇商売をしているので、水兵たちにドルを売ってもらうつもりだった。カウンターのむこうのフェリーチェに通訳を頼んだが、「自分で言えばいいだろう」と言われてしまった。イオランダは兵士たちに囲まれてしまった。「プリーズ、あたし、リラ……あんたたち、ドル」。「おれ、ドル、きみに。きみ、おれと、ベッドに」

 米兵相手にリラと米ドルを両替してもらおうとする夫婦が娼婦と間違われて右往左往する不条理、もといドタバタ喜劇……のはずが、うまく行っていません。恐らくはカルヴィーノのせいではなく訳者のせい。光文社古典新訳文庫もこの訳者のユーモア作品は苦痛でした。
 

「犬のように眠る」(Si dorme come cani,1948)
 

「十一月の願いごと」(Desiderio in novembre,1949)
 

「裁判官の絞首刑」(Impiccagione di un giudice,1948)★★☆☆☆
 ――裁判官オノフリオ・クレリチは自分が人々から憎まれていることに気づいていた。イタリア人というのは忌まわしい民族だ。いないほうがいい。当時担当していたのは、先の戦争の際にイタリア人を捕らえて銃殺刑に処するよう命じていた男たちの裁判だった。被告人の主張を聞くにつけ、確固たる理念を持った尊敬すべき人物であると思った。

 庶民を蔑んでいた裁判官が選民意識による正義に基づき判決を下していたが、やがて自らが裁かれ絞首刑に処される話。
 

「海に機雷を仕掛けたのは誰?」(Chi ha messo la mina nel mare ?,1948)★★☆☆☆
 ――財政家ポンポーニオが屋敷で客たちとコーヒーを飲んでいると、〈磯のバチ〉と呼ばれる老夫が海の幸を売りにきた。「そっちの籠にはなにが入っているのかね?」「なんでこんなもんを海に投げ込むのかさっぱりわかりません。だから拾ったんです」「機雷じゃないか!」パニックになっているうち老夫は姿を消してしまった。密売人が老夫を見つけ、うまい話を持ちかけた。

 これもドタバタ喜劇の系譜に連なる作風の作品で、最後は機雷を爆発させて死んだ魚を採りまくるという大団円でした。
 

「工場のめんどり」(La gallina di reparto,1954)★★☆☆☆
 ――警備員のアダルベルトは一羽のめんどりを飼っていた。許可を得て工場の中庭で飼育していた。品質検査員トンマーゾはひと目でめんどりの生産能力を見抜き、卵を産ませようとした。旋盤工ピエトロはトンマーゾの術策に気づき、めんどりを誘いこもうとした。

「計理課の夜」(La notte dei numeri,1958)★★☆☆☆

 最後の二篇は別短篇集から追加されたものですが、作風もほかの作品とは違うし、なぜわざわざ収録したのかわかりません。

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 最後に鴉がやってくる 短篇小説の快楽 

『漂砂のうたう』木内昇(集英社文庫)★★★★☆

漂砂のうたう木内昇集英社文庫

 2010年初刊。第144回直木賞受賞作。

 273ページ登場人物の台詞に、どんなにシンとしていても川や海の底では水の流れに乗って砂は動いている――とあるように、タイトルの漂砂とは底辺で暮らす人々の謂です。維新後の明治、時代に取り残された元士族や、行き場もなく貸座敷と名を変えた遊廓で働き続ける妓ら、時代の波に乗りきれなかった人々が描かれます。

 御一新のとき定九郎は藩を逃げ出し遊廓で妓夫をやってたつきを得て、今では根津遊廓で立番をして暮らしていた。妓夫太郎の龍造は厳しいだけでなく勝手に指示を出すため、疎ましく思っている遣手は何かと定九郎の味方をした。醜い嘉吉は仕事の覚えも早く、定九郎もうかうかしていられない。使いで行く賭場の山公は長州者だが政府の職務に就かず、賭場の仕切りをやっている。定九郎はごまかした金を三角石の下に隠し、常磐津の師範とはねんごろにやっていた。いつからか定九郎にまとわりつくようになったポン太は有名な噺家の弟子だというが、いっこうに目が出ない。狆を押し潰したような顔の花魁・芳里に客をつけてやりたいという遣手の頼みを聞いて、うっかり声をかけたのが渡世人だったことから、定九郎は厄介ごとに巻き込まれる。かつての同僚・吉次に脅され、根津遊廓でお職を張ってる小野菊の引き抜きを迫られる。

 遊廓の下っ端すらが『学問のすゝめ』を夢中になって読み、自由と保護が唱えられながらも誰も理解していない、そんな世界。下々の生活は変わるべくもなく、それどころか士族は身分と財産を失い、遊女は政府の後ろ盾を失うなど、むしろ混沌としてしまった人たちもいます。

 遊廓のためにプロの矜恃を持って働く龍造のような人間もいれば、成り上がりたいだけの嘉吉のような人間もいるし、すっかり意欲を失ってしまった定九郎のような人間もいます。遊廓生まれの龍造や、醜い見た目の嘉吉らと比べれば、まだしも生き方を選べたはずの定九郎が抜け殻のようになってしまうのは、卑近な例でいえば定年退職者の燃え尽き症候群みたいなものでしょうか。

 定九郎の父親が、立ち上がろうとする兄に、士道と忠義の違いを説く場面があります(p.232)。なるほど、これもまた一つの生き方なのでしょう。ただの消極的な停滞ではなく、信念に基づいた現状維持。信念を貫いたと捉えるか、要領が悪い負け犬と捉えるかはその人次第でしょう。

 小野菊の間夫の正体と小野菊引き抜き騒動をめぐる真相は、あからさまなヒントがまぶされているのでほとんどの読者には見当が付いてしまうだろうと思います。とはいえ重い作品のなかで数少ない前向きなエピソードであるのは間違いありません。圓朝作「鏡ヶ池操松影」が通底音として流れていました。

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 漂砂のうたう 

『小説という毒を浴びる 桜庭一樹書評集』桜庭一樹(集英社)★★★☆☆

『小説という毒を浴びる 桜庭一樹書評集』桜庭一樹集英社

 各種媒体に発表した解説、読書日記、書評、対談を収録。
 

「解説」

 もっとも“重要な”少女小説ということで『甘い蜜の部屋』『第七官界彷徨』『聖少女』の名が挙げられていますが、「重要」の意味するところがよくわかりません。
 

「リレー読書日記」

 ガーネット『狐になった奥様』を「男って、ほんと、ときどきヘンなことをおっぱじめるなぁ」という流れで紹介してあるのが可笑しい。そう言われればそういう話なのでしょうか。

 桜庭一樹や深緑野分の書評やエッセイの魅力は、紹介されている本が面白そうなだけでなく、本人が本当にその本のことを好きなんだな、というのが伝わってくるところです。森下雨村のエッセイ「猿猴 川に死す」もその好例でした。

 辻原登『枯葉の中の青い炎』の「『海外女流作家綺譚集』みたい」というのは惹かれます。

 キャロル・オコンネル『クリスマスに少女は還る』は確かに今さらな感じですが、「この違法なひっくり返しのために、ここまでの合法的なプロットがあったんだ」というのは至言です。

 安房直子、懐かしいな。『名作版 日本の児童文学』で読んでいたような覚えがあったのですが、そのシリーズでは出ていないようです。何で読んだんだったかな。

 イアン・マキューアンについては『桜庭一樹読書日記』でも触れられていました。

 リレー読書日記の最後は本書のタイトルの由来ともなった「みんなで小説という毒を浴びてもっとずっと悪い人間になろう!」という言葉で結ばれます。その直前に紹介されているのがマーゴ・ラナガンの短篇集『ブラックジュース』です。一作目の「沈んでいく姉さんを送る歌」を評する「両手で頭を抱える奇怪な一品」という表現がツボ。『SFマガジン』2006年10月号に掲載の「地上の働き手」(俗世の働き手)は異形の天使が登場する作品でした。
 

「書評」

 翻訳を通して消えてしまう笑いについて考えさせられる『ゴドーを待ちながら』評。誤解や誤訳はともかくとして、原語と日本語のリズムの違いだったり訳者と読者のセンスの違いだったりと簡単にはいかなそうです

 書き下ろしの書評が3篇収録されていて、特に池波正太郎のエッセイから中華思想・革命思想と浅草の町内会との類似に思いいたる「浅草革命」と、『フルハウス』と続編『フラーハウス』を交互に観たことからスティーブン・キング『IT』を連想する「あのころの仲間と再会する」が出色です。
 

「対談」

 道尾秀介冲方丁綿矢りさ辻村深月との対談を収録。道尾氏が『エクソシスト』をおすすめミステリに選んでいるのは、よくわかります。あれはほんと、ホラーの枠に収まらない名作でした。辻村氏、桜庭氏ともに自作について「地方の閉塞感がよく出ている」と評されたそうですが、そういうものでしょうか。

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 小説という毒を浴びる 桜庭一樹書評集 


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