『アーサー・ミラー1 セールスマンの死』アーサー・ミラー/倉橋健訳(ハヤカワ演劇文庫)★★★★☆

 今となっては、アメリカに暮らす、ごく当たり前の家族のお話でした。ほとんど私小説自然主義文学。だからこそ胸を打たれる、ということもあるだろうし、だからこそ退屈だ、ということもあるだろう。わたし自身はこの手のアメリカ的父親像自体に否定的なので、はじめから同情的にではなく批判的に読まざるを得ず。

 そうして見れば、個人の悲劇でもあり、家族の悲劇でもあり、社会の悲劇でもある、ということになるのだろうね。ウィリー的父親像とその失墜を生み出さざるを得ないアメリカ社会、をも視野に入れようと思えば入れられる。まあそんなのは、ウィリーに同情できないわたしが無理矢理ウィリーに理屈づけしたようなものなので、どうでもいい。多くは敗残者ウィリーにショックを受けるのだろうな。

 カットバック手法が多用されるのも、個人的には好みではない。これを舞台でやられると、いかにも“演出”してます、ってな感じで背筋がもぞもぞ、うわ〜ぁって思っちゃうんですよね……。じゃあどう描けばいいのか、って言われると困ってしまうが。

 ただしそういう部分は経年ものだと割り切って読めば問題ない。

 よくある手法だといってしまえばそれまでなんだけれど、ウィリー自身をこってり描くのではなく、ウィリーの息子たちの台詞を通してウィリーという人間が浮かび上がってくるあたりのバランスが素晴らしい。単なる愚痴おやじではなく、徹底的な敗残者ぶりが伝わってくる。さっき否定的なことを言ったけど、カットバック手法もこれに拍車をかける。

 観客/読者の目には、はじめのうちこそただの疲れたセールスマンだったウィリーが、だんだんと追いつめられていく過程は、鬼気せまる迫力があった。「追いつめる」というのは比喩的な表現であって、実際にはすでにほぼ追いつめられているウィリーという人間を、少しずつ小出しに演出しているにすぎないわけだけれど、観客も一体となってウィリーを追いつめているような感覚がして、やりきれない緊迫感があった。

 理想と現実の齟齬を認めようとしないウィリーも哀れだが、理想から一片ピースが欠けただけでぼろぼろになってしまった長男ビフや、理想というものを持たない次男のハッピーも、そうとう普通じゃなくて哀れではある。

 アメリカン・ドリームという言葉が、2007年現在になっても死語でも何でもないというのが、この作品の今日性を表わしているかな。

 かつて敏腕セールスマンで鳴らしたウイリー・ローマンも、得意先が引退し、成績が上がらない。帰宅して妻から聞かされるのは、家のローンに保険、車の修理費。前途洋々だった息子も定職につかずこの先どうしたものか。夢に破れて、すべてに行き詰まった男が選んだ道とは……家族・仕事・老いなど現代人が直面する問題に斬新な手法で鋭く迫り、アメリカ演劇に新たな時代を確立、不動の地位を築いたピュリッツァー賞受賞作。(裏表紙あらすじより)

 『セールスマンの死』
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