『佇むひと リリカル短篇集』筒井康隆(角川文庫)★★★★★

「ぐれ健が戻った」★★★☆☆
 ――あれがおれの家だ。六年ぶりの帰宅だった。「ただいま」妹の節子が茶の間から走り出てきて笑顔になった。「お父ちゃん。健兄ちゃんが帰ってきた」「健か。やっぱり戻ってきたか。入ってこいといってやれ」

 こういう古くさい人情ヤクザ映画みたいな展開が、実は……いやいや、何とも人を食った物語です。思いも寄らぬ展開を見せて、お決まりのごとくスラップスティックになるのですが、それでもなお人情ものの原形を留めようとしているのがオカシイ。わたしは笑ってしまったが、素直に感動するのもありだと思う。
 

「碧い底」★★★★☆
 ――「ちょっと『一文字』へ寄っていきませんか」海底を前進しながら甲輔さんがそう言った。「そうですな」周囲の水は黒く沈んだ色をしていて、看板の明かりだけがあたりをうっすらと照らしている。

 リリカルに隠れて、とんでもなくブラックな作品でした。地上と海底を正反対にすればそのまんま現在の現実なんだよな。都会の空気は息苦しいくらいに濁っているし、海はものすごく汚れている。
 

「きつね」★★★★☆
 ――夜になってしまった。「この道に狐が出るんだってね」和彦君がいった。和彦君はこわがらせようとしているのだろう。吾郎君は平気な顔をして答えた。「うん、うちのおじいさんもいってたよ」

 狐というのも物語の世界だけの存在になってしまった。四、五年前まではうちの近所でも狐は見かけたのだが、それも現実の狐だものな。子どものころのわたしにとっては、狐よりも人面犬なんかの方がよっぽどリアルで怖かった。
 

「佇むひと」★★★★★
 ――歩きながら、パンでも持ってきてやればよかったな、と思った。公園には人なつっこい犬柱が立っているのだ。だいぶ植物化が進んでいた。金物屋の前には、妻が白い顔をして立っていた。足はもとのままだから、足首だけが地面に埋まっているように見える。

 思想統制の行われている世界。怒りにまかせて弾劾しても、涙にむせんで訴えても、伝わらないものもある。それを寓話と呼ぶのは容易い。だがそれでもやはり、ファンタジーの形でしか描けない世界がここにあると思う。怒りの涙でも感動の涙でもなく、ほろりと心に沁み入る。
 

姉弟★★★★☆
 ――座敷に牛が座っていた。「僕だよ、姉さん」「およしなさいよ、どうして牛なんかに……」「だって僕、ここで寝そべって眠っちゃったんだ」わたしはいつも弟に、ご飯を食べてすぐ寝ると牛になるといっておどかしていたのだ。

 シュールな幻想譚。牛に変わっても驚かない。不思議がらない。困るだけなのである。大人の方も、風邪を引いた弟を前に「なんで布団を掛けてあげなかったんだ!」というのと同じ調子で、姉の言葉が牛に変えてしまったことをなじるだけなのである。
 

「ベルト・ウェーの女」★★★★☆
 ――二十一世紀に入ると都心部のベルト・ウェーは急速に発達した。何メートルか下の道路に、いつもと同じように、彼女はいた。イズミは彼女に関心を抱いていた。だがどうやって思いを伝えればいい?

 二十一世紀の孤独な恋を描いたショート・ショート。他人との交わりがなくなると、人は寂しくなる。寂しくなると、詩的になる。オチのあるショート・ショートのはずなのに、そうしたわけでなぜかリリカルな作品でした。
 

「怪段」★★★★☆
 ――アパートの玄関を入ると、螢光燈が階段の上り口を薄暗く照らしていた。私はうんざりした。この階段をてくてくと四階まで上らなければならないのだ。

 アイデア自体はよくあるものだし、タイトルもスマートとは言えないんだけれど、ヘタな怪談作家が書くようにオチに力を入れすぎてたり、いかにも何かありげに雰囲気を盛り上げたりしていないのがよい。冒頭を読んだだけですぐさま薄暗い階段にぽつんと立っている自分を想像できる。
 

「下の世界」★★★★☆
 ――ここではお互いが敵だった。精神階級の世界へ登用される生涯ただ一度の、そして五千人に一人の機会なのだ。トオルなら勝つことができるだろう。老人も請け合ってくれた。肉体階級のなかで難解な本を読めるただ一人の老人だった。

 知恵と体力。これに「勇気」が加われば、まさに昔話の三人衆である。要するに人間にとって基本的であり且つ大事な部分。どちらが欠けても一人前ではないはずなんだけどね……。物語としてはきれいに閉じるが、知恵と体力を併せ持つ唯一の人間がこうなってしまっては世界は変わらない。深く苦い諦念だけが残る、何とも酸っぱい作品。
 

「睡魔のいる夏」★★★★★
 ――工場を出たときは、まだ暑かった。ビヤホールはわりあいに空いていた。夜までまだ三時間以上あるのだ。「眠いね」「そうですね」デッキチェアーで老人が居眠りしていた。顔色の蒼いのに気づいて腕を取った。「……死んでる」「ああ、あれは花火なんかじゃなかった。新型の爆弾だったんだ」

 ぐっはぁ(゚Д゚;。なんでこんなすごい作品が書けるんだろう。なんでしょうこの喪失感。透明感。暑いはずなのに、終末のはずなのに、穏やかな温かさに包まれている。
 

「わが良き狼」★★★★☆
 ――運転手のジョニー・フロッグがおれを振り返った。「よくもどったなあ、キッド」「ちっとも変わらないな、その話好きは」おれはルー・ラビットの酒場へ向かった。みんな昔のままだった。仇敵のウルフも、まだこの町にいた。

 古き良き西部劇映画の雰囲気ただよう男のロマン。クサイ話をまたコテコテに描いているのに、悪くない。たいしたものです。西部劇自体がもともとクサイ話なのだと言われればナルホドそうかもしれない。
 

「ミスター・サンドマン★★★★☆
 ――冷たい潮風が砂丘に湿り気を与えた。夜半、彼は目覚めた。「よし、今度こそ出かけよう。村へ行って、思い切り暴れてやるのだ」彼はおのれの巨大さを自分で知っていた。誇らしく思っていた。

 ああ。モンスターの哀しみだねぇ……。モンスターやクリーチャーに格別の愛着はないが、ティム・バートンは大好きというわたしにしてみれば、こういう作品はツボなのである。
 

「白き異邦人」★★★★☆
 ――十六歳の秋の終わり。ネイラははじめて自分がかわり種であることを知った。父のように、みどり色の肌をした者が正常であり、自分が醜いアルビノであることを知ったのは、父がうっかり持ち帰ったカラー雑誌を見つけたからである。

 アルビノの宇宙人と、とうに滅びた地球人の子孫。もうこれだけで何だか切ないですね(^^;。宇宙人に地球滅亡に星間飛行に宇宙医学にと、意外とけっこうなSF小道具が駆使されているのに、煩雑さは感じられない。むしろ軽々と使いこなし、時間と擦れ違いを演出する見事なラスト。ふむ。
 

「ヒッピー」★★★★☆
 ――長男が生まれたので、区役所へ出生届に出かけた。受付にはいかにも小役人然とした非常に気短そうな男がいた。「母子手帳がなけりゃ書類が作れないじゃないかっ」おれがいったん家に帰り戻ってみると、さっきの受付係がヒッピー風の男を怒鳴りつけていた。

 相変わらず役人は高飛車である。こういうステレオタイプなくしては筒井作品は成立しない。しかも筒井は、まこと生き生きとステレオタイプを描いてしまうのだ。オチを含めたヒッピーどうこうより、むしろ小役人の方に目がいってしまった。
 

走る男★★★★☆
 ――町なかを走りはじめた頃から、そろそろ息切れがしてきた。しかしコンディションは悪くない。おれは走った。信じられない話だが、昔は競技のために世界中から五千人以上の選手が集まったという。おれは走った。走りながら、なぜおれは走りつづけているのかと考えた。

 なんとも言いようのない不思議な小説。走る、走る、ひたすら走る。観客もいない。競争心もない。文字どおり走るだけ――なのだが、目的意識がないものだから当然のごとく脱線する。ちょっといい話ふうになる。それから思い出したように、走る。
 

「わかれ」★★★★☆
 ――その朝、出社するなりおれは、百万円の出金伝票を切って課長の机に持っていった。「き、君、これは……」「女房に指輪を買ってやるんだ! ぐずぐずしないで承認印を押してくれ!」

 いかにも筒井作品らしい傍若無人なサラリーマンものかと思ったら、きれいなネタに軽やかに着地するショート・ショート。最後は「泣き」の「型」を使ったような演出なんだけど、これがまたうまい。
 

「底流」★★★☆☆
 ――(エリートだな!)町育男の胸の四角いバッジを見て、その事務員は表情を固くした。(とうとう来やがったか! この得意体質の非人間め……いや、考えるな! こいつは考えをテレパシイで読めるんだからじゃあどうすればいいんだどうすれば)

 意識の「底流」であると同時に、エリートに対する「底流」。底流の底力というか底意地の悪さが、吐き気を催すほどに呪されるすさまじい作品。こういう庶民的ないやらしさをエンタメとして描くのが筒井康隆は実にうまい。
 

「時の女神」★★★★☆
 ――彼は子どものころ、いちど彼女に会ったことがある。彼女の美しさが、心にながく残った。思春期――彼には恋びとができた。ふたたび彼は、彼女にあった。彼女は以前と同じ若さで、彼に微笑みかけていた。

 こういうのは突き詰めて考えようとすると頭がこんぐらかるから苦手だ……(^^;。きれいにまとまっているし、好きな話ではあるのだが。
 

「横車の大八」★★★★☆
 ――「ものを壊すには壊しかたというものがある。たとえばこのビルヂングみたいに、もともとできるだけ壊れにくいように作ったものでは簡単に壊すことはできん。なぜ建てるときに壊すことも勘定に入れなんだか。横車の大八さんが口癖のように言うておった」

 昔話のようなふしぎふしぎな物語。「名人」と「伝説」はつきもので、切っても切り離せないセットなのである。こういう教訓話めいた話も、こともなげに書くよなあ。
 

「みすていく・ざ・あどれす」★★★★☆
 ――ああ、姉さん。ぼくは悲しい。ぼくは姉さんが、真面目に働いているのだとばかり思っていた。姉さんは、いったいいつから銀行ギャングの仲間になったのです。

 タイトルがすでにネタバレなんだが、まあよい。わかっているからこそ、最後の最後に期待通りのオチが来て楽しめるということもある。
 

「母子像」★★★★☆
 ――なんの変哲もない、サルの玩具だった。私は子煩悩な方ではない。サルを買ったのは、その一匹だけが何のまちがいか白い布地で作られていたからである。数週間後、家に帰ってみると、妻も赤ん坊もいなかった。

 結末だけ見れば旧家の因縁ホラーみたいな話なのだが、無論どろどろはしていない。文字どおり日常にぽっかり空いた断裂に、すうっと吸い込まれるように消えてゆく。失って初めて気づく、なんて陳腐な表現は使いたくないけれど、作品中には描かれてはいない家族の幸せな団欒みたいなものが、この人にも絶対にあったはずなんだというのが、描かれていないのにもかかわらず痛いほど伝わってくる。静かにひっそりと喪失が描かれることで、描かれてはいない“失われる前には確かにかつてあったもの”がじわじわと沁み入ってくる。
 

 これまでの短編集には一篇ずつ収録されていた新発掘短篇がなくなっちゃったんだね。残念。『くさり ホラー短篇集』の解説で貴志祐介が反則気味に裏話を披露していて楽しいのだが、ぜひ貴志氏には「母子像」をホラーとしても解説してもらいたかった。
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