『紙の空から』柴田元幸編訳(晶文社)★★★★☆

 柴田元幸編訳の『どこにもない国』がかなり面白かったので期待していたのだけれど、ちょっと似た雰囲気の作品が多かったのが残念。ひと息に読むとちょっと飽きる。ちまちま読むべし。

ブレシアの飛行機」ガイ・ダヴェンポート(The Aeroplanes at Brescia,Guy Davenport,1970)★★★★☆
 ――九月初旬の空の下、カフカはリーヴァの堤防の上に立っていた。マックス・ブロートが新聞を掲げていた。「ブレシアで飛行機を飛ばすんだ!」そりゃすごい、とオットーが言った。そりゃすごい。

 カフカをモチーフにして爽やかな作品が出来上がるというのは予想だにしてませんでした。まあわたしが知っているのはカフカの小説だけなので、実際のカフカは爽やかさんだったのかもしれん。当時のイタリアの雰囲気をしのばせつつ、宮崎駿サン=テグジュペリみたいな飛行機小説にもちゃんとなってるんですよねえ。もちろんカフカは乗らないんですけど。当時のイタリアの町と時代の空気を描くのと同じように、飛行機に関わる人たちを描いているから、その一人一人が宮崎映画なんかで作業着着てえっちらおっちら汗流して働いている人たちみたいで親しみを感じちゃうんです。基になったというカフカのエッセイも読んでみたくなる作品でした。
 

「道順」ジュディ・バドニッツ/絵:田中千絵(Directions,Judy Budnitz,1998)★★★★★
 ――クラーク夫妻は四つ角に立つ。二人は劇場街を探している。君は道に迷っている。あるいは君は何かを探している。ゴードンは診療台に座る。両足がすごく、すごく冷たい。「お気の毒ですが、悪い知らせです」ナタリーは実際的な女の子である。心に関して実際的なのだ。

 それぞれの道を探す。そのまんまなタイトルでそのまんまな内容なのに、ふしぎとリリカルで幻想的。柴田氏があとがきでケリー・リンクを引き合いに出していたけれど、わかるわかる。この、日常から地続きで非日常に連れて行かれる感じはなるほどケリー・リンクだ。よく男と女だと女の方が感性が鋭いなんて言われ方があるけれど、もしかすると感性の鋭い女性の目には世界がリアルにこんなふうに見えているんじゃないのかな、という気にもさせられる。たとえばケリー・リンク水原紫苑加門七海小倉優子は、表現方法がそれぞれ異なるだけで見えている世界は一緒なのかもしれないと、ふと思ったりもしました。ほんのり感動的な、それぞれの自分探しの旅。
 

「すすり泣く子供」ジェーン・ガーダム/はしもとようこ絵(The Weeping Child,Jane Gardam,1975)★★★☆☆
 ――「幽霊ならあたし、見たことあるわよ」とインガム夫人は言った。「まだ生きている人間の幽霊だったわ」娘は目をぱちくりさせた。夜もだいぶ更けてきた。ディナーの客たちはなかなか帰らなかった。それに母親も、彼女を疲れさせた。肉体的にではない。疲れるのは、母親がいることそのものだった。

 タイトルだけ見たらホラーかと思った。幽霊は出て来はするが。この母親のマイペースっぷりにいらいらするのはわからないでもない。庭師の子どものころの幽霊を見たのだって、いつまでも娘を子ども扱いしているように――母親の目には今も娘が子どものまま映っていることの暗示と思えなくもない。マイペースっていうのは、つまり他人の気持をくめないということだからなあ。いい人ではあるんだけど娘に(娘自身が期待するほどには)愛情を注いでこなかったんじゃないかという気がする。
 

「空飛ぶ絨毯」スティーヴン・ミルハウザー/nakaban絵(Flying Carpets,Steven Millhauser,1997)
 ――絨毯を初めて見かけたのは、僕の近所から少し離れたあちこちの家の裏庭でのことだった。それは地面よりわずか上に浮かんで、ゴミバケツの高さを漂っていた。

 これはもうどこからどう読んでもスティーヴン・ミルハウザーだねえ。子どもだけの国。子どもだけの世界。
 

「がっかりする人は多い」V・S・プリチェット/宮野琢也絵(Many Are Disappointed,V. S. Pritchett,1990)★★★★☆
 ――シドがまっさきに店を見つけて言う。「ビールに着きましたぜ」開ける前にノックする。扉の向こうに女が一人立っている。「おはようございます。バーはこっち?」「バーですか?」「そう。『はたご』って書いてあるじゃない」

 まさに旅の途中。通りすがり。そんな宿屋や女将さんのことなど、たぶん一生思い出さない。旅なんて特別なものじゃない。八百屋に行って、ほしい野菜がなくて、そこのご主人がちょっと風変わりな人で。というのと変わりない。人生なんてそんな出会いの繰り返し。
 

「恐ろしい楽園」チャールズ・シミック板谷龍一郎絵(Feaful Paradise,Charles Simic,1996)★★★☆☆
 ――僕らはみんな、ハリウッド映画の役を演じるつもりでアメリカにやってきた。アメリカは恐ろしい楽園だった。シカゴに行って、貧しい人たちがいるのを見たのは心強かった。五〇年代のシカゴはいまだに工場町だった。

 もうひとつの「アメリカン・ドリームズ」。エッセイだそうですが、これが現実なのでしょうか。アメリカという国の作り物めいたところと移民たちのペーパー・ムーン。夢だけで出来上がってる国だね。
 

「ヨナ」ロジャー・パルバース/アリス・パルバース絵Jonah,Roger Pulvers,2004)★★★☆☆
 ――嵐は突如やって来た。乗組員たちは死に物狂いで動き回っている。「一人いなくなったようだぞ!」「いいえ。船倉で眠っておりました」船長が船倉に着いてみれば、果たせるかな行方知らずの一名はぐっすり眠っていた。「貴様、ヨナだな?」

 聖書の散文詩風再話。さしずめ「ぼんくらヨナの冒険」といったところ。聖書のアレゴリーというのはそのままではキリスト教圏の人間にも理解しがたいのかな、と思わせる。こうしてヨナも誰にでもわかる物語になった。
 

「パラツキーマン」スチュアート・ダイベック(The Palatski Man,Stuart Dybek,1990)★★★★☆
 ――彼は春になるとまた現れた。パラツキーマンは毎週やって来た。子供たちがお金を握りしめて、荷車のガラスに並んだパラツキーを吟味した。誰も彼に構わず、声もかけなかった。子供たちも、行商人を苛むように彼を苛みはしなかった。

 なんていうんだろう。〈怪しい隣人もの〉みたいな感触の作品だと思っていたのです。たぶん目撃したものの正体は実はどうってことない。子どもの空想が生み出した異世界。あとを尾けるという高ぶる気持が、ただの隣町を別世界に見せてしまうような。そんな話だと思ってたのです。それはそれで〈怪しい隣人もの〉のバリエーションとして記憶に残る作品ではあるのですが、最後のパラグラフに至って、うっちゃりを喰らってしまった(^^;。
 

「ツリーハウス」「「僕の友だちビル」」バリー・ユアグロー/ミヤザキオサム絵(Tree House,“My Friend Bill”,Barry Yourgrau,2005)★★★☆☆
 ――ママがキッチンで子供に文句を言っている。「あんたったらまたツリーハウスに行くの?」ツリーハウスのなかには、別世界から来た宇宙飛行士二人と、宇宙船が隠れている。

 寂しい男の子が、架空の友だちをつくり上げる。ビルという名の、喋る熊である。で、その友だちの方だが、まあたしかに愛嬌はあるのだが、この熊、馬鹿ではない。ビルはたちまち飽きてしまう。

 「ツリーハウス」の方はわりとオーソドックスなSFショート・ショート。そして「「僕の友だちビル」」もわりと普通の皮肉な話。バリー・ユアグローだからもっとへんちくりんな話を予期していたので、ちょっと拍子抜けした。しかし悪くない。架空の(存在しない)熊が車に轢かれてぺっちゃんこになるシーンなど、きわめつけのナンセンス。
 

「夜走る人々」マグナス・ミルズ/遠山敦訳(They Drive by Night,Magnus Mills,2003)★★★★☆
 ――もう遅い時間だった。俺は親指をつき出した。エアブレーキがしゅうっと鳴る。「乗るかぁ!?」と男はどなった。何しろトラックがすさまじい音を立てているのだ。「お願いします!」と俺はどなり返した。

 まっとうなロードノベル。今にもエンジンの音が聞こえてきそう。実はほとんど会話していないに等しいんだけれど(^^)、それがいかにもな感じでよい。長旅に話相手は必要。話じゃなくて話相手が。
 

アメリカン・ドリーム」ピーター・ケアリー/鳥屋尾悟郎絵(American Dream,Peter Carey,1974)★★★★★
 ――今日に至るまで、僕たちのやった何が彼の感情を害したのか、誰一人思い出せる者はいない。でも僕らのうちの誰かがやったのだ。それは間違いない。グリーソンは、退職と同時に、ボールド・ビルにある土地を囲う塀を建て始めた。

 ピーター・ケアリーは『どこにもない国』にも「Do You Love Me?」が収録されていました。あちらは地図の話。こちらはジオラマの話。何かありそうな、ないような。奇想天外といってもいいような設定から、ものすごく根本的な問題提起に着地する手際がうまい。幻想・奇想小説かと思っていたらいきなり日常の問題をつきつけられるからのけぞります。
 

「グランドホテルの夜の旅」「グランドホテル・ペニーアーケードロバート・クーヴァー/小川サトシ絵(The Grand Hotel Night Voyage,The Grand Hotel Penny Arcade,Robert Coover,2002)★★★★★
 ――グランドホテル・ペニーアーケードの一番中心に、青いガラスに囲まれて、陶器のように青白い姿の眠り姫が浮かんでいる。自らの純粋さ以外何もまとわず、目は開いているが何も見ていない。

 佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』を読んで、リッツには案内標識がないことを知った。自宅に帰ってきたような、がコンセプトだからだそうだ。それってじゅうぶんファンタジーだと思う。本篇で描かれるグランドホテルとまったく同レベルの幻想世界。ウールリッチに『聖アンセルム九二三号室』という、ホテルの建物を人の一生にたとえた作品があるけれど、つまりホテルとは、一人の人間、一つの世界なのだ。
 

「夢博物館」ハワード・ネメロフ/Natsuko Seki絵(A Commodity of Dreams,Howard Nemerov,1991)★★★☆☆
 ――森のなかの小さな黒い家に、夢見る人は住んでいた。出会ったとき、私は道に迷い不機嫌になっていた。それでも、森のなかに制服を着た人物が立っていることがいかに奇妙かに気づくだけの冷静さは持ち合わせていた。「私はね、夢見る者なんです」

 たとえば架空の書物の書評を書いたボルヘスのよう。たとえば夢や記憶を売っている魔法のお店のよう。存在しないものの博物館。自分の記憶を見せられたり、他人の夢のエピソードを語られたり、っていうタイプの作品ならよくあるのだけれど、本篇はまさに昨日見た夢の話を他人から聞かされた状態(^^;。言われたってわかんねーよっ!と思うわけです。しかし本篇の場合はその何だかわかんない不思議な感じが実にいいんですねぇ。
 

「日の暮れた村」カズオ・イシグロ/チエ・フエキ絵(A Village After Dark,Kazuo Ishiguro,2001)★★★★★
 ――背後で誰かが「こんにちは」と言った。ふり向くと、二十歳前後の女性が立っていた。「あなた、フレッチャーさんでしょう?」「ええ」と私は、いささか気をよくして言った。「きっとあなただと言ってたの。みんなすごく興奮したわ。あなた、あのグループの一人だったんでしょ?」

 逆浦島太郎だなあ。村の人間の方はいつまでも昔のことを覚えていて、フレッチャー一人がすっかり変わって何も覚えていない。でもそれが、旅が人を変える、という前向きなものでもない。フレッチャーも過去にしがみついているんだよね。村に住み着く過去の亡霊と、フレッチャーの過去の記憶。どっちの過去も事実と違うのかもしれない。グループの一員だったという事実だけが共通項でさ。人によってそれが誇らしかったり、憎たらしかったり、憧れだったり。旅の終わり、かぁ。死ぬ前に見た幸せな妄想なのかもしれないな。
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