『すべての終わりの始まり』キャロル・エムシュウィラー/畔柳和代訳(国書刊行会〈短篇小説の快楽〉)★★★★☆

 Carol Emshwiller。1921−。アメリカの作家。

 観察者の報告のような素っ気ない文章から、夢とも現ともつかない世界が紡がれる。

「私はあなたと暮らしているけれど、あなたはそれを知らない」(I Live with You and You Don't Know It)★★★★★
 ――私はあなたの家で暮らしているけれど、あなたはそれを知らない。私はあなたの食べ物をちびちびかじる。あれはどこに行っちゃったんだろう、とあなたはいぶかる……

 座敷童とも憑依霊ともつかない謎の成人女性の視点で語られる、孤独な男女の怪奇幻想譚。独立したもう一つの自我が人の形を取ったもの、と取れなくもないけれど、都市伝説風の〈見えない女〉にまつわるホラーだと思っても楽しめる。友人のいない孤独な女性を描写するにあたって「外に挨拶すべき人がいないことを確かめてから出かける」という細部が秀逸です。
 

「すべての終わりの始まり」(The Start of the End of It All)★★★★☆
 ――支局長クリンプほか二名が残った。彼らが言うには、地球を十五年ねむらせ、回復させなければならない。「だがまず」と彼らは言う。(第一段階)「猫を除去しなければならない」

 宇宙人(だか何だかわからない未知の生物)による、人類への侵略、もとい地球の回復。それが語り手の妄想じみた主観を通して語られるから始末が悪い。「猫を除去しなければならない」理由といい、「飛翔」といい、「暴力抜き」といい、幻想的なくせしてどこかすっとぼけた味わいのある短篇でした。
 

「見下ろせば」(Looking Down)★★★★☆
 ――俺は風に乗ってここに来た。いや、落ちたのだ。なんたることだ、わが一族の者がここまで落ちぶれるとは。手を使って奴らがやるみたいに一段ずつ降りた。目覚めると、暗い場所にいた。彼女がカーテンのかげから登場し、口元にスープのボウルを当てた。

 人間界を見下ろす鳥の視点――かと思いきや、どうも鳥ではないらしい。本書収録作の多くには人外のものが登場するけれど、果たして彼らが実在するのか語り手の妄想なのかは判然としない。その点、本篇は人外のものによる一人称であるため、例外的に視点がはっきりしていて安心して楽しめる作品です。〈もののけ〉の側から見た異類婚姻(恋愛)譚。
 

「おばあちゃん」(Grandma)★★★★★
 ――昔、おばあちゃんは活動家だった。かつて救助隊が作られるとき、おばあちゃんは必ずそこに入っていた。いまも人命救助できるんじゃないだろうか。おばあちゃんには三人の“夫”がいた。資質は世代を飛び越えると言われていたのに、孫の私は一番の出来損ないである。

 スーパーウーマンのおばあちゃんと出来そこないの語り手が暮らす世界。人命救助だけではない。「オゾンを再びくっつけ」てしまうほどのスーパーおばあちゃんなのだ。しかし相変わらず曖昧な一人称なので、果たして実際にスーパーマンが存在する世界設定なのかも判然としない。すべて幼い語り手の思い込みで、実際のおばあちゃんはまさに「ただの頭のおかしなご婦人」だったりとかしてさ。(「まだ胸はない」とあるから、語り手は実際に幼いのだろうけれど、もしかして大人なんじゃないかと途中までは勘ぐって読んでいたりもした)。語り手の「救助」が痛い。
 

「育ての母」(Foster Mother)★★★★☆
 ――幼いものの取扱い法。人工栄養で育てること。たくさんなで、抱きしめ、あまりのさばらせないようにすること。ゆくゆくは手放し、使命をまっとうさせてやってください。――彼らはこの子を「それ」と呼ぶ。私たちは長い散歩に出る。あの子が疲れるとおぶってやる。

 いきなり「幼いものの取扱い法」なんてのが出てきて笑かしてくれます。育てさせておいて大きくなったらはいさよなら――というのは、男権社会と徴兵制度に対する批判と取れなくもない。例のごとくの文体で「きらきらおめめ」とか「アッピー」とか変な名前が出て来るので、すわ語り手の精神は正常でないのでは?――と思うのは大間違い。誰だって幼い子どもと話すときには赤ちゃん言葉になってしまうものなのだもの。
 

「ウォーターマスター」(Water Master)★★★★☆
 ――ウォーターマスターがよしと言えば、りんごの木は育つ。彼がよしと言えば風呂に入れるし、水を飲める。今年は山々にあまり雪が降らない。みんな怒っている。水が少ないというのは嘘かもしれないと思っている。

 本書読了後に訳者あとがきを読むと、ル=グウィンの言葉が引用されていて、「読者が幸福な結末を望めば多くの作品の結末がそのように解釈しうる」と書かれてありましたが、最初におやっと思ったのが本篇でした。これまでの作品は割りとどちらにも解釈しうるようなものに感じられたのだけれど、本篇はハッピーエンドにしか受け取れなかったので。ありゃ、ハッピーエンドだ、もしかして自分が深読みしすぎていただけで、これまでの作品もすべて幸せな結末だったのかな?と感じたわけです。そんなふうに迷いを生じさせちゃうところが作者の狙いだったりするのかもしれませんが。
 

「ボーイズ」(Boys)★★★★☆
 ――我々は新しい少年たちを必要としている。我々はどこからでも少年を盗む。敵味方は気にしない。大方は捕われることを予想し、母親ではなく我々のものとなって喜んでいる。年に一度、〈母親たち〉のもとへ行き、戦士を増やすべく交尾する。

 男は戦争、女は出産、生まれた男子は兵隊に、というのが当たり前の社会。それ以外の通念は存在しません。こう書くとずいぶんと強引な設定の異世界フェミニズムSFみたいですが……。Boysって、兵卒って意味の俗語ですよね。当然、兵士=少年というのを掛けているんでしょうけど。語りと設定に引っかかり、人間から生まれるのは「Boys」だけではないっていう当たり前のことを最後まで失念していました。
 

「男性倶楽部への報告」(Report to the Men's Club)★★★★★
 ――男性倶楽部の尊敬すべき会員諸兄、みなさんは能うかぎり最高の名誉を与えてくださいましたが、もちろんみなさんから見れば、決して最高の名誉ではありますまい。この種のほかのいかなる組織でも、わたくしが完全なる一員として迎えられることはないかもしれませんが……

 カフカ「ある学会報告」の意匠を借りた、まんまタイトル通りの作品なのだけれど、まじめくさった文章が妙に可笑しい。これはイギリス流ユーモアだなあと思って確認したら、アメリカの作家だった(^_^;。書かれてある内容自体はどうでもいいと言ったら作者には不本意だろうし失礼か。
 

「待っている女」(Women Waiting)★★★☆☆
 ――シカゴ行きの飛行機が発つ。あちらから見て、下界の我々は次第に小さくなっている。ほら、彼らは飛び、太陽に向かい、ふくれあがっていく。あの人たちはみんな、あんなふうに自己拡大できて、どんなに楽しいだろう。

 いつともどこともつかない作品が多かったのに、本篇ではいきなり「シカゴ」と書かれています。これだけで意表を突かれました。内容も、これは明らかに妄想のような。ここからちょっと内省的な作品が続く。
 

「悪を見るなかれ、喜ぶなかれ」(See Not Evil, Feel No Joy)★★★☆☆
 ――善も悪も見るなかれ、言葉の前に言葉はなかった。我々は沈黙の誓いを立てた。我々には友だちはいない。会話を禁じられている人と知り合いになることはできない。欲望はさらなる欲望しか生みださない。我々は恋をすることはなさそうだった。

 これもまた、「ボーイズ」同様強引ともいえる設定の禁忌を破る物語。だけどこれはちょっとどうなんだろう。ちょっと説教臭い気がする。最後までもっと実験的に会話なしで行くか、「ボーイズ」みたいにエンタメ度が高いか、どちらかにした方がよかったんじゃないのかなあ?
 

「セックスおよび/またはモリソン氏」(Sex and/or Mr. Morrison)★★★★★
 ――モリソン氏は男にしてはとてもいい人だ。いつも微笑みかけてくれる。問題は彼の正体で、「常人」の一人か「ほかの者」かということだ。世の中には二つの性しかないというのが、間違っているのかもしれない。きっと「ほかの者」がいるはずだと。

 二重三重の妄想が止どまることを知らない。「男にしてはとてもいい人」だから男でも女でもない「ほかの者」と思い、「顔が引きつった」のを「私にウィンク」したのだと思い込み、挙句の果てはストーカーして化物扱いして……。脳内でいい方にいい方に考える妄想短篇が多い中、これは珍しく現実を突きつけられる作品。例えば男ではないのだから「ほかの者」でしかあり得ないというような、でたらめな論法など、現実の前では無力だ。
 

ユーコンYukon)★★★☆☆
 ――彼は竜だ。狼だ。トナカイだ。彼女は彼を喜ばせようとする。そしていま彼女はひたすら進む。道に迷いやすい。彼女は思う。一方、彼は家にいる。彼女が去ったことにはまだ気づかない。午後近く、熊の洞穴を発見。まだぬくもりが残っている。

 動物を人間のように描いているのか、人間を動物のように描いているのか、だんだんと読んでいるこちらの感覚が麻痺しておかしな具合になってくる。語り手がおかしな人間であることは初めから明らかなはずなのに。
 

「石造りの円形図書館」(The Circular Library of Stones)★★★★☆
 ――そんな話はありえない、とみんなに言われた。この遺跡に、インディアン時代以前にさかのぼる都市などなかったと……。ずいぶん前から両脚が痛むため、発掘は一番やりやすい運動だった。

 インチキ宗教やインチキ占いみたいな、後付けの理屈に思えるのだけれど。。。そうか騙される人はこういうふうに物事を思考するのかと興味深かった。無論これまでの作品同様、実際にお告げがあったのだという可能性も捨てきれない。
 

「ジョーンズ夫人」(Mrs. Jones)★★★★★
 ――コーラは朝型だ。妹のジャニスは午後遅くなるまで頭がはっきりしない。結婚して親の古い農家を出ていけばよかった、と二人とも思っている。コーラは何もかも片づけ、誰も来なかったかのようにしてしまう。ジャニスは台所を片づけ、自分がいた痕跡は留めないようにする。

 なんだこりゃ(^^)。グロテスクなユーモアがギャグの域に達している珍品。オールドミス姉妹の確執と性欲が、あらぬ形を取って現われます。そのぶっとび具合だけでも一読に値する。人は気持の持ちようで変わるものなんですねえ。やがて明らかになる確執の根。「私はあなたと暮らして――」や「見下ろせば」のもそうだったように、姉妹であると同時に鏡像や自我でもあるんじゃないかと思わせる余韻に満ちた作品でした。
 

「ジョゼフィーン」(Josephine)★★★☆☆
 ――真っ先にやるべきこと……「ジョゼフィーンを見つけること」。彼女が“お年寄りの家”に戻ってくるまで、ここでは何もはじまらない。なぜ私みたいな男をジョゼフィーンを探す係にするのか?

 これもたぶん、呆け老人の話なんだと思う。ほとんどが語り手の願望であって、現実に起こったことではない。もちろん、老いらくのロマンスを描いたファンタジーだと捉えてもよいのだが。
 

「いまいましい」(Abominable)★★★★☆
 ――我々は未知なる領域へ向かって何気ない風を装い前進している。司令官は言う。「覚えた名前をいくつか呼んでみろ」即実行。アリス、ベティ、マリリン、メアリ……応答なし。

 UMAならぬ未確認女性を求めて右往左往試行錯誤する調査隊。反射的にドリフのコントを連想してしまうバカな日本人はわたしだ。
 

母語の神秘」(Secret of the Native Tongue)★★★★☆
 ――現代言語学のシンポジウムに参加しないかと招かれた。私は現代言語学について無知もいいところだが、晩餐会で私は基調講演を行なうことになっている。よりによってなぜ私にと思ったとき、名前がふた文字違っていることに気づいた。

 言語学シンポジウムの招待状が誤配されたのをこれ幸いと、言語学を詰め込みのこのこ出かけて行くという時点ですでに規格外。なのだが、妄想に他人もつきあってくれるなんて、ある意味しあわせな人じゃないかと思う。ちょっといい話っぽくてびっくりした。
 

「偏見と自負」(Prejudice and Pride)★★★☆☆
 ――恋人たちがいまだ離ればなれであることにこちらが焦れてしまうほど、性愛を控えるためにあまたの古めかしい手法がとられている。なぜ黙って待ったりせずに、互いに呼び合わないのか?

 どこからどこまでが引用でどこがどうパロディなのか、原典を未読なのでよくわからない。よくわからないなりに、おそらく原典ではうまく逸らされていたセックスの問題なんかを扱っているんだろうなあとは思うけど。今後とも原典を読む気はないのでずっとわからないままだろう。
 

「結局は」(After All)★★★☆☆
 ――私は声が大きすぎる。何もおかしくなくても声を出して笑ってしまう。凶事があれこれ起きていたらどうなったかという一連の悪夢を一晩じゅう見たせいだ。

 おばあちゃんのセカイ系。惚けや死と戦い、勝てぬのならば、もろともに――。
 

「ウィスコン・スピーチ」(WisCon Speech)★★★★☆
 ――いまは一番難しいからこそ、書くことが一番好きです。そしてプロットやストーリーが大好きです。内緒ですが、私は詩よりも短篇を書くほうが難しいと思います。

 これはその名の通り、スピーチの原稿。「日常を異化する」ことが、「SFを一番気に入っている点」なのだそうです。生まれや育ちや新作長篇についての話いろいろ。
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