『反=近代文学史』中条省平(中公文庫)★★★★☆

 あとがきを見ると「反=近代」らしいのだけれど、もちろん「反=〈近代文学〉」であっても「反=〈近代文学史〉」であっても悪い理由はない。

 鏡花・谷崎・乱歩・足穂・夢野・三島・澁澤・風太郎という目次を見れば、「反=近代文学」⊃「反=自然主義文学」と勘ぐることもできるだろうし、「人間中心の世界なんてまっぴらごめん。」という帯の惹句を見れば、つまり人間中心の「近代文学史」に「反」する文学史なのだと受け取ってもいいのだと思う。

 実際本文には「お化け」だとか「人外境」だとか「人間世界の外」だとかいう言葉が散見され、なかなか普通の文学史っぽくはない。

 足穂の項は、折口信夫平田篤胤から始まる。はて?と思いながら読み進めていくと、「美少年と天狗の愛の物語」というところに行き着く。この発想は面白いなと思ったんだけれど、足穂研究ではとっくに周知のことなのかな。

 三島の自殺についてのこれまでの解釈を「そこで回避されているものは、ひとえに文学の現場である」と評して論ずるのは、相手が三島だからこそ可能な試みだと思う。「三島を読む」という行為がそのまま三島の死に向かって突き進む。かっこいい。

 あるいは「虫」をキーワードに読む村上龍。こんなにも虫が蠢いていたのかと驚いた。

 こうしてみると、風太郎以前の作家はわたしにとっては過去の文豪なのだということに気づく。作品そのものと、伝えられるエピソードしか知らない。翻って村上龍筒井康隆の場合は、インタビューなりゴシップなり同時代の評論なりマイナーな非代表作なり、外堀を埋めるイメージ量が圧倒的に多い。ツーと言われるだけで頭の中にイメージがカーと広がる感じがして面白かった。

 反=近代文学史とかいいながら堂々と現代(ある意味、反=近代?)作家を取り上げているおかげで、そんなふうな、評論の手つきはおんなじなのに受ける印象は違うという面白い体験をさせてもらいました。
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