「淋しいおさかな」別役実 ★★★☆☆
――女の子はいつもひとりぼっちでした。星の光る夜は、遠い海のことを考えていました。夢の中におさかなが現われて、シクシクと泣くのです。「何故泣くの?」「淋しいからさ」
「淋しい」ってどういうことなの?ということを求めて歩く、いかにも今風の童話である。悪くない。ぜんぜん悪くはないんだけれど、今や童話に限らずこんなのばかりが氾濫してしまった。
「凧になったお母さん」野坂昭如 ★★★★★
――カッちゃんとお母さんの住む町は空襲を受けました。お母さんは水を探しましたが、ありません。熱い空気が顔にふれ、ひりひりと痛みます。眼をつぶっていても、焔の色がはっきりとわかります。
焼け野原のなかで我が子のために水を求める母親、という一点のみにしぼって緻密に描かれた現実がやがてそのままのリアルさで超現実に描かれることで、陳腐な言葉で言えば「写真よりも本物っぽい」とかそういう効果が生まれています。でも子どものころに読んでたら、好きになれない童話だったろうなあ。
「桃次郎」阪田寛夫 ★★★☆☆
――桃次郎は桃太郎の弟だ。知っている人はあまりいない。夏休みのうちに桃次郎の話を書きますとやくそくしてしまったのだ。「そうだ、岡山へ行こう」駅の売店のおねえさんに頭をさげた。「桃次郎のことを聞きたいのですが」「それならクラシキへいかなくちゃ」
桃次郎は桃太郎と違い弱虫で……作者の体験談という設定にしたおかげで、ホラーにもなっているし、読者へのメッセージも説教臭くなくなっています。
「コジュケイ」舟崎克彦 ★★☆☆☆
――「ぼっちゃん、そこでコジッケが遊んでいますよ。つかまえにいかねえか」と私のうでをひっぱった。ひなをつれて……私の心が動いた。母親にまとわりつくひなのようすが、かつての私と母の姿にかさなった。
成人した語り手の視点で書かれているんだろうけれど……大人が書いた説明臭い童話の最たるものだな。
「はんぶんちょうだい」山下明生 ★★★★☆
――「あついね」うさぎがいいました。「海へいきたいね」さるもいいました。「すぐに魚をつろう」つりざをの先にすいかをはんぶんつけました。でもつりざおはうごきません。「すいか食べようか」「これ、ぼくのだよ。きみのはえさにしただろう」「はんぶんこしようよ」
いくらでも教訓的な物語に出来そうな内容なのに、そんなのどこ吹く風のシュールなファンタジー。道徳臭い「コジュケイ」のあとだと輝いて見える。
「花がらもようの雨がさ」皿海達哉 ★★★★★
――もしかすると、初めての百点かも……。答案が返されたのは雨の日だった。「岡野初江」「ハイッ!」ところが、答案には六十点しかついていないのだった。答案の見かえしが始まった。気をとりなおしてもう一度そっと答案をひらくと、氏名を書くらんに、「岡野ゆり子」という字が書いてあるのがはっきりと見えた。「ゆり子さんは、まだ気づいていないのかしら……」
おお。ものすごい心理小説だな。子どものころはこんなのが世界で一番重大事だったりしたんだよなー。微妙な心理の綾を描きながら、「コジュケイ」とは違って心理を「説明」してはいないから嘘くささはない。ほとんどサスペンス小説だよ。
「月売りの話」竹下文子 ★★★★☆
――「お月さんは、いかが……とってきたばかりの、上等のお月さんですよ」月売りは、かごの中から、黄色いまるいものをとりだしてみせました。あまずっぱい、よい香りがしました。
ようは「心の疲れ」だとか「ふるさと」や「おかあさん」の話なんだけれど、それを導き出すために中国民話みたいな発想が用いられています。そこがいい。
「ひろしのしょうばい」舟崎靖子 ★★★★☆
――あたしが店番させてもらったのは、店が一番ひまな時間だ。つまんないな。お客さんは、小さな男の子だった。だまってざらめをひとふくろつかむと、お金をあたしの手にのせて出ていった。しかし、お金だと思ったのは、さくらの花びらだった。
深読みしようと思えば「商売に貴賤はない」みたいな教訓を作品中に読み取ることも可能なんだけれど、でもこれはそうじゃなくて、桜吹雪を「ひろしの商売」と表現する感性が素晴らしいと思う。「ひろしの仕業だった」というだけならそんなに感動しない。「ひろしの商売」だからいいんだよね。
「だれもしらない」灰谷健次郎 ★★★☆☆
――まりこは小さいときの病気がもとで、筋肉の力がふつうの人の十分の一くらいしかない。二百メートルを四十分かかってあるくことになる。
どうしても灰谷健次郎クラスになると、読む方も作風なり何なりを意識せざるを得ない。『兎の眼』『太陽の子』の作者がこれを書いたと思うと、ふーん、と思ってしまうのである。
「ぽたぽた(抄)」三木卓 ★★★☆☆
――まよなかにリョウがなきだします。かあさんがやさしくおこします。「どうしたの」「あのね。うんこのゆめみたの」
詩人だからというわけでもないが、これは詩ですねー。完成度の高い小学生の絵日記にも見える。
「おとうさんの庭」三田村信行 ★★★★☆
――国夫のおとうさんは失業中でした。おとうさんの年では再就職先もなかなか見つかりません。おかあさんはパートをはじめました。家に持って帰った仕事をおとうさんもてつだうと、おかあさんもうれしそうでした。
不覚にも結末近くの場面にはちょっと感動してしまった。ただし、これは子どもの視点で描いた、飽くまで「おとうさん」の物語であるという点で、子どものころ読んでもあまり楽しめなかった作品だと思う。
「ひょうのぼんやりおやすみをとる」角野栄子 ★★★☆☆
――ひょうのぼんやりは、動物園のひょうです。いつもぼんやりしているので、こんな名まえになってしまいました。むりもないのです。動物園のくらしは、毎日毎日、同じことのくりかえしです。
大人の目で読むと、どうしてもお婆さんの扱いに何かひねりを期待してしまう。「ぼんやり」のまま丸く収まるなんて。
「まぼろしの町」那須正幹 ★★★☆☆
――たわいのない夢だった。ぼくが泣いている。背の高いお兄さんがやってきて、ぼくの名をよんだ。「ヒトシ……」あれはどこのお兄さんだったんだろう。
那須氏の作品は、ズッコケシリーズなんかでも、著者の生の声が聞こえてきて嫌だった。これも「そういう話が書きたい」というのが聞こえる作品なのである。
「仁王小路の鬼」柏葉幸子 ★★★★☆
――この地方には、鬼の伝説が多い。仁王小路にも、鬼の話が伝わっている。いたずら者の鬼を、仁王様がこらしめて、鬼の角をおってしまった。その角を地面になげすてたところ、そこから桜の大木がはえてきたという。その伝説のせいか、仁王小路には桜の木が多い。
童話で、このタイトルで、こういう鬼の扱いってのはすっかり騙されました。可愛らしい百鬼夜行みたいだ。
「電話がなっている」川島誠 ★★★★☆
――電話がなっている。君からだ。だけど、ぼくは、受話器をとることができない。いまのぼくには、君と話をする資格なんてない。君は、もちろん、許してくれる。こうするのは「人間」として当然なことだって、いつもと同じやさしい声だろう。ぼくには返すことばもない。
詩みたいなリズムの凝った文体の一人称だなんて、自意識に凝り固まった中高生らしさをわざと狙って書いているのだとしたらたいしたもの。反吐が出るくらいのナルシシスティックな文体で語られる、甘酸っぱくて苦くシビアな現実の写し鏡。「シャツのボタンをひとつ多めにはずしてたいしたことのない胸毛を見せようとし」といった悪口のセンスもいい。
「半魚人まで一週間」矢玉四郎 ★★★★☆
――いつの時代にも、へんてこなことが流行することがある。ぼくの会社では、海の魚を飼うことがはやっている。課長はさっきから水槽に顔をくっつけて、口をパクパクさせている。最近は美弥子もデイト中に魚の話ばかりする。「サメの泳ぐ姿なんて、とってもセクシー」
『はれときどきぶた』の作者なのか。言われると納得。理屈なんて知らんぷりの変身譚が楽しい。
「少年時代の画集」森忠明 ★★★☆☆
――ファンタグレープがのみたいというので、一本買った。おばあちゃんは空きかんをながめていたが、「進む。あたしが死んでも、ハンタで生きていきなよ」「え?……ファンタで?」「ファンタというのは、すてきとかおもしろいとかいうことだろう」
ちょっと、これは……。基本的にわたしは、こういう「大人の視点で描かれた子どもの一人称」というのが大っ嫌いです。特に本篇は、結末付近で大人の常識の嘘が暴かれるだけにかえって、描かれる子どもの大人びた不自然さが作品全体を嘘くさいものにしてしまっている。
「絵はがき屋さん」池澤夏樹 ★★★★☆
――絵はがき屋さんが来たのは一年ちょっと前のことだ。「値段はですね。一枚一ドル。注文は五百枚単位です」とんでもない値段だ。「なぜそんなに高いんですか?」「受け取った人が必ず来るんですよ」
魔法そのものではなく魔法をもたらす魔法使いこそが思い出のなかで輝いているっていうのはいいよね。それこそがほんとうだ、とも思う。
「くるぞ くるぞ」内田麟太郎 ★★★☆☆
――大きな森へ。ある日のこと、大きな雪がふってきた。ハクモクレンの花びらより、ずっと大きな雪だ。それにしてもなに雪とよべばいいのだろう。「でかでか雪」「ぶっとい雪」「ものすげえ雪」森一番のものしり、キツツキはこたえた。「これは千年に一どふる千年大雪というもんだ」
いかんな。頭が硬直している。「森が高く持ち上がった」という文章の意味が、結末を読むまでわからなかったよ。それを言うならその直前の「森があつい雪ぼうしをかぶっていた」からワシが羽をすぼめたというのも初めはよくわからなかったし。文章を文字どおり素直に受け止められるか、常識のフィルターを通してしまうか、読み手の感性が試されます。
「草之丞の話」江國香織 ★★★★☆
――世間知らずで泣き虫なおふくろが、どうして女手一つでこれまで僕を育ててこられたのか、ふしぎには思っていた。女優というのはよほどもうかる商売なのだろうと、僕はのんきに考えていた。七月。おふくろはさむらいのかっこうをした男と話をしている。役者仲間だろうと思ったが、これが草之丞だった。
草之丞はともかく、風太郎というのがイイ。こういうセンスが童話ならではだと思う。父のない子の成長物語。「そなた」なんていうあからさまな侍キャラが現代的なジェントル・ゴースト(?)・ストーリーです。
「黒ばらさんと空からきた猫」末吉暁子 ★★★★☆
――二級魔法使いの黒ばらさんの部屋のベランダに、ドサッとなにかがおりたった気配がしました。「あら、猫じゃないの」どこからどこまで、まっ黒け。食べ物を要求し、ださなけりゃすごんでみせる、居直り強盗のような猫でした。
人間界で暮らす魔女のところに別の世界に住む魔女の猫がやってきて迷惑をかける……という不思議な構造の作品。いぢわる猫と嫌なばーさんの話である。
「氷の上のひなたぼっこ」斉藤洋 ★★★☆☆
――「こんどは右ですよ」「そうかね」「もう二かい、左がつづいているんだから」セイウチとシロクマです。「もう、やめようか」「どうしてです」「おまえさん、たくさんまけてかえったんじゃ、おくさんにばれて、しかられるだろ」
動物の姿で描かれた、いつかのどこかのだれかの(だれもの?)日常。
「あしたもよかった」森山京 ★★★☆☆
――くまのこは、川のふちにすわっていました。耳をすますと、水はきつねくんきつねくんきつねくんとささやいているようでした。なおも耳をすますと、うさぎちゃんうさぎちゃんともきこえてきました。
くまのこが体験するほのぼの童話。
「金色の象」岩瀬成子 ★★★☆☆
――花はセロハンテープを取ってきた。そして指で小さくちぎり、注意ぶかくまぶたに貼りつけた。そうすると二重まぶたができると教えてくれたのは、お兄さんの奥さんだった。昨日の夜、さらにお母さんの栗色のかつらをかぶって、花は店をのぞいた。花の家はスナックになっていて、お母さんも店で働いていた。
金色の象と目の中のきらきらのビジュアルが印象的な、背伸びしたがる難しい年頃の女の子の心の内。
「ピータイルねこ」岡田淳 ★★★★★
――きょうは学校に行きたくない、とみどりは思った。保健当番のせいだった。たったひとりで、保健室までいかなければならない。――そうだ。緑色のピータイルをふんで、保健室までいけばいいんだ。
子どもらしい発想の軽みで綴られたテンポのよさに、読んでいるこちらの心も軽やかになってくる。
「ふわふわ」村上春樹 ★★★☆☆
――ぼくは世界中のたいていの猫が好きだけれど、この地上に生きているあらゆる種類の猫たちのなかで、年老いたおおきな雌猫がいちばん好きだ。
本書には童話としてはどうなんだろうっていうのがいくつかあって、これも完全に大人向けだよねえ。村上印のぼく語り日常。
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