『妖怪画本・狂歌百物語』多田克己編(国書刊行会)★★★★★

 飽くまで「画本」、なおかつ京極夏彦による「解説なんて野暮」な序文……とはいえ、狂歌についての語釈や解説がほとんどないのは、あまりにつらい。

 というわけで、気に入った歌(○)のほか、よくわからない歌(ω)についても、いくつかメモしておきます。残念ながら、肝心の絵は“妖怪の絵”を期待するとたいしたことありません。

入道が見越す一寸先は闇 六分も縮む五分の魂

ω化物の氏神とこそ立てらるれ 出づる夜宮の見こし入道

驚きてしかともみえず見たやうに 咄す人こそ見こし入道

入道のみこしの国の雪の中に ひやひやとして縮みゐるなり

ω冷汗の水をしぼるや青ざめし 糸瓜《へちま》の棚を見こし入道

 やはり似たような発想をする人はいるようで、「見越路や/雪の夜道の」という歌のおかげで、「みこしの国」というのが「み越路」のことでもあるのがわかります。「冷汗」の歌はわかるようでわからない。へちまの棚越しに覗いている見越し入道を見て、冷や汗をかいて青ざめて、冷や汗でぐっしょりとしたへちまをしぼって、というのも顔色のように青ざめたへちまの棚越しに見越し入道が覗いていたから――ってことでしょうか?

ω嫁入りはよき玉姫と行列の 夜を松崎にすゝむ狐火

ωはめなどの鶏を焼くべき火も見せて 背なか帰りを化かす狐火

火ともして狐の化せし遊び女は いづくの馬の骨にやあるらん

 餌にしている油や油揚げや骨の燐が燃えているんだという歌が多い。そういう常識を踏まえたうえで一段階とばしてしまった上記の歌が一つ抜き出てました。最初の歌は「よき玉」とか「夜を松」とかが掛け詞っぽいんだけどよくわからない。次の歌にいたっては「はめなどの」「背なか帰りを」単語の切れ目すらわかりません。いくつかの歌に詠まれている「夜の殿」「迷はし鳥」はいずれも狐の異称だそう。

底ぬけの柄杓を借りて酒船へ 水を割らんと出づる幽霊

南無三と逃げる船足早けれど 船幽霊もやはり足なし

幽霊は酒舟に来てわめくゆゑ 出だす柄杓も底抜け上戸

 船幽霊というと石燕&水木しげるの印象が強いため、柄杓を持った幽霊のイメージだったので、「幽霊船」というビジュアルは意外。平家がらみの歌が多い。次の兼題の「平家蟹」を意識したのか、海に沈んだ有名人といえばぱっと浮かぶのが平家だからか。

ω紅き毛の生えてぞ見ゆる平家蟹 おらんだ文字の横にあゆみて

水鳥に今もおどろく平家蟹 逃げながら目を空ざまにして

鯛ひらめ中に交れど平家蟹 けして奢りの坐には出ぬなり

戦ひに負けても敵に後ろをば 見せぬ平家の蟹の横這い

 最初の歌は一見うまいと思ったけど、蟹であれば別に平家蟹じゃなくてもいいような気もする。泡吹き・横ばい・はさみ、奢り・鵯越赤旗など、似たモチーフが多いので、よほどうまいものじゃないかぎりどうしても初めに読んだものがよく思える。

ω子を産まず奈落に沈み浮かまれぬ 情なの世やあなうぶめ鳥

「あなうぶめ」という言葉の連なりの歌が二首ある。偶然? それとも「あな」と「うぶめ」につながりが? これまでの歌と比べて、単なる産女の歌や死産の歌が多い。産女ではちょっと遊べなかったのかな。

露とのみ消えにしあとに燃ゆる火は 胸のほむらの残りなるべし

松並木紅葉も交ぢる縄手道 青くれなゐに火の燃ゆる見ゆ

 陰火の色を赤と詠んだり青と詠んだり歌によってまちまちだったのを、見事にまとめてくれたのが上記二つ目の歌。

貍を出す見世物師看板の 口上書に尾に尾つけけり

鉄漿つける五倍子の粉さへも貍の 古くなつたる破れ寺の婆

「鉄漿」の歌はさしていいとは思わなかったんだけど、「狸の」が「古く」を導いているのが面白かったので。二股・目が皿など歌材が豊富なわりにはひねった歌が少なかった。「看板の口上書」がいちばんスマートだった。

一ツ家の姥が姿におどろきつ 抜かれん肝を先につぶして

鮨となる石の枕のひとり旅 押しの利いたる姥が手料理

「抜かれん肝を」の歌は川柳っぽいセンスが(ベタといえばベタだけど)魅力。「鮨となる」の歌は実はグロいのだけれど、グロさなどどこ吹く風、上手いこと言ったでしょう?みたいな澄まし方がいい。

実方のすゞめはまたも蛤に 化して近寄る雛の内裏に

 実方の無念を詠んだ歌はけっこうあったけれど、ほとんどの歌は無念を歌うだけでせいいっぱい。「雀海中に……」「内裏への実方の思い」「雛人形の貝合わせ」を詰め込んでなおかつうるさくなかったのが上記一つ目の歌。

ωかきそさへ化けた小僧が三ツ目誰 肩もむ樽もさか田屋の銘

姉さんは何処だと問へば本所と 言はれてみれば三ツ目なりけり

 一つ目の歌は何となく酒屋に関係があるらしいことはわかるのだけれど、全体としてまったくわからない。「かきそ」は「柿衣」、「誰」は「垂れ」か? 「本所三ツ目」という地名(?)があるのだそうだ。「姉さんは」のセンスがいいと思う。

○「髪切」の絵だけを見て髪の毛タイプの化物だと思っていたのだが、髪が切られるという怪異の名前らしい。

天窓《あたま》なき化物なりと轆轤首 見ておどろかん己がからだを

「首を長くして」的な歌が多かったなかで、これは視点の持ち方がうまい。

古井戸の底気味わろき水際に 皿の欠けほど残る月かげ

 皿屋敷の歌は「皿」「更」、「聞く」「菊」の掛け詞が多かったため、それを使わない歌から一首。何気ない風景も途端にホラーです。

ω風鈴の舌長娘見て凄き 年も二八の蕎麦売のかげ

「二八蕎麦」というのがあるのだそうです。

○ビジュアル的にはやはり「輪入道」のモデル「片輪車」のインパクトが強い。

寒けさにぞつとはすれど雪女 雪折れのなき柳腰かも

 江戸時代にも雪女が美人というイメージだったことがわかって興味深いです。雪の積もった松の絵しか描かれていないのですが、空白部分に描かれていたのが消えちゃったのでしょうか。

尻餅をつかば其儘喰はんとや 碓氷峠をおくり狼

つき来る恩は思はで別るゝを 嬉しとぞ思ふ送り狼

 どうやら転んだり倒れたりしたら喰われるという言い伝えがあったようで、そういう歌がいくつかありました。二つ目の歌は敢えて「恩」という言葉を使うのがいい。「狒狒」が猿じゃないのはともかく、「送り狼」の絵もまったく狼じゃありません。

ω歌よめる蛙やなりし天地を 動かす蝦蟆も術はありけん

「歌よめる」ってのがどういうことなのかわかりませんでした。

其のかたち見じと見ぬとの評議さへ つかぬ小田原提灯小僧

 提灯ゆえに小田原を詠んだ歌はいくつかありましたが、小田原評議と小田原提灯の二つ掛け合わせたこの歌に一票。提灯小僧の提灯の方が化けている絵が意外で新鮮です。

ω粥杖になりし柳の下ながれ 住める河童も尻狙ふらむ

ω名に愛でてこゝは大きな釜屋堀 河童の住むによき所なり

ω狙つても油断はせぬぞ河童め 今日は何日だ廿八日

ω借金の淵には住まぬ河太郎 人の尻をば好みながらも

「粥杖」で女の尻をたたくと男児にめぐまれたのだそうです。現代でも「おかまを堀る」というように、「釜」というのは尻を連想させる言葉のようです。「廿八日」ってのがわかりませんでした。年中行事とか俗信とかあるのかなあ。借金と尻のつながりもわかりませんでした。「尻ぬぐい」? 「知りに火がつく」?

文福の茶釜の釣のかけはづし 丁度こゝらが尻と鼻づら

 もともと現実的ではないものを現実的に考えると妙に可笑しいという好例です。

ω立合をたのみて来れば医者までも 離魂病かと疑われけり

「離魂病急度請合直すのは これぞ名医の離れ業なる」&「離魂病看病するもかれこれに 身二つ欲しと思ふ忙しさ」というようなことなのかなあ?

犬猫と同じ譬へに言はれにし その人魂の尾を引きて行く

人魂のとんだ咄に尾が附きて 先から先へ走り行くらん

「犬猫と同じ譬へ」っていう発想が新鮮です。二つ目みたいなベタなのも好き。

打掛の紅葉を肌に重ね(累)着の 千入(血潮)に染みて出づる絹川

 これは狂歌というか、歌物語とかに普通に読まれててもおかしくないと思う。フツーにうまい。

ω骸骨のありしと聞きて医学館 わざわざ行けど見所はなし

ω骸骨のあなめ穴目ゆ生ひ出でて 招く薄に凄き夕ぐれ

 肉も皮もない骸骨だから見るところがないってことなのかなあ? 「あなめ」とは小野小町の骸骨が発した言葉なんだそうです。

五位鷺は己が位を知らずして 六位の色の火をともすなり

 この歌のおかげで、初めの方にあった「六位ならさもこそあらめ如何なれば 青き火をしも見する五位鷺」の歌もわかりました。

人を罵る恨みの杉の逆柱 穴おそろしや鉄釘のあと

 物を人に見立てて見ると途端に怖くなります。それを逆柱にからめた作品。

○「飛倉」という名自体を初めて聞きました。ビジュアル的には完全に蝙蝠ですね。

ω猫の居ぬ涅槃の像の掛物も 三井の鼠は啄みにけり

山法師学ばぬ比叡の経までも 三井の鼠は腹へ入れけり

 猫と涅槃って何のこっちゃいと思ったら、十二支のあれかあ。

ω酒入るゝ其の陶子を産む母は 左り孕みでありしなるらん

「陶子《とくりご》」のことも初めて知りました。百鬼丸みたい。「左り孕み」は男の子が生まれるという俗信があるそうなのですが、それとどう関わるのかがわかりませんでした。

ωマミ穴のまみの付合広尾野の 狐うなぎと狸そば見世

 ググってみたところ「狐鰻」とは当時広尾にあった有名な蒲焼店であるらしい。こんなもん解説がなけりゃあわからんよ。

小夜中に臑うちつけて石よりも 痛さに我も泣くばかりなり

 えぇっと一応、夜鳴石になった「小夜」さんと「小夜中」を掛けていたりもするんでしょうけど、それより何より、歌全体の間抜けさに惚れました(^_^;

抜けあがる毛さへ哀れの窶れ筆 お岩稲荷の幟書くにも

 これを「怖い」と思わず「哀れ」と感じるのが、ちょっといい話、のような気もします。

鷹の羽の征矢に命をとられけり 雲井の庭へ出づる化鳥は

 妖怪名というより怪しい鳥全般の総称のようにも思えますが、あるいは宮中に現れる怪しい鳥のことを特に化鳥と言うのでしょうか。

われ言ふな俺は言はぬと石地蔵 その誓言も堅き言の葉

旅人を脅す地蔵の七変化 名に負う賽の河原者なり

 何だかんだ言って、一首目みたいなベタなのが好きだったりします。二首目は「七変化」というのが「賽の」に引かれて最後になって活きてくるのがいい歌です。

床の間に活けし立木も倒れけり 家鳴りに山の動く掛物

 結果から原因(?)にさかのぼってゆくような順序といい、その原因自体がもののたとえであるところといい、いい意味ですごくひっかかりのある一首です。

○「古椿」の絵は、本書には珍しくちゃんと(?)化物風。

ω檜扇に隠るゝ月の作り眉 姫が天守に名ある蝙蝠

「飛倉」のところでも小坂部姫が詠まれていました。石燕の絵にも蝙蝠が描かれているので、刑部姫といえば蝙蝠、というものだったんでしょうね。

○「犬神」の絵は、妖怪の絵ではなく祈って(呪って)いる場面が描かれています。ちょっとリアルで怖い。ほんとうにこんなことやってたのかな、昔の人たちは……。

形身わけ配る小袖に爪長き 族も欲の手を出だしけり

遊び女が客に無心を打ち掛けの 小袖より出る手管おそろし

 平家蟹のところで「爪長き」というのがわからなかったのですが、ああ、「爪に灯をともす」みたいなものなのか。改めて確認したら「爪長」で広辞苑にも載ってました。どうしたって似た発想は増えてしまうもの。持ち主の執念の歌&質流れになりたくない小袖の歌が多いなかで、妖怪そのものを詠んだものではない遊女の歌が印象に残りました。

はにかむも似気なかりけり猪熊は 鎧の袖を口にくはへて

「猪熊」というのも初耳だったのですが、なるほど凧の絵かあ。ところで「はにかむ」というのは現代語の「はにかむ」と一緒なのでしょうか。この歌を読んでから改めて絵を見ると、めちゃくちゃ面白いんですが。※『江戸語の辞典』には今と同じ意味で文明年間の用例あり。『古語大辞典』ほか古語辞典には見出し語なし。『広辞苑』には「歯をむき出す」という『日本霊異記』からの用例が載っていましたが。。。さすがにわざわざ図書館に行って『日本国語大辞典』を調べる気には……。

○若い「山姥」の絵って初めて見ました。

化けすがた獣偏に爪紅を さして玉藻の美しきまで

思ふまゝ玉藻の前に摘まれつ 濡らす眉毛は持たぬ宮人

 獣偏に爪だなんて、いかにも狂歌川柳っぽい戯れ方がいい。二つ目の歌も、狐と宮中という玉藻の前の特性を二つともうまく読み込んだ作品です。たとえばただの尻尾の歌では、(九尾が特徴とはいえ)別に狐に限る必要がないので、ちと落ちる。

雨漏りの防ぎもならず方丈も 傘一本で開きたる寺

蜘の囲は後光となりて本尊の 光を散らす雨の古寺

御仏の箔は離れて哀れにも 朽ちし土台の光る古寺

 雨の古寺はおそらく雨漏りしているのでしょう。だから蜘蛛の巣が雨粒に濡れて光っている。蜘蛛の巣=後光だけなら凡庸だったかもしれませんが、そこに雨漏りというさらなる古寺属性をプラスすることで、ちょっといい歌になっています。

ω生ひ立ちの昔思へば鎌いたち 古き暦も役に立ちけり

 第六編の追加歌。なぜ「鎌いたち」なんでしょうか? 駄洒落なのか、鎌鼬がらみの伝承に関係があるのか。

○「飛龍」とは基本的には龍のことなのですが、狂歌や解説にもあるとおり、鯉が滝登りして龍になるという言い伝えにしたがって、絵が描かれています。だから鯉の絵です。ぜんぜん妖怪じゃありません。

後髪引かれし事をまこととも 取り上げにくき妹が縮れ毛

怪しきはからかさの紙後髪 左右の手にて引くにやあるらん

 二つ目の歌が、つまりイラストのようなことなのでしょうね。

思ひきや褌ばかりの裸身を おいてけ堀に置いていけとは

 類歌はいくつかあったけれど、この歌がいちばん馬鹿っぽいので(^^)。

ωかりにきて得たる其の火に女等が 胸を燃やせり獺の戯れ男

ω川に住むゆゑにや火にも焼けざるは 宜も火水に強き川獺

ω餌におく魚にはじめは戯れて 果ては落しにかゝる川獺

 これらの歌を総合すると、川獺は火に強くて、魚をもてあそぶ様子から女をもてあそぶという発想が出てきた、ということなのでしょう。

又今宵さとりや来んと山賤の 申の下がりに業仕舞ふらん

 当然ですがさとりがさとる歌はたくさんあったのですが、人間の方が「もうそろそろさとりが来るからか〜えろ」というのはこれ一首でした。

聾の人の恨みやかゝりけん 加持も祈祷も効かぬ生霊

酒好きの生霊なれや梓神子 水を向ければ口も憑るなり

 これは表と裏というか使用前・使用後というか、同じ発想がうまく正反対の方向にわかれた二首でした。

○「鬼女」と書いて「おにむすめ」と読むそうです。描かれた絵も見世物の鬼娘。現代人のわたしの感覚では「鬼女」と「鬼娘」は別物なんですが、歌にはどちらも詠まれていました。

口もとや目もとは言はず玉子とぞ のつぺらぼうの子を褒むる母

涎のみ垂らすのつぺらぼうの子は 女に目なき人の種かも

 一首目を引いておいて何ですが、「目鼻がない」とは言っても口はあるんだなあと、二首目を読んで思いました。いやもちろんそんな字義通り&リアルに感心したってしょうがないんですが。女に「目がない」から涎を垂らすわけで。

髭なでをするとは知らで大鵬は 誇り顔にて海老にとまれり

 懐かしい。ありましたね、ワシとエビの昔話。

「附録・狂歌百鬼夜興之図」

 これは附録なので「狂歌百鬼夜興」から図版はすべて収録されていますが、狂歌は抄録。コミカルな画風の絵で、天狗や毛女郎の描き方なんて、センスあると思います。髑髏は毛女郎の荷物を持ってあげちゃってるし。狸と切禿と燈台鬼と小袖の手は演奏会してるし。火消ばばは火柱を消そうとしてるし。猫またが手に提げているのは牡丹灯籠だし。鉄鼠や破れ車は平安時代グループでまとまってるし。高入道が船幽霊の蜃気楼を出しているし。「狂歌百鬼夜興」を書き記している人物の後ろには猫の足跡が!あるし。
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