『ドイツ幻想小説傑作集』種村季弘編(白水Uブックス)★★★★☆

「犬」フリードリヒ・デュレンマット/岩淵達治訳(Der Hund,Friedrich Dürrenmatt,1952)★★★★★
 ――その町で早速目についたのは、聖書の文句を朗々と唱えているぼろ服をまとった男とそれを取り囲む人垣だった。足もとにいる巨大で恐ろしい犬に気づいたのはあとになってからだった。

 真っ黒な毛並みに黄色い目をした犬が非常に禍々しく、おぞましく美しい悪夢のようです。聖書や真理や男の最期など、何か宗教的な意味合いもあるのかもしれませんが、よくわかりません。
 

「グロウスター卿への委託」アルフレート・アンデルシュ/土合文夫訳(Ein Auftrag für Lord Glouster,Alfred Andersch,1969)★★★★★
 ――フランクフルトのソーセージ屋で、ニコラスはソーセージをほうばっていた。「失礼ですが、ベルンハイマーと申します」「グロウスターです」「では、あなたは七代目の、たしか1430年ごろ、ヘンリー五世のフランス戦役のさなかに消息を断った、グロウスター伯でいらっしゃるのではありませんか?」

 キリスト教やフランスに特定されない、何か普遍的な大きな「希望」の象徴のように間接的に描かれたジャンヌが、明るく清々しく、輝きに満ちています。馬の代わりにスポーツカーをかっとばすグロウスター卿がかっこよすぎます。
 

「蝋人形館」グスタフ・マイリンク/小岸昭訳(Das Wachsfigurenkabinett,Gustav meylink,1913)★★★★☆
 ――シャルノックは精神病に冒され、赤子をかっさらって姿をくらましてしまったんです。ダラシェコーというペルシャ人と一緒のところを目撃されましたが、やがてシャルノックが絞殺体で見つかってから、ダラシェコーと子供の行くえは杳として知れません。それが蝋人形館の広告でダラシェコーの名を見つけることになるとは!

 擬似科学とフリークスという、オカルト臭もっさりの作品です。こういう話は好きではないはずなのだけれど、あまりにも不気味で忘れることができそうにありません。
 

「人間工場」オスカル・パニッツァ/種村季弘(Die Menschenfabrik,Oskar Panizza,1890)★★★★☆
 ――旅をしていて日が暮れてしまい、大きな工場のようなところに案内を乞うてみた。「夜中にお騒がせして申し訳ありません。これはどういうお家でございましょうか?」「人間工場です」

 なんでこの語り手はこんなにまどろっこしいんだろうと思いながら読み進めていくと、なるほど、そういうことでしたか。わざわざ「どれだけ常軌を逸したものであろうと、とにかく物語を最後まで読み通していただきたい」と書かれてあるのを、怪奇小説の常套句だと思って読み流していたのですが、語り手の方が○○だったんですね。作者の経歴を知るとむべなるかななのですが。
 

「写真」フランツ・ホーラー/土合文夫訳(Die Photographie,Franz Hohler,1973)★★★★☆
 ――しばらく前、アルバムのページを繰っていると、両親の結婚式の写真が目についた。両親がいた。叔父は今ほどくたびれた様子ではない。それに母の兄弟。大部分は知らない人たちだ。その中で、一人の男が目をひいた。端の方でベンチに坐り、その一団の一人ではないようにして見つめている。

 写真にしか写らない死神(なのかもしれない。実際のところは何であるのかは最後までわからない)の正体を追おうとしながら、やがて向こうから近づいてきた運命を受け入れる語り手の姿が印象的です。ステッキを持った白手袋の禿げ頭の男というビジュアルに、『マラソンマン』のローレンス・オリヴィエをイメージして怖さ倍増でした。
 

ロカルノの女乞食」ハインリヒ・フォン・クライスト/種村季弘(Das Bettelweib von Locarno,Heinrich von Kiest,1874)★★★★☆
 ――古城の一間に藁を敷いて年老いた病気の女が宿を借りていた。だが侯爵がそれを見て、暖炉の背後に行くがよい、と不機嫌に命じた。女乞食は起き上がったものの、暖炉の背後で息を引き取った。それから何年か経って、その部屋に泊まった騎士が、幽霊が出ると断言したのだった。

 創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』にも収録されていた、クラシックなゴシック・ゴースト・ストーリーです。炎とともにすべてが燃え落ちるあたりがこてこてにゴシックです。
 

「真のホムンクルス、または錬金の叡智」ラウール・ハウスマン/田辺秀樹訳(Der wahre Homunculus oder: Alchemistische Weisheit,Raoul Hausmann,1970)★★★★★
 ――熟慮の末、着手した。神は土塊から人間を作り、息を吹き込んだ。私が賢者の石を用い、蒸溜壜の中で人造人間に生命を授けることができるとしたら、それはゴーレムであるにちがいない。

 はてさて、これは錬金術理論武装した遺書なのか、語り手自身はマジなのか、この話自体が幻覚なのか、いずれにしてもそんなことしちゃあ、どうなるかは……。『占星術殺人事件』の梅沢手記みたいな文体が面白かったのですが、錬金術関係って大抵がこんな文体なのでしょうか。
 

「第四次元」ウーヴェ・ブレーマー/池田香代子(Die vierte Dimension,Uwe Bremer,1970)★★★☆☆
 ――宇宙飛行士A・H氏が長期旅行から帰還した。惑星アオーナのフロッド嬢も一緒だった。戸籍課に婚姻届を提出後、一週間はもっぱら夫婦のつとめに専心していた。その後勤務に復帰し、夕べになって帰宅したところ……。

 SF掌篇集ですが、毒もアイデアも笑いも物足りなさすぎです。
 

「機械に憑かれた男」ジャン・パウル/池田信雄訳(Der Maschinen-Mann nebst seinen Eigenschaften,Jean Paul,1789)★★★☆☆
 ――この文章は御存じ機械男の話をする目的で書いているのです。彼はなにをするにも機械を使います。家には鷲ペンの芯切りナイフ一丁置いてありません。怪しげな道具が一回がちゃんと動いただけでもう何本ものペンがきちんと先をとがらせて機械男の前に並びます。

 わりとまっとうな風刺小説。実は現代人のことを話しているのに、未来の土星人(!)に向かって話しているというのが皮肉が効いています。そのうえ十八世紀の「現代人」がそのまま二十一世紀の「現代人」にも当てはまってしまう普遍性!
 

「黄色テロ」ヴァルター・ゼルナー/田辺秀樹訳(Der gelbe Terror,Walter Serner,1923)★★★☆☆
 ――黄色テロリストの目標は、全面的な混沌の導入だ。状況と頭の混沌。これが正常な状態としてもたらされなくてはだめだ。まさに文字通りの無法の自由ということになれば、世の中はまちがいなく変わる。

 混乱と狂気の「黄色テロ」。何となくユーモアのセンスがチェスタトンみたいだと思いました。まあ書き方は全然違うので本篇にはユーモアなんてありませんし、「黄色テロ」自体が諷刺であるというより、それを作中作として現実的な犯罪に着地するのですが。
 

「寸描された紳士たちの仮面をはぐ」ゲアハルト・アマンスハウザー/渡辺健訳(Entlarvung der ftüchtig skizzierten Herren,Gerhard Amanshauser,1969)★★★★★
 ――「看護婦さん、この子、どうして目じりにこんな繊維があるんでしょう?」赤ん坊が泣かないのは活力不足のしるしであるらしい。しかし医者は健康を保証した。彼女は、人間の生活状況が、くりかえされる個所で結び合わされるフィクションにすぎないことを発見した。自動車のドアや車の走り出す音を聞いて、寸描された紳士たちが出かけて行くのだった。

 断片的な狂気と宇宙の謎に、重なるように忍び寄る世界の終わり。母親の妄想にも思えた世界が、覆い尽くされた繊維となって現実を浸食してゆく風景が圧巻です。鳩の使い方がリアル感をもたらして、ぞくっとするような怖さを演出しています。
 

「メカニズムの勝利」カール・ハンス・シュトローブル/前川道介訳(Der Triumph der Mechanik,Karl Hans Strobl,1921)★★★★★
 ――町のおもちゃ産業は、数年来好況を呈していた。いちばんよく売れたのは、自動うさぎだった。これを開発したホプキンスはある日、会社を辞めて自分の工場をつくろうとしたが、経営者が手を回して許可が下りないようにしていた。

 鴎外の『諸国物語』に「刺絡」が訳されていた人ですね。うさぎ・うさぎ・うさぎ……の、悪意あふれるスラップスティックです。
 

「思いがけぬ再会」ヨハン・ペーター・ヘーベル/川村二郎訳(Ein unerwartetes Wiedersehen,Johann Peter Hebel,1965)★★★☆☆
 ――今から五十年も昔のことだが、牧師が教会で「両名の婚姻に異議を申し立てたい者があれば」といったとき、死神がその申し立てをした。若者は二度と鉱山から戻ってこなかった。

 一段落で一話! 冒頭で花嫁が口にする、家とかお墓とかいう言葉がちょっとあざとく感じてしまいました。
 

北極星と牝虎」ハンス・ヘニー・ヤーン/種村季弘(Polarstern und Tigerin,Hans Henny Jahnn,1959)★★★☆☆
 ――フー=トゥンはとある村の外れに住んでいた。彼は富裕な娘チョー=ウェンの恋の虜であった。父が逮捕され、都から逐電したが、恋人のいる処から遠くに行くこともできなかった。

 中国を舞台にした神話的ファンタジー。人間も精霊も動物も魂も生きている者も死んでいる者もごちゃまぜな世界観が、とても「らしい」です。種村訳もいいのだけれど、勝山海百合に訳してもらったらどうなるんだろう?とも思ってみたり。
 

「風のある日」ハンス・カール・アルトマン池内紀(Ein windiger Tag,Hans Carl Artmann,1977)★★★☆☆
 ――今日は五感がたぶらかされているようで、事実はそうでないというのに風ゴォーと吹いて木を激しくしならせる。バナナのような脚をした若い女が前を歩いていく。風が悪さをしている。秋の落葉が砂利道をすべっていく。

 ここから実験小説っぽいのが続く。妄想小説。風が強い日、植物園で。
 

「日没」ペーター・ポングラッツ/飯吉光夫訳(Sonnenuntergang,Peter Pongratz,1969)★★★☆☆
 ――午後おそく、フォイアーバッハは自分の人形たちで遊んでいたのをやめた。ぼくは落ちた人形を拾い上げ、書棚のわきに置く。フォイアーバッハのだらしなさは、ときおり、ぼくが絵を描くときなど、ぼくの邪魔になる。

 結末からすると、掲載された図版がリアルで嫌ですね。。。いかにもそれっぽい。
 

「田舎のボーリング場のピンが倒れる」ペーター・ハントケ/丸山匠訳(Das Umfallen der Kegel von einer bäuelichen Kegelbahn,Peter Handke,1969)★★★★☆
 ――ある大学生と弟の大工が東ベルリンの親戚を訪れた。伯母は廊下から家の中に入り、ドアというドアを開け放し、ベッドのサイドボードの扉まで開け、窓を閉め、台所から姿をあらわし、居間にもどってからもうひとりの訪問客に気づいた。もうひとりの甥ですよ、という学生の説明に対する応答は、しばらく居間にふたりを置きざりにすることだった。

 事実と解釈、時制が入り乱れ、一つ一つの文章は意味をなしているものの、総体としてほとんど意味がわからないというとんでもないことになっています。人間は文章のように理路整然とは考えないししゃべらないし行動しない――それを文章にしたのでしょうか。だけど時制に関して気になったのは、ヨーロッパ系言語の場合だと「主語-動詞-属詞」というような語順だから、初めに「だった」と完了形で言ってしまってから、いや違った――というようなこともわからないでもないけど、日本語だと動詞が文の最後に来てしまうから完全に意味不明な気もします。
 

「シティルフス農場のミッドランド」トーマス・ベルンハルト/樋口大介訳(Midland in Stilfs,Thomas Bernhard,1969)★★★☆☆
 ――わたくしどもの育ちに通じない外部者は、英国人が来たときのわたしたちの態度を、気ちがいじみていると、わたしたち自身のこともシティルフスの雰囲気も、わざとらしくて我慢ができないと、思うかもしれない。

 これは文体が受けつけませんでした。ブロックをえんえんと連ねてゆく文章が20ページ以上も続くので、頭が痛くなります……。
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