『東欧怪談集』沼野充義編(河出文庫)★★★★★

サラゴサ手稿 第五十三日」ヤン・ポトツキ/工藤幸雄(Manuscrit trouvé à Saragosse,Jan Potocki,1804)★★★★☆
 ――わしは「決闘」で分団長を殺した。聖金曜日のことじゃ。その日から、毎週金曜日の夜になると分団長の夢を見た。「それがしの剣を故郷の城に持ち帰ってほしい」

 ポーランドアラビアンナイトとも称される奇書。うつぶせに寝て胸が圧迫されて嫌な夢を見ることがありますが、心臓を一突きされる夢を毎週見なくてはならない文字通りの悪夢には胃がきりきりと痛みます。

 

「不思議通り」フランチシェク・ミランドラ/長谷見一雄訳(Ulica Dziwna,Franciszek Mirandola,1918)★★★★☆
 ――蛇口から水滴が垂れていた。無意識のうちに聞き取ったのはこのような言葉だった。「不思議通り三十六番地……不思議通り……」

 訪れなかったユートピアの入口。水滴の音はそれだけで気になるものですが、それが意味を持って強迫観念的につきまとわれるのは、いや〜な気分になれます。しかしこの作品が独特なのは、それを神経ホラーにはせずに、ユートピア(かもしれないどこか)からの誘いにしたところで、独特の幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 

「シャモタ氏の恋人」ステファン・グラビンスキ/沼野充義(Kochanka Szamoty,Stefan Grabiński,1919)★★★★☆
 ――六日前から私は幸福に酔いしれている。手紙を受け取ったのだ。町一番の美女である、あの人から……。だが逢瀬は毎週土曜日だけ。口をきいてくれないし、顔をヴェールで隠したがるのだ。

 一週間ごとに(上半身が消えていた)という真相は、段階を経ることで恐怖をじわじわと高めることにたいへん効果をあげていました。ただしよくわからないところもあって、なぜ彼女は語り手のもとに現れたのか(ストーカーの執心が引き寄せた?)、相手の肉体が語り手の肉体であったのはなぜなのか、気になりました。

 

「笑うでぶ」スワヴォーミル・ムロージェック/沼野充義(Sławomir Mrożek,Ten gruby co się śmiał,1962)★★★★☆
 ――その男は並はずれて太っていた。驚くべきは、その男が全身を揺すって笑っていたことだ。突然、またもや大きな笑い声が聞こえ、二人の太ったペンキ屋が見えた。

 笑いというより狂気に近い。痩せた男を見つけてほっとしてしまう時点で狂った世界に絡め取られているのですが、世界はそれ以上に狂っていました。

 

「こぶ」レシェク・コワコフスキ/沼野充義芝田文乃(Garby,Leszek Kołakowski,1963)★★★☆☆
 ――石工のアイヨにこぶができた。やがてこぶには目や耳や鼻ができて、あっという間にまるまるひとりの人間ができてしまった。その姿はもとのアイヨに瓜二つだったが、性格は悪かった。

 寓話。ピッコロ大魔王みたい。極悪ではなくせこいところがリアルで、こういう嫌なヤツ、身近で具体的に思い出してしまいました。

 

「蠅」ヨネカワ・カズミ/坂倉千鶴訳(Mucha,Kazumi Yonekawa,1988)★★★☆☆
 ――男は本を読んでいた。「えぇい、蠅の奴め。気が散ってたまらない」。悪魔が囁いた、「殺してしまえ!」。良心が現れて言った、「あなたらしくもない」……

 ここまでポーランド篇。著者は米川正夫の孫に当たるらしい。「俺」で始まった人称が「男」に変わるところが、いかにも妄想じみていて怖い。それとも「俺」と「男」は別人なのでしょうか。

 

「吸血鬼」ヤン・ネルダ/石川達夫訳(Vampýr,Jan Neruda,1871)★★★★☆
 ――私たちはプリンキポ島の岸に降りた。ギリシア人の絵描きが少し離れたところで絵を描き出した。勝手にするがいい。恋人たちは幸せそうに海を見つめていた。

 ここからチェコ篇。何気ない観光シーンに秘められた恐るべき意味を知るや、作中人物ならずとも戦慄しました。

 

ファウストの館」アロイス・イラーセク/石川達夫訳(Faustův dům,Alois Jirásek,1894)★★★★☆
 ――悪魔がファウスト博士を捕えたまま、天井を突き抜けて飛び出した。以来、その館にはファウストの亡霊が出るという。そこに素寒貧となった大学生が住みついた。

 フラグだらけの端正な怪奇譚。悪魔も亡霊も姿を見せぬまま奇妙な出来事だけが起こる静かで落ち着いた雰囲気と、悪魔が天井を破って連れ去るという派手な上下運動との落差のメリハリが印象的な作品でした。

 

「足あと」カレル・チャペック栗栖継(Šlépěj,Karel Čapek,1928)★★★★☆
 ――雪の夜、リプカ氏は帰宅中に足あとを見つけた。ところが足あとは通りのまんなかで、消えていたのである。リプカ氏は警察に電話をかけた。警部は答えた。「足あとのぬしが悪いことをしていたのなら警察の仕事です。そうでなければ何の関係があるというのです」

 どうしても諷刺の匂いを嗅ぎ取ってしまいますが、それとは別に「謎」に対するやり取りには、ミステリー小説に対する諷刺を誤読してしまう自分がいました(^_^;。

 

「不吉なマドンナ」イジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィツ/石川達夫訳(Zlověstná madona,Jiří Karásek ze Lvovic,1947)★★★☆☆
 ――絵画愛好家が集まった席で、年輩の文士が、所有者を不幸にする不吉なマドンナの絵について話した。そのマドンナは、悪意を持っているのかと思えるほど、抱いている子供を不吉な目で見つめていました……。

 画家が絵に愛や感動を込められるなら、憎悪をおくることもできる……そんな発想に基づく呪われた絵。絵画による怪というよりは、絵画に魅せられた人物の強迫症的な恐怖が描かれます。

 

「生まれそこなった命」エダ・クリセオヴァー/石川達夫訳(Nenarozený,Eda Kriseová,1987)★★★★☆
 ――家の中に男の人と女の人が入って来る。二人は僕の罠の中だ――。マルチンは暖炉に火を入れようとするが、うまくいかない。エヴァは白い人影が部屋に入って来る気配を感じた。

 タイトルからわかるとおり、男女の間にできる赤ん坊のなかに入り込もうとする魂(?)の視点が採用されています。それとは別に、男女を描いた三人称視点が導入されており、無頓着な男と繊細で不安定な女の齟齬が読者の不安を掻き立てます。中盤には怪談を語る老人も登場して盛り上げてくれました。一種の幽霊屋敷ものとしても読めます。

 

「出会い」フランチシェク・シヴァントネル/長與進訳(Stretnutie,František Švantner,1942)★★★★☆
 ――その男は闇から吐き出された。男は監獄から来たという。兵役に就いているあいだに奪われた許嫁アンナが、未亡人となって戻ってきた。男はアンナと結婚した。ある日、アンナが蒼白になって窓を見つめていた。「あの人が……夫が……いたのよ」

 ここからスロヴァキア篇。男が語る妻の死自体も奇妙な話なのですが、額縁の外に当たる部分の男の登場・退出場面も不可思議なところがあり、すべては雪の夜の幻だったのか判然としません。「切り裂かれた肉のようにみだらに開いていた」アンナの口から、内臓を幻視し、肩に噛みつき生暖かい血を舐めるシーンが、グロテスクでエロティックで美しい。

 

「静寂」ヤーン・レンチョ/長與進訳(Ticho,Ján Lenčo,1988)★★★☆☆
 ――静寂は人間に似ている。生きているのもあれば、死んだのもある。その日の静寂は彼の望んだものではなかった。このために大都会の喧噪から逃れてきたのではない。死の静寂だった。

 これはSFに分類してもいいような作品でした。ちょっと(というかかなり)ストレートすぎますが。それにしても川の音以外すべて死に絶えた静寂とはスケールが大きく、その無音の世界に圧倒されます。

 

「この世の終わり」ヨゼフ・プシカーシ/木村英明訳(Koniec sveta,Jozef Puškáš,1986)★★★☆☆
 ――遅れた列車が車でのあいだ、私は駅者のベンチに座っていた。やがて泥だらけの物乞いが十字架を取り出し、「お恵みを、だんな。裁きの日が訪れたのです」

 わたしは変な姿勢で寝て胸が圧迫されたときって悪夢を見るんですが、その夢のなかでは走っても走っても身体が動かないんですよね。そんな悪夢から目覚めたときに、夢で見た光景が壁に残されていたら……。月並みではありましたが、リアルでねちっこい恐怖を覚えました。

 

「ドーディ」カリンティ・フリジェシュ/岩崎悦子(Dódi,Karinthy Frigyes,1957)★★★★★
 ――病気になって五日目、ドーディは熊の縫いぐるみがほしいと言った。「母さん、出てってよ」熊を渡さなければならない〈悪い子〉は、ドーディからでないと受け取らないのだ。

 ここからハンガリー。なのでカリンティが姓ですね。子どもの〈空想上の友だち〉ものを〈死神〉と重ねた作品です。大事なものを奪ってゆく〈悪い子〉から大事なものを守るため、「嫌いだ!」と叫ぶドーディの姿は涙なくしては読めません。

 

「蛙」チャート・ゲーザ/岩崎悦子(A béka,Csáth Géza,1906)★★★☆☆
 ――蛙だけは大嫌いだ。あのことを思い出すだけで身震いする。四月のある雨の夜、夢に揺り起こされ、未知の恐怖が暗闇の中でおおいかぶさる。蛙だ。体に毛が生え、死臭が漂っていた。

 こちらはゲーザが姓のようです。これほどまでにおぞましい死の使いは初めてです。でも本来は、「死」とはこういうものなのかもしれません。かっこいい死神なんて絵空事。作品の雰囲気自体は静謐なだけに、不気味さがいっそう際立っていました。

 

「骨と骨髄」タマーシ・アーロン/岩崎悦子(Csont és velő,Tamási Áron,1935)★★★☆☆
 ――ヤーノシュとガーシュパールは、「清めを受け」て、その日は肉を食した。ところが老ヤーノシュは無意識のうちに骨を犬に放ってしまった。聖骨の行方がそのままわからなくなれば、世界は失われるかもしれない。二人は必死で骨を探したが……。

 敬虔な生活を送る老師と弟子のような二人の暮らしは、文字通り浮世離れしており、問題が下世話であればあるだけ、桃源郷のシュールなパロディのようです。そして衝撃の(意味不明の)ラスト。

 

「ゴーレム伝説」イツホク・レイブシュ・ペレツ/西成彦(Der Goylem,Itskhok Leybusz Perets,1910)★★★★☆
 ――町を救うためラビは泥人形をつくったが、町そのものが破壊されそうになったため、呪文を解いてゴーレムを停止させた。そして月日は流れ……。

 ここから二篇は国別ではなく、「ユダヤ文学」というくくりのようです。誰にも知られぬゴーレムの存在、を考えるに、これはひいては神の存在の有無にも通じるのではないかと思ってしまいました。ユダヤ教キリスト教の場合は神ありきで、そんな設問自体が成立しないのかもしれませんが。

 

「バビロンの男」イツホク・バシヴィス(アイザック・バシヴィス・シンガー)/西成彦(Der Yid fun Bovl,Itskhok Bashevis/Isaac Bashevis Singer,1946)★★★☆☆
 ――バビロンの男は土地土地で治療をほどこしていたが、魔法を使っているといちゃもんをつけられ、妊婦を近づけるなと陰口を叩かれた。結婚を考えたこともあったが、女たちは誰もが逃げ出してしまう。

 人間からは疎まれる醜い男が怪物たちに愛され、そして向こうの世界に行ってしまう……似たような話をどこかで見たか読んだかした覚えがあるのですが、思い出せません。本人が望んでいる場合と望んでいない場合がありますが、この場合は、どうだったんでしょうね……。

 

象牙の女」イヴォ・アンドリッチ/栗原成郎訳(Žena od slonove kosti,Ivo Andrić,1965)★★★☆☆
 ――象牙でできた女人像をポケットから取り出して飾っていると、みるみる女が大きくなり、口を利き始めた。その話の内容ときたら……。

 ここからセルビアユーゴスラヴィア)の作家。象牙の女といいつつ、男から見た女そのものを詠んでいるような。。。真面目な顔で法螺を吹くような油断ならなさを感じました。

 

「ハザール事典 ルカレヴィチ、エフロシニア」ミロラド・パヴィチ/工藤幸雄(Lukarević, Efrosinija,Milorad Pavić,1984)★★★★★
 ――エフロシニア奥方は、ユダヤ人と不倫しているという評判であったが、その噂を耳にしても、この町に伊達男が現れるのを百年も待てますかとうそぶいた。やがてユダヤ人も死に、夫人は長編詩を遺し世を去った。それはドラクゥラのもとを訪れた娘について詠われており……。

 本来の意味の耽美という言葉に相応しい、高貴で奔放な婦人の一生。どこかの実在の閨秀幻想小説家がモデルなのではないかと勘繰りたくなるような、儚い存在感に満ちています。

 

「見知らぬ人の鏡(『死者の百科事典』より)」ダニロ・キシュ/栗原成郎訳(Ogledalo nepoznatog,Danilo Kiš,1983)★★★★★
 ――ブレンナー氏は三人の娘のうち二人を寄宿学校に入れることに成功した。今日は二人を馬車で送っていく。そのとき森のなかの家に残された娘は、恐ろしい悪夢を見ていた……。

 怪奇小説というよりはオカルト実話めいたディテールに、見てはいけないものを見てしまったような不安感に誘われます。アルジェント作品っぽいとでも言えばよいのでしょうか。

 

「吸血鬼」ペトレ・M・アンドレエフスキ/中島由美訳(Вампир,Петре М. Андреевски,1973)★★★☆☆
 ――ナイデン・ストイコイチンの葬式が済んで一晩もたたないうちに、死人は村に戻って来た。姿を見た者はいないがそばに来ればわかる。どこにでも現れ、悪戯はしょっちゅうだった。

 マケドニアの作家。川の流れが止まるという設定や、どこかユーモラスなたたずまいなど、民話のような趣ながら、いきなり吸血鬼ハンターが現れるとともに、幽霊を生み出しているのは生者の心、という言葉を地で行くような結末が待ち受けていたのには驚きました。

 

「一万二千頭の牛」ミルチャ・エリアーデ/直野敦訳(Douăsprezece mil de vite,Mircea Eliade,1968)★★★★★
 ――ヤンク・ゴーレは契約したまま連絡のないパウネスクに会いにフルモアサ街にやって来た。十四番地の家の前を通りかかったとき、けたたましいサイレンのひびきが聞こえはじめた。『この先一〇〇メートルに防空壕』ゴーレは告示板を見て走り出した。

 ここから二篇ルーマニア。死んだはずの者たちとの邂逅という出来事はありきたりながら、子を呼ぶ近所の母親の声で場面をつないでいる構成が見事としか言いようがありません。ヤンク・ゴーレの漫画の雑魚キャラのような大物ぶりが、周りから浮いているゴーレをいっそう際立たせています。

 

「夢」ジブ・I・ミハエスク/住谷春也訳(Visul,Gib I. Mihăescu,1935)★★★★★
 ――ナタリアの手紙に書かれた住所にあったのは、壮麗な屋敷ではなく、焼け跡の灰燼だった。写真には写っていない膝にあるしるしは、夫である自分だけが知っている……。だれ一人知るものか――。中尉から踊り子の話を聞くまでは、そう信じていた。

 町で評判の踊り子は、生き延びて夫と会うために娼婦となった妻なのか、それとも妻は操を守っていずことも行方がしれないままなのか、生きていてほしくもあり貞節であってほしくもあり――という夫の葛藤を笑い飛ばすような現実……それすらも夢だったのでしょうか。

 

「東スラブ人の歌」リュドミラ・ペトルシェフスカヤ/沼野恭子(Песни восточных славян,Людмила Петрушевская,1990)★★★★★
 ――父がほんとうの父親ではなく、母の若いころの裸の写真を見つけてしまったオレーグは、軍隊で精神に異常を来し……/妊娠した女友達と結婚させられ、無理矢理に二人目も作らされたワシーリイは……/夢枕に立った死んだ妻から、失くした党員証の在処を告げられた大佐は……/戦死した隣人のヴィーチャは許婿だったと嘘をつくヴェーラは……

 ロシア。掌篇四篇。基本的にどれも、死んでしまった人の幻を見てしまう人の話です。四篇目の「小さなアパートで」で、床を切ったときの描写は完全にモダンホラー。本書中でも年代的に新しいだけのことはあります。

  


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