『日本幻想文学大全 幻妖の水脈《みお》』東雅夫編(ちくま文庫)★★★★★

 2012年に刊行された『世界幻想文学大全』の日本篇。『世界』とは違い、三部作の先陣を切る評論篇は存在せず、代わりに『事典』が第三巻として刊行されています。

「序」澁澤龍彦(1985)

 青銅社版『日本幻想文学大全』序文。図らずも、日本の作家と海外の作家を作風ごとに対応させており、『世界』『日本』が揃う本文庫に相応しい序文となりました。
 

「夕顔」紫式部円地文子(?)
 ――源氏の君が乳母の見舞いに訪れた際、西隣にある夕顔の咲いた家から、「あなたはもしや源氏の君ではありませんか――」という内容の歌が届けられた。雨夜の品定め以来、下の下の品の女にも興味を持ち始めていた源氏の君は……。

 源氏物語のなかでも有名な生霊譚。円地訳は地の文はたおやかなのに台詞は結構ざっくりとしていて、取っつきやすい。改めて読むと、夕顔って、死ぬために出てきたようなキャラクターです。
 

「『今昔物語』より」福永武彦(?)
 ――水の精が人を撫でる話/鬼のために妻を吸い殺される話/馬に化身させられた僧の話/大きな死人が浜にあがる話

 「吸い殺される」という表現が凄い。「馬に化身…」は本書にも収録されている泉鏡花高野聖」の元ネタ。
 

「白峯」上田秋成石川淳(1768?)
 ――白峯というところには崇徳院の墓ありと聞いて、ぜひ詣らずばなるまいと、かの山にのぼった。月は出たが木木ふかくあやめも知らぬ闇にうとうとしかけたおりに、「円位、円位」と名を呼ばれて見れば、異形のひとの立ったのを、「たれじゃ。」と問えば、「なんじの詠んだ歌の、かえしをしようと、あらわれたのじゃ。」

 巻頭を飾る作品ということもあってか、『雨月物語』のなかでもひときわ強い印象の残る作品です。互いの思想・威信を賭けた西行崇徳院による言葉の応酬は、映像にしてしまえばただの口げんかに過ぎないともわからず、文章でしか描けない異様な迫力に満ちています。
 

「耳無芳一のはなし」小泉八雲平井呈一(The Story Of Mimi-Nashi-Hoichi,1904)★★★★☆
 ――赤間ヶ関(下の関)に芳一という盲人が棲んでいた。芳一は琵琶を弾唱する技に名を獲ていた。或晩のこと、和尚が通夜に招ばれて行ったので、芳一は寺に唯った一人のこされた。裏門の方から跫音が近づいて来る。「芳一」。

 単に琵琶法師だから盲目なのだというわけでもなく、ちょこんとくっついていていかにも忘れがちだから耳なのだというわけでもなさそうです。怨霊という見えない存在を見てしまい、また結界によって姿の見えなくなる芳一。それに芳一のなりわいは語りものという耳で聞く技芸です。これが個人の書いたフィクションではなく、もともとは民話や伝説のような形であったということが驚きです。
 

夢十夜夏目漱石(1908)★★★★★
 ――こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。また逢いに来ますから」

 印象的な結末が忘れがたい儚く幻想的な第一夜や、怪談の定石を踏まえた第三夜、志怪小説を髣髴とさせる取り残されたような最後が不気味な第四夜、まさしく思いが形となって残っているかのような第五夜、飄々ととぼけた味のある第六夜、などが印象に残っていましたが、読み返してみると第七夜も嫌な話です。

 船から海に飛び降りて、「大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。」と感じる場面。もちろん船が高いのではありません。夢に特有な、時間や距離が引き伸ばされてなかなか進まないような感覚。遊園地のアトラクションなどで感じる胃がひゅっとなるような感覚を持ったまま、永遠に落ち続けなければならないような目に遭うとしたら、まさに悪夢にほかなりません。
 

「観画談」幸田露伴(1925)★★★★★
 ――晩学ではあったが大学二年生まで漕ぎ付けた男が、同窓生から大器晩成先生などという渾名を与えられた。気の毒にも不明の病気に襲われ、東京の塵埃を背後にし、山間の古寺に宿を借りた。サアッと雨が降っている。夜に入った。睡眠が破られた。和尚と小僧が枕辺に居る。雨が甚くなり、渓が膨れてまいりました……。

 耳の聞こえない老僧の草庵に着いて、告げていないはずの名前を呼ばれてからの、空気の揺らいだような感覚はほかでは味わえないものです。夢というよりは、不思議の国に迷い込んだような、不条理なリアリティ。時計の文字盤に、秒針の音、「橋流れて水流れず」の扁額、そして突き抜けたようなクライマックスが訪れるかと見えた矢先に、「屋外は雨の音、ザアッ。」という一行を境に現実に連れ戻される宙ぶらりん感がたまりません。
 

高野聖泉鏡花(1900)★★★★★
 ――旧道は今時往来の出来るのじゃあござりませぬ。百姓はそう云うが、先へ下りた売薬を見殺しにするわけにもいくまい。(可し。)と坂道を上ったが、恐ろしいのは、蛇で。果が無いから肝を据えたが、今度は枝に蛭が生っている。やがて一軒の山家の前へ来た。(何方ぞ、御免なさい、)と云うと、(何方、)といったのは、美しい女であった。

 前半の戦慄と後半の妖艶ばかりが印象に残っていて、女の素性はすっかり忘れていました。優しい色魔という性格付けがアンビヴァレントで新鮮です。村を一掃する洪水から、先の露伴「観画談」や鏡花自身による「夜叉ヶ池」を連想しました。
 

「『遠野物語』より」柳田國男(1910)★★★☆☆
 ――佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集り来てその夜は一同座敷にて寝たり。折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。

 22・33・55・77・99が収録されています。おそらくは三島由紀夫の文章で有名な22段を軸にゾロ目で揃えたのでしょう。しかし三島由紀夫の絶賛にもかかわらず、わたしには『遠野物語』の凄さはよくわからないのです。
 

死者の書折口信夫(1939)★★★★★
 ――かの人の眠りは、徐かに覚めて行った。した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ああ耳面刀自。おれはまだお前を……思うておる。おれが見たのは、ただ一目――ただ一度だ。昔、日のみ子に弓引くたくみの噂を立てられ、おれは討たれたのだ。

 墓のなかで数十年ぶりに目覚めた大津皇子が、愛しい耳面刀自かと見たのは、藤原家の郎女であった。郎女の方でも大津皇子の神々しさに打たれ、山にのぼり女人禁制の寺に侵入する……。ストーリー自体も常人には書けないようなすごいものなのですが、そこかしこで繰り返されるひらがなで書かれた擬音語や擬態語や声を読むだけでも呪文にかかったように吸い込まれてしまいます。この作品では仏教が重要な要素となっていますが、そうかこのころはすでに仏教が勝利を収めていたのだな、と変なところに感心してしまいました。
 

「冥途」内田百間(1921)★★★★★
 ――土手の下にめし屋があった。隣りの腰掛の客がこんな事を云った。「提燈をともして、お迎えをたてると云う程でもなし」私は腹がたって来た。私のことを云ったのらしい。その声を聞いてから暫らくぼんやりしていたが、俄にほろりとして来て、涙が流れた。

 仮にあの世がほんとうにあって、あの世とこの世が触れ合うところを、日記でも書くみたいに素直にそのままに書き留めたら、きっとこの作品のようになるのだろうと思わずにはいられません。不思議なようでいて不思議ではない、不思議に思えるのは他人の話が説明なしに描かれているからで、親と子の日常のひとこまであっても違和感はありません。
 

「女誡扇綺譚」佐藤春夫(1925)★★★★☆
 ――私が詩人の世外民とともに禿頭港にある廃屋を訪れたところ、誰もいないはずの二階から泉州語で「どうしたの? なぜもっと早くいらっしゃらない……」とたずねる女の声が聞こえてきた。地元の老婆によるとそこには「出る」らしく……。

 正直言って怪談やミステリとしてはさほどとも思えない作品なのですが、十蘭の魔都やブレードランナーの都会のような、その時期そこだけに存在したであろう街の空気が肌にまとわりついてくる作品でした。幽霊にしろ現実の女にしろある意味で一途であることは共通するようです。
 

押絵と旅する男江戸川乱歩(1929)★★★★☆
 ――それは蜃気楼を見に出掛けた帰り途であった。「これでございますか」向かいの席の老人は大風呂敷をほどいて押絵細工を見せた。「これを、この遠目がねでごらんくださいませ……いけません。いけません。それはさかさですよ」

 蜃気楼に、遠目がね。そして乱歩の偏愛した鏡。いずれも光の加減で間接的に見た幻。魔力を持つ月光もまた間接光であることを思えば、そこには惑わす何かがあるのでしょう。楯に映った姿を見てメドゥーサを倒したという伝説がこれまで納得できなかったのですが、つまり逆なのでしょうね。現実を映すのではなく蜃気楼を映したために、魔力がなくなってしまった、と。
 

「セメント樽の中の手紙」葉山嘉樹(1926)★★☆☆☆
 ――松戸与三はセメントあけをやっていた。仕舞時分に移したセメントの樽から、小さな木箱が出た。――私はN社でセメント袋を縫う女工です。私の恋人は粉砕器に石を入れる仕事をしていましたが、あるとき石と一緒にクラッシャーの中へ嵌りました。

 収録作は著者生年順なので収録順序が乱歩の次になったのは偶然でしょうが、乱歩的な味のある作品でした。とはいえホラーどころかギャグにしか思えません。こうした劣悪な労働環境が事実であったのだとしても、女工が抗議と思い出のために取った手段のピントがずれすぎていて、作者の作為が丸見えでうんざりです。作中作にしているあたりが小説的技巧というよりもエクスキューズのようでいっそう不快。
 

「『一千一秒物語』より」稲垣足穂(1923)★★★★★
 ――夜景画の黄いろい窓からもれるギターを聞いていると 時計のネジがとける音がして 向うからキネオラマの大きなお月様が昇り出した。中からオペラハットをかむった人が出てきてひらりと飛び下りた。

 「時計のネジがとける」という、たまの歌詞のようなレトリック。「お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた」という、実際に絵にしようとすると描けなさそうな文章ならではの表現。感覚的に書かれただけのポップなファンタジーではないことがよくわかります。

 「たぶんこんな晩だろうよ――」と思わせぶりなことをつぶやくだけのいたずら妖怪のような正体不明の存在は、まぎれもなく怪談で、どことなく内田百間作品のようでもありました。
 

「予言」久生十蘭(1947)★★★★★
 ――石黒が巴里でセザンヌを手に入れ、留守宅へ送ったことを聞きつけた。セザンヌは安部にとって神のごときものであったから、参詣せずにおけるものでもない。ところが石黒の細君が自殺するという大喜利が出、新聞が書き立てたのでうるさいことになった。先日、石黒から手紙が届き、安部が拳銃で自殺することになっていると予言してよこしたのには笑った。

 読むのも三回目か四回目にしてようやく「凄い!」と思えました。再読必須の作品ですね。

 主語のない一人称で綴られる安部についての描写が、いつのまにかそのまま安部視点の三人称に変わってしまう魔法めいた叙述には、何度もページをめくって確かめてしまいました。そしてその魔法の境目こそが、文字通り魔術の継ぎ目であった――とくれば、これが単なる言語実験的なものでも叙述トリックでもなく、ストーリーやプロットと密接に結びついて切り離せない構成上の必然なのだとわかり、その完成度の高さにため息が出ます。

 また、ラストシーンの、いかにも久生十蘭といった、突き放したようなリリシズムが、衝撃的な展開に対しいっそうの効果を上げていました。
 

桜の森の満開の下坂口安吾(1947)★★★★★
 ――桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります。鈴鹿峠の桜の森も人から避けられとり残されてしまいました。この山に一人の山賊が住みはじめました。あるとき八人目の女房をさらい、亭主は殺していきました。「お前のたのみはなんでもきいてやろう」「女房は私一人。この女を殺しておくれ」

 最後に至るまでは、ファンタジーではないという意味合いではリアリズムといってもいい作品なのですが、どんなにグロテスクであってもそこからは匂いや触覚が排除されており、結果的に美しいとさえ言える場面が描き出されていました。しかも興味深いのは、それが満開の桜の魔力のせいではない、という点にあります。小さな怯えを増幅させて見せる幻こそ満開の桜の真骨頂でした。
 

「月夜蟹」日影丈吉(1959)★★☆☆☆
 ――わたしは病いにかかって親戚の家に厄介になっていた。その女は大森中尉の妹で、桔梗という名であった。ひどくやかましい兄に黙って、横井という洋画家のモデルをしていた。蟹の絵ばかり描いている男だったが、今年は絵に女を入れることにしたようだ。

 即物的な出来事にファンタジーを持ち込む「病い」だったわけですが、どうもわたしは日影丈吉の描く幻想と相性が悪く、この作品にしても、語り手が妄想を語り始めても、何をアホなこと言ってるんだこの人は……としか思えませんでした。
 

「仲間」三島由紀夫(1966)★★★★★
 ――お父さんはいつも僕の手を引いてロンドンの街を歩き、気に入った家を探していました。ある晩のこと、あの人に会い、僕たちははじめてあの人の家を訪れたのです。僕たちは何度も深夜にその家を訪れ、お父さんは酒の、僕は煙草のもてなしに預かりました。

 何かがおかしい――ということに気づくのはどの時点でだったでしょうか。読み返してみると、「湿った(中略)外套」を着ているという時点で充分におかしいのです。もっと言えば、「お父さんほど眠らない人はありませんでした。」という文章が既に怖い。あるいは「沼の霧を作っている青白い蛙のような顔」というのが実は譬喩ではないのだとしたら……。
 

「火山に死す――『唐草物語』より」澁澤龍彦(1979)★★★★☆
 ――プリニウスは五十五回目の誕生日を明日にひかえた日、大爆発を起こしたウェスウィウス山に近づきたいという欲求をおさえられなかった。無論、罹災者を救助に行くのだということを忘れてはならぬ。

 史実と空想、小説と随筆のあわいを自在に往還する『唐草物語』のなかにあっては、比較的歴史小説の結構を保っている作品です。とは言え、海胆についての自然科学こそ当時の知識の限界に準じていますが、プリニウスは近代的な思想を持つアナクロな人間として描かれています。
 

「風見鶏」都筑道夫(1972)★★★★☆
 ――宿直の一郎は電話機に手をのばした。「谷田製作所ですが――」「あの……助けてください。閉じこめられているんです。ウェッテルハーンが見えます」一郎は半信半疑ながらも、営業のあいだ風見鶏のある家を探して歩いた。

 被害者は日本語がわからないという設定のこの手の作品は、完全に言葉がわからないと話が進まないので、どの言葉を知っていてどの言葉を知らないかが恣意的にならざるを得ませんが、この作品の場合には悪戯という可能性が最後まで残されているため、恣意的なのが欠点になっていません。破綻しているとしたらそれは悪戯が破綻しているのであって、作品が破綻しているわけではない――という言い訳が成り立ちますから。巻き込まれ型サスペンスに対するアンチテーゼのような結末が物悲しい。
 

「牛の首」小松左京(1965)★★☆☆☆
 ――「こわい話もずいぶんきいたけど……やっぱり一番すごいのは……」「ああ、あれ? “牛の首”の話」S氏とT氏の話を聞いて、私は思わずひざをのり出した。「どんな話です?」「いや、とても、いえないな」

 フレドリック・ブラウンの「うしろを見るな」もそうですが、こういう話は怖いというよりもアイデアが面白い作品だと思います。――にもかかわらず、この作品の場合、地の文で一生懸命に怖がらせよう怖がらせようとしているのが興醒めでした。

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