『読まずにいられぬ名短篇』北村薫・宮部みゆき編(ちくま文庫)★★★☆☆

 名短篇シリーズ第三期・五冊目です。

第一部

「類人猿(抄)」「しこまれた動物(抄)」(『動物のぞき』より)幸田文 ★★★☆☆
 ――これは、歩きつきまでがゴリラに似てきたと云われて、そうかなと頷いているほど、ゴリラを手がけ馴れてきた人の話である。ある日、閉園間近であった。逃げ出したゴリラの後ろ姿は、一ト目で淋しそうだと見えました。檻から出たものの、知った顔はなし、頼りなくてつまらなくて、うろうろしてしまったのだろう。

 たぶん現実にはゴリラは悲しそうに「している」のではなく、悲しそうに「見えた」だけなのでしょう。猿はともかく牛は確実に。それを、動物に愛のある人の目に寄り添うことで、民話の聞き書きのようでいながら、地の文で純然たる事実であるかのように断言している不思議な説得力の文章でした。
 

「デューク」江國香織 ★★★★☆
 ――涙がとまらなかった。デュークが死んだ。私のデュークが死んでしまった。泣きながら電車に乗った。「どうぞ」男の子が席をゆずってくれた。十九歳くらいだろうか、ハンサムな少年だった。「コーヒーをごちそうさせて」電車からおりると、私は少年に言った。

 再読。ジェームス・ディーンに似ている犬。贔屓の引き倒しにもほどがあるのだけれど、そんな語り手の愛情の深さに読者が置いていかれないのは、冒頭の「びょおびょお泣きながら」という泣きじゃくる表現に、悲しみの深さが表われているからだと思います。ちょっと甘すぎますが。
 

第二部

「その木戸を通って」山本周五郎 ★★★★★
 ――中老・田原権右衛門が平松正四郎に坐れという手まねをした。「おまえの家にいる娘はどういう関係のものだ。加島どのの御息女ともえどのが見て来られたのだぞ」心当たりがなかったが、家へ帰ると「平松正四郎さまにお会いしたい」と云うばかりで何もわからない娘がいた。加島家との縁談を妬んだ同僚のいたずらかとも思ったが、平四郎は娘の様子に打たれて引き取ることにした。

 再読。記憶をなくした女性との新しい人生に、つねにつきまとう、いつか記憶を取り戻してどこかに行ってしまうのではないかという不安。類話はいくつもあるでしょうけれど、この作品の場合は、男が無骨で生真面目な武士という存在だからこそ、ふさへの愛おしさ、喪失感が伝わってきます。そこには存在しない木戸が目に浮かぶようです。
 

「からっぽ」田中小実昌 ★★★★★
 ――このフライド・チキンをたべたいけれど、たべたくない、たべるわけにはいかない。とにかく、トイレをこのままがまんしているわけにはいかない。ここにはわたしのトイレはないのだ。トロなんとか曹長の左の目がみえない。存在しなかったはずの右の目が、わたしを見つめている――わたしは基地《ベース》でタイピストとして採用されたが、男ばかりの職場にトイレがなかった。

 描かれているのはどこまでも現実(?)なのに、まるでカフカの不条理小説のような非現実感がつきまとっている、ぶっ飛んだ作品でした。なかんずく鯱のついたトイレで神輿担ぎされるシーンは、躁状態筒井康隆が書いた傑作のような、説明不可能なグルーヴ感に溢れていました。
 

第三部

「まん丸顔」ジャック・ロンドン辻井栄滋(Moon Face,Jack London,1902)★★★★☆
 ――私はジョン・クレイヴァーハウスがいやでたまらなかった。まん丸い顔をした、やつの笑いときたら! 「ハッ! ハッ!」「ホー! ホー!」という笑い声が空に上がっては太陽に挑む。我慢がならん。クレイヴァーハウスを殺そうと決めた。

 異様な強迫観念から、独創的な殺人計画まで、狂気としか思えないような語り手が、嫌い嫌いという口とは裏腹に、実に楽しそうに語っているのが、実に気持ち悪い。そもそも何をされても笑っているクレイヴァーハウスのほうも変な人だし、すがすがしいくらいにいやらしい作品でした。
 

「焚き火」ジャック・ロンドン辻井栄滋(To Build a Fire,Jack London,1902)★★★★★
 ――零下七十五度。いくらこすっても、ほお骨が麻痺し、鼻の先が麻痺してくる。エスキモー犬とともに、時速四マイルの足どりで威勢よく歩いていると、雪の下はかたいはずのところで踏み破り、膝下を濡らしてしまった。焚き火をして乾かさなくては。こんな低温では急を要する。

 極限状況の恐怖をこれでもかというほど詳細に描いた作品ですが、ものをつかむこともできないという指先の感覚をはじめとして、ふだん普通におこなっていることだけに却って想像すらできないような何気ない描写にこそ恐ろしさを感じます。最後にはとうとうパニックに陥ってしまう男のことを、バカ、冷静になれ!と思わず熱くなりながら読みました。
 

「蜜柑の皮」尾崎士郎 ★★★★☆
 ――おもいだすのは岸本柳亭のことでございます。死刑執行の二日前、監房をおとずれたわたくしに向い、柳亭は「いよいよ駄目ですね?」と申しました。その日、この人たちに饗応される蜜柑と羊羹のなかから、蜜柑を一つとりあげました。そのつぎがお医者さんで、それから新辺、北村、河島……とつづきました。

 テーブルの上につまれるほど蜜柑の皮があるということは、それだけの人間が刑に処されたということなのですが、蜜柑の皮が短時間に一つずつ積み上げれてゆくという状況自体が異常です。暴力による大量虐殺ではない組織立った殺人と、ただ殺されるだけの囚人たち。
 

「馬をのみこんだ男」クレイグ・ライス/吉田誠一訳(The Man Who Swallowed a Horse,Craig Rice,1953)★★★☆☆
 ――「この男は殺されたんだ。ショックで」マローンは言った。「この男はぼくの依頼人だった。ダック氏は自分が馬をのみこんだと信じこんでいたんだよ」

 完全犯罪(?)破れたり――? ピントのずれた男を殺すための、ピントのずれた殺人計画。加害者たちは狂人の論理を完璧に把握していたということになります。ある意味天才です。
 

「蠅取紙」エリザベス・テイラー小野寺健(The Fly Paper,Elizabeth Taylor,1969)★★★★☆
 ――学校がすむとシルヴィアはバスに乗って隣町までレッスンにでかけて行く。「ほんとに暑いね」向いの男がとつぜん言った。困ったけれども不安はなかった。バスの中には他の人たちもいる。お祖母さんは知らない人と口をきいてはいけないといわれたけれど、不安はなかった。

 おどろおどろしい描写など一つもないのに、とてつもない生理的な気持ち悪さをもよおさせる作品でした。蠅取紙というのがまたいやらしさを倍増させます。
 

「処刑の日」ヘンリィ・スレッサー高橋泰邦訳(The Day of the Execution,Henry Slesar,1957)★★★☆☆
 ――陪審長が立ち上がって有罪の評決を読み上げると、セルヴィ検事は喜びを隠せなかった。だが処刑が予定されている日のことだった。白髪まじりの男が近づいてきた。「あっしがあの女を殺したんです。警察に話さなきゃなるまいかね。どうしたもんだろう」

 あほみたいに目が曇ってしまったのは、初仕事の喜びでも真犯人だという信念でもなく、エリート特有の過ちを認めたくないという意地だったのでしょうか。
 

第四部

「幸福」「夫婦」(『南島譚』より)中島敦 ★★★☆☆
 ――パラオ本島のギラ・コシサンは大人しい男だった。妻エビルは浮気者だったので、又、大変嫉妬家でもあった。痴情にからむ女同志の喧嘩のことをヘルリスと呼ぶ。恋人を取られた女が、恋敵の所へ押しかけて戦を挑むのである。

 「幸福」の下僕も、「夫婦」の夫も、欲も強い感情もない、なんだか穏やかでのんびりした男が主人公です。
 

「百足」小池真理子 ★★★☆☆
 ――「きゃあ、あれ、何?」「百足だ! 百々子、そこの蠅叩き、取って」

 ショート・ショートとはいえ、人間の本音と状況の本質を切り取っています。
 

「百足殺せし女の話(抄)」吉田直哉 ★★★☆☆
 ――寺山修司氏が二十七のころ、山の中の廃村で、慄然とするような美女に出会った。ふと畳の上をみて、ギョッとした。無数のムカデが這いまわっているのだ。彼女は「おきらいですか?」と言うなり、素手で片っぱしから叩きつぶしはじめた。

 作品そのものに魅力があるだけに、寺山修司の名前を出してしまうのが、寺山頼みみたいに見えて却ってもったいない。ぎょっとして引いたところを、懐にもぐりこむあたりの呼吸が、色事としても小説としても巧みです。
 

第五部

「張込み」松本清張

武州糸くり唄」倉本聰

「若狭 宮津浜」倉本聰

 松本清張「張込み」と、その捕物帳テレビドラマ脚本「武州糸くり唄」と、同じ『文五捕物絵図』から一篇。

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