『世界堂書店』米澤穂信編(文春文庫)★★★★☆

「源氏の君の最後の恋」マルグリット・ユルスナール/多田智満子訳(Le Dernier amour du prince Genghi,Marguerite Yourcenar,1938)★★★★☆
 ――紫の上に先立たれ、五十路にさしかかった源氏の君は、間もなく視力が衰えてくるのに気づいた。昔の恋人が、追憶に満ちた独居を頒ちたいと申し出ていた。花散里もその一人であった。――浮舟と申す百姓娘ですが、山道に迷うてしまいました……。

 嘘をついた報いと言えばそれまでですが、思い出のなかよりも現在の現実を大事にされていると思えば、まだしも慰められる――はずもありませんね。家柄にも美しさにも自信がないからといって、自分を大事にしない人には、他人から大事にされることもないのでしょう。
 

「破滅の種子」ジェラルド・カーシュ西崎憲(Seed of Destruction,Gerald Kersh,1947)★★★★☆
 ――ジスカ氏は品物の来歴を瞬時にでっちあげる天才だった。この指輪は、破滅の種子という名で知られているものだ。指輪は支払いを要求する。買ったのではなく、贈られたり盗んだりした者には不幸が降りかかるのだ。

 再読。やはりラストシーンに尽きます。息子に悪意があったとすればそれはそれで隠そうともしないところが恐ろしいですし、悪意がなかったとしても偶然の暗合に気づきもしないところが薄ら寒く、口八丁の面白さから、出任せの呪いが実現する恐怖を経て、人間の不気味さで終わる多彩な一篇です。
 

「ロンジュモーの囚人たち」レオン・ブロワ/田辺保訳(Les Captifs de Longjumeau,Léon Bloy,1983)★★★★☆
 ――ロンジュモー紙がフールミ夫妻の痛ましい最期について報じていた。永遠の愛を実現したかのようなふたりは、放心ぶりでも有名だった。「もう何度目になるのか、きみとの約束を違えてしまったのは。急用があったわけではない。それなのに、列車に乗り遅れてしまうのだ……」

 ふたたび忘却。列車に乗り遅れる云々と散々書かれてあるとおり、これしかないというべき綺麗な結末です。残された行き先が一つしかなかったにしても、大好きな旅行に旅立つ道を選んだのだから二人にとっては良かったのだ――と無理にでも思いたくなる哀しい終わりでした。
 

「シャングリラ」張系国/三木直大訳香格里拉,張系国,1984)★★★☆☆
 ――宇宙から帰ってきた趙杰が、黒石星のことを話しはじめた。過去の探検隊の報告では、黒石星に生物は存在しないということだった。名前の由来になった石の表面は黒く、裏面は白の長方形をしていた。あるとき奇妙なことが起こった。近くにあった巨石が、自分で寝返りを打ったんだ。こいつらは光エネルギーを吸収して生きているんだ。

 聞き手には妄想にしか思えない悪夢は、カーシュに似た味がありました。「生まれながらの詩人」、黒石族を惹きつけるのは「図案式のゲーム以外にはない」という何の根拠もない断定が、語り手の異常性を高めていました。映画にしても小説にしても、実際に「見せて」しまうと失敗作になることがほとんどなのに、この作品では最後に見せることで成功しています。唖然としました。
 

「東洋趣味《シノワズリ》」ヘレン・マクロイ/今本渉訳(Chinoiserie,Helen McCloy,1946)★★★☆☆
 ――これは露国公使ヴォルゴルーギの若妻オーリガ・キリーロヴナ嬢が姿を消した顛末です。晩餐会の席で公使から王維の真蹟を見せられ、韃靼の血を引くアレクセーイが漢文の題跋を読んで顔色を変えました。晩餐語、馬車に乗って舞踏会に行く途上、オーリガは消えてしまいました。王維の絵と路上にいた乞丐《こじき》が失踪に関係しているようだが……。

 以前「燕京畸譚」の訳題で読んだものの再読。度を越した愛情と異常な取引をすんなりと受け入れてしまえるのは、まさにシノワズリのゆえでした。
 

「昔の借りを返す話」シュテファン・ツヴァイク/長坂聰訳(Die spät bezahlte Schuld,Stefan Zweig)★☆☆☆☆
 ――私が山で静養していたときのことです。食堂に入ってきた落ちぶれた老人が、少女のころに私たちが夢中になったあの俳優だったとは! 最後の出演になると知って彼に身を任せようとしたあの危険な数分間、すべては彼の気分次第だったのです。

 もともとツヴァイクは嫌いな作家なので点が辛くなります。まず長すぎる。自意識過剰な女が、上から目線で「いいこと」をしてあげたつもりで一人自己満足に耽っているという内容にいたっては、ただただ不愉快でした。
 

「バイオリンの声の少女」ジュール・シュペルヴィエル/永田千奈訳(La jeune fille à la voix de violon,Jules Supervielle)★★★☆☆
 ――ほかの子と同じような少女でした。ある日、木から落ちた少女は思わず悲鳴をあげ、ふつうにしゃべる声の底にバイオリンの響きが潜んでいることがわかってきました。

 再読。大人になって失ってしまうものが、これだけ露骨でありながら飽くまでリリカルに綴られていました。
 

「私はあなたと暮らしているけれど、あなたはそれを知らない」キャロル・エムシュウィラー/畦柳和代訳(I Live with You and You Don't Know It,Carol Emshwiller)★★★★★
 ――私はあなたの家で暮らしているけれど、あなたはそれを知らない。私はあなたの食べ物をちびちびかじる。あれはどこに行っちゃったんだろう、とあなたはいぶかる。私と同じ背丈。まったく同じ風采。あなたの服は私好みだ。あなたは何か変だと気づきながら、猫のせいよと言い聞かせる。

 再読。孤独な子どもには空想の友人がつきものですが、孤独な大人には外から他人がやってきてしまうようです。
 

「いっぷう変わった人々」レーナ・クルーン/末延弘子訳(Hyvin erikoisia ihmisiä,Leena Krohn)★★★★★
 ――インカは生まれながらにして、嬉しくなると宙に浮いてしまう。「大きくなればなくなるさ。小児病の一種だろ」と父は言った。五年生の秋に、聖歌隊に入隊させられた。白皙ですばらしい歌声のハンノという少年には、影がなかった。「おじいちゃんのおじいちゃんが、悪魔に影を売ったんだ」

 余計なのでも足りないのでもなく、まさに「みんな違っていいんだ」な物語。影のないハンノが曾祖父が悪魔に影を売ったせいだと信じ込み、鏡に映らないアンテロが自分が孤児で両親がいないせいだと思いたがったり、ことさらに不幸がりたがるのも子どもらしいのですが、もしインカのように病院に行ったなら二人とも「生まれもった才能」「単なる小児病」と言われたことでしょう。
 

「連瑣」蒲松齢/柴田天馬訳(『聊斎志異』より)★★★☆☆
 ――揚の書斎の外には墓が多く、夜が闌《ふ》けてから、たれやら牆《へい》のそとで吟ずさむのである。揚はそれが鬼《あのよのひと》であることを悟ったけれど、女の麗しさにあとを続けた。與《いっしょ》に懼《たのし》もうとしたが、おんなは「妾は夜台《おはか》の朽骨《がいこつ》で、人の寿数《いのち》を促《ちぢ》めるの」と蹙然《まゆをひそめ》た。

 牡丹灯籠で始まりネバーエンディングストーリーを経て漱石夢十夜」の果てに愛は勝つのでした。
 

「トーランド家の長老」ヒュー・ウォルポール倉阪鬼一郎(The Oldest Talland,Hugh Walpole,1933)★★★★☆
 ――コンバー夫人は景色に我を忘れるあまり、トーランド家の孫娘を靴で踏みつけてしまった。トーランド家とトレスニン家は土地の勢力を二分し、対立関係は絶え間なく続いていた。現在トーランド家を統べるのは齢何歳とも知れぬ老婆だった。コンバー夫人のように人がよく元気な客はこれまでなかった。口のきけない老婆がでしゃばりな客を嫌ってるのに気づいたジャネットは、母に対する恨みを晴らすときが来たと感じた。

 善意に隠した悪意を描いた「銀の仮面」の作家による、これは善意(コンバー夫人)を利用する悪意(ジャネットやほかのトーランド一族)の話でした。まさに蟻の一穴とでもいいましょうか、堅牢な支配力が第三者の善意によって崩れ落ちてゆくさまは、「銀の仮面」以上に恐ろしいと感じました。
 

「十五人の殺人者たち」ベン・ヘクト/橋本福夫訳(Miracle of the Fifteen Murderers,Ben Hecht,1943)★★★★☆
 ――Xクラブと自称された医学の大家の集まりでは、会員たちが殺人を犯した場合、それを告白することにしていた。新会員のウォーナー博士も自分の犯した殺人について話し始めた。「患者の少年は医者を信用していませんでした。ぼくは潰瘍性結腸炎という診断を下しましたが……」

 十五人の殺人者たちとは医者のことであり、殺人とは医療ミスによる死亡事故を指します。みな偽悪ぶってはいますが、実際におこなわれているのは犯罪自慢などではなく初歩的なミスへの戒めと断罪であり、だからこそこうした結末にもなり得るのでしょう。
 

「石の葬式」パノス・カルネジス/岩本正恵(A Funeral of Stones,Panos Karnezis)★★★★★
 ――地震は唐突に始まった。地面を引き裂き穴を開け、墓石を粉々にして棺を地上に放りだした。小さな棺には心臓の形をした十八個の石が入っていた。イェラスィモ神父は怒りに顔を染め、犯人探しを始めたが、誰もが口を閉ざした。ついに犯人の家にたどり着いた。「待っていたぜ、神父さんよ」散弾銃を抱えた男が言った。ニキフェロは喀血していた。

 冒頭の地震から次に何が起こるのかまったく予想のつかない、これまでに読んだことのないような小説でした。少女たちの暗い望みは成就しなかった。神父は落胆を感じた。――「正しい」者たちの期待には添わない結果でありながら、すがすがしさを感じさせます。勧善懲悪でもなくさりとてピカレスクでもないフェアな視線は、見る者によって翼のある「天使」でもあり「悪魔」でもある双子に象徴されているようです。
 

「墓を愛した少年」フィッツ=ジェイムズ・オブライエン/西崎憲(The Child Who Loved a Grave,Fitz-James O'Brien,1861)★★★★☆
 ――その墓地にはほかのものには似ていない小さな墓がひとつあった。少年は小さな墓に対する愛情から、その墓を飾るようになった。夏のあいだそこに横たわり、村の子供たちが遊ばないかと誘いにきても、穏やかな口調で断るのだった。

 ちくま文庫怪奇小説日和』で読んだばかりなので今回はパス。
 

「黄泉から」久生十蘭(1946)★★★★★
 ――終戦後、仲買人となって八年ぶりに日本に帰ってきた光太郎が、恩師のルダンさんとばったり出会った。ばつが悪い思いをしながら「どなたの墓まいりですか」とたずねると、「この戦争でわたしの弟子が大勢戦死をしたぐらい察したまえ。みんなの霊と大宴会をやるんだ」「おけいも呼ばれているのですか」「ひどいことをいうね。八年の間、手紙も書かずにいて」

 一人光太郎だけが薄情なわけではなく、日本人の誰もが生きることだけで精一杯な時代に、自己流の召喚で鎮魂するフランス人の姿が、胸を打ちます。それに触発された光太郎によるてんででたらめなお盆にも、伝統や型に嵌らない、本当に相手を思う気持が現れています。そしておけいが計ったかのような出会いに、偶然を越えた超自然の存在を(少なくとも光太郎は)信じ、それが読者にもわかるからこそ、あの感動的なラストシーンが生きてきます。掌篇にもあった「南方で雪」という発想が効果的に用いられていました。

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