『フォックスファイア』ジョイス・キャロル・オーツ/井伊順彦訳(DHC)★★★★★

 『Foxfire: Confessions of a Girl Gang』Joyce Carol Oates,1993年。

 他言の罪は死をもてあがなうんだよ、マディ・モンキー。でもあれから長い月日がたっている。だから話してしまおう。わたし自身、掟作りに加わった一人だ。わたしはフォックスファイアの公式記録員だった。フォックスファイアは後ろを見ない! わたしたちの秘密の合い言葉だ。ファイアフォックスは本物の無法者グループだった。いわゆる犯罪に幾度も手を染めた。でもほとんどの場合、罰せられることはなかった。餌食になったのはみな男だが、屈辱だったのか、臆病だったのか、訴え出た者はいなかった。最高司令官レッグズは死をも恐れなかった。

 きっかけは、福利厚生局の命令で祖母のもとで過ごしていたレッグズが、フェアファックス街まで駆けてきて、窓からわたしの部屋に潜り込んできたことだった。レッグズ、マディ・モンキー、ゴールディ、ラナ、リタの五人は、誓いを立てて、アイスピックで肩に刺青を施した。最初の敵は数学教師のバティンガー先生だった。リタを居残りさせて、変な目つきで見つめるのだという。

 他人につけ入れられるような弱さと、爆発的で攻撃的な(弱さの裏返しのような)強さを秘めた、とんがった感性を持った思春期の少女たちの姿は、まぎれもないオーツ作品の少女たちにほかなりません。それでいながら何かいびつな感じを受けるのは、少女たちの感性と行動にズレがあるからでしょう。

 クールで理知的で潔癖で憎悪に満ちた彼女たちのやることは、けれどあまりにも子どもっぽいのです。実際マディたちはロウティーンなのですから幼くて当然なのですが、その自立心や視野の広さや統制力に比べて、復讐の方法が完全に子どもの仕返しそのものです。

 これは本書が大人になったマディによる回想という形を取っていることが大きいのでしょう。行動や結果はともかく、それを見つめる目にはやはり大人のものが含まれています。

 車に落書きしたり、裸にひんむいてぼこぼこにしたり、プラカードでデモをしたり……子どもっぽさの極致のようなこうした行動は、しかしながら確実な結果をともなっていることも事実です。

 風説による大人の社会的抹殺。レッグズたちが意図したものかせざるものかはわかりませんが、単なる子どもの仕返しのような行動が、確実に敵を穿つ凶器となりうるのは、社会というものが機能しているからでしょう。訳者あとがきによればオーツは本書を少女版『ハックルベリー・フィンの冒険』のつもりで書いたといいますが、ここに現れている社会の目というものは完全に現代的なものだと思います。

 身近な仕返し組織だったフォックスファイアも、やがて大きくなり、誘拐に手を染めてしまいます。お決まりの崩壊――。『ハック』が自由への逃避行だったように、あるいは『テルマ&ルイーズ』のように、レッグズの逃亡は美化された甘い失踪のようにも見えます。ですが、そんな甘さを許す魅力がレッグズには間違いなくあります。カストロの演説写真に写りこんでいたという出来すぎのような後日譚も、伝説的でいいではありませんか。

  


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