『判事への花束』マージョリー・アリンガム

 作品そのものはそこそこ面白い。けれど通し番号269の本書と、続く270『伯母の死』を続けて読むと、“なんだかなぁ”という印象に囚れました。粗筋によると、本書は「文学的」にも評価が高く、また『伯母の死』は「小説」としても優れているそうです。

 作者の短篇代表作「ボーダー・ライン事件」を読んだときには、あの短さで且つ本格ものだというのに、人生の悲劇みたいなものを綴った文学臭さが鼻につきました。

「文学」「小説」。こうした言葉を使わなければミステリが読まれなかった(売れなかった・評価されなかった)時代だったのでしょうか。いずれも今読むと、「文学的」「優れた小説」という言葉をあえて使うほどではないように感じます。

 確かに本書の描写は丁寧かつ丹念なものだし、冒頭の文章も魅力的です。けれど、心理描写ならクリスチアナ・ブランドの方が何倍も上だし、「文学的」というのはセイヤーズやP・D・ジェイムズのような探偵小説をいうべきではないでしょうか。本書の人間消失トリックは必然性の欠片もないすっとぼけたものですが、そうした不自然なトリックのない本格を目指した『伯母の死』に至っては探偵役の行動・思考があまりにも不自然でした。

 もちろん、現在の目で過去を笑うのは卑怯なことです。それでもやはり、手法を間違っていたのではないかと思わざるを得ません。

 似た印象を受けたのが水上勉『雁の寺』でした。氏の作品が小説として優れていても、『雁の寺』にあんなトリックを導入してはいけません。ミステリとしては評価できないし、小説として読むとあのトリックのせいで全てがぶち壊しです。本書も同様にトリックのせいでぶち壊され、『伯母の死』はおかしな探偵のせいでぶち壊しになっていました。

 模索していた時代、ということなのでしょうか。『伯母の死』の作者は、「小説」にとって「トリック」が異物だということはわかっていたけれど、「探偵」が異物であるとは気づいてなかった。『判事への花束』の作者は、探偵たちや社会風俗を生き生きと描いたけれど、あってもなくてもいい一つのトリックが全てをぶち壊すとは気づいていなかった。

 今の日本は幸せというべきでしょう。「探偵」や「トリック」が「小説」にとって異物だと自覚している作家たちが、「小説」に力点を置いた探偵小説の傑作をものすることもあれば、当時は思いも寄らなかったであろう逆パターン——「小説」が「探偵」や「トリック」にとって異物であると自覚している作家が「ミステリ」に力点を置いた探偵小説の傑作をものしてくれもします。

 作者の作品は、「ボーダー・ライン事件」と本書しか読んだことないけど、ギャグみたいなトリックをひねり出す人という印象。

 さて本書ですが、間違っても文学的本格ミステリとして読まなければ、読み終えたあとになぜかしら不思議と印象に残る作品でした。おおらかに筆をふるっている印象でむしろ凝った表現を楽しむことができました。長くなりますがそんな魅力の一端を引用しておきます。


 株式仲買人をやつてみたり茶商を営んでみたり、とにかくいつもシティーで何かしていた一人の小男が、或る晴れた日の朝、郊外の我が家をあとにしたまま、澄みわたつた空にぱつと立ちのぼつた灰色の煙のように姿を消してしまつたという話を、今世紀はじめのころに大ロンドンの住民だつた人ならば、たいがい覚えておいでだろう。

 この話の細部は、諸説ふんぷんとしている。一説では、詮索好きな十番地の主婦が彼の通るのを見たが、十二番地の窓辺によりかかつていた病人は見かけなかつた。そして彼が投函しようとしていた手紙が、両番地の前の歩道の上に落ちていて哀れをさそつた、と。また他の説によれば、その道の両側は高い塀で囲まれていて、一方の突き当りに牛乳配達人がおり、反対側の突き当りにある被害者の家の戸口に、彼の夫人が立つていたのだそうである。この説では、夫人は庭木戸のところで夫の接吻を受け、この風変りな道路の中程まで行つた夫が手を振るのにこたえたというのであるが、しかも牛乳配達人は、その時もそれ以後も、自分の得意先であるその小男の姿を見かけたことはなかつたという。

  

判事への花束(Hayakawa pocket mystery books 269)
マージョリイ・アリンガム著・鈴木幸夫訳

出版社 早川書房
発売日 1956
価格 ¥ 1,020(¥ 971)
ISBN  415000269X
一九一一年五月のある朝、バーナバス書房の重役の一人が家を出て間もなく、広い郊外の道路上で、池におちた雨粒よろしく手際よくも慎み深く蒸発してしまったという事件がロンドンの街をさわがせた。災難は忘れたころにやってくるという。一九三一年同書房の取締役の一人が失踪したとき、二十年前の事件を想い出したものは誰もいなかった! 英国の大出版社を背景にした特異な作品。デリケートで鋭い性格描写が抉り出す人間心理の謎は第一級の探偵小説となっているばかりでなく、立派な文学的価値をもっている。[内容紹介]


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