『イリアス トロイアで戦った英雄たちの物語』アレッサンドロ・バリッコ(白水社)★★★★★

 アカイアの王アガメムノンが、トロイアの神官クリュセスの娘クリュセイスを奪ったせいで、アカイア軍はクリュセスの呪詛を受け窮地に立たされた。アカイア一の英雄アキレウスが、クリュセイスを返還するよう進言すると、アガメムノンは受け入れる代わりにアキレウスの妻を奪った。怒りのあまり故国に帰ってしまったアキレウス抜きで、アカイアとトロイアの最終戦争が始まったのであった。すべてのきっかけは九年前、トロイアの王子パリスが、アカイア人メネラオスの妻ヘレナを奪ったことにあった。

 本書は、ホメロスの大叙事詩イリアス』を、アレッサンドロ・バリッコが朗読劇用に短縮した作品です。「要約は絶対に行わず、元のテキストを利用」した――とはいうものの、イタリア語訳をもとに訳語の選択をして、三人称を一人称に直したうえで、ほんのわずかの加筆を加えたものをさらに日本語に訳してあるわけですから、これはもうまぎれもないバリッコ作品の日本語版といっていいでしょう。

 一人称に直したことで、さまざまな立場の人間たちがそれぞれの視点から一つの戦争に光を当てたかたちとなり、トロイ戦争というものが立体的に浮かび上がってくるしかけになっています。そして神さまがほとんど出てこないのも特徴です。人間による人間の物語。

 卑怯な矢を射たパンダロスの胸のうち、パリスの兄王ヘクトルトロイア防衛にかける熱すぎる思い、怒りに突き進まされるアキレウス――初めはアガメムノンに対する怒り、次には親友パトロクロスを殺された怒り――、直情型の嫌いはあるが誰よりもアカイアを愛している王の中の王アガメムノン、老王プリアモスの息子ヘクトルへの思い、アンドロマケの夫ヘクトルへの思い、命乞いのために平気で日和る密偵ドロン、二十年ものあいだ囚われていたヘレナの複雑な胸中……。

 そもそもの原因となったパリスのことはほとんど描かれていません。味方の陰に逃げ隠れたように、パリスの姿はテクストの中に隠れてしまったかのようです。本書は何よりも、英雄たちの戦いの物語だから――パリスは戦争のきっかけではあったけれど、十年にもわたる戦争の原動力ではないでしょう。

 オデュッセウスの奸計には、戦争に勝つためというよりも、戦争を終わらせるためという気配が濃く漂っています。物語としては、本書はヘクトルという一人の勇者の死で完全に終わっていますし、『オデュッセイア』の木馬は文字どおりエピローグに過ぎません。

 始まりも終焉も、あくまできっかけ。ここにあるのは血湧き肉躍り胸のすく古典的な戦いの物語です。やがて正々堂々では終われない現実を迎えても、それは戦争を終わらせるための方便。

 バリッコはあとがきで、『イリアス』は「戦争を称える記念碑」でありながら、「なお生きることを選択し、戦争に決別を告げる声」の中に「ギリシア人には実現のできなかった、ひとつの新しい文明の姿を(中略)垣間見させてくれる」と述べています。まさにそのとおりの物語でした。
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イリアス
アレッサンドロ・バリッコ〔著〕 / 草皆 伸子訳
白水社 (2006.1.16)
ISBN : 4560027382
価格 : ¥2,100
amazon.co.jp amazon.co.jp で詳細を見る。

イリアス 上
ホメロス〔著〕 / 松平 千秋訳
岩波書店 (1992.9)
ISBN : 4003210212
価格 : ¥840
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