『くじ 異色作家短篇集6』シャーリイ・ジャクスン(早川書房)★★★★★

「酔い痴れて」(The Intoxicated)
 ――彼が酔いを覚ますために台所に行くと、若い娘がコーヒーを淹れるところだった。

 どこかしらサリンジャー作品の一こまを読んでいるような、現代っ子の話(あくまで雰囲気だけですが)。思春期の子どもの、大人に対する怒りと未来への空想力が、かつて子どもだった大人には不安定で危ういものに思えてしかたがない。

「魔性の恋人」(The Demon Lover)
 ――もうすぐ彼と結婚する。十時にはここに迎えに来るはず。今は十時二十九分。彼はまだ来ない。

 恋人の失踪というと、ウールリッチの「アリスが消えた」や「階下で待ってて」[bk1amazon]を連想します。残された者の焦燥感や、誰からも相手にされない歯がゆさはウールリッチ作品にも共通のものです。ですが本編の最後に待っているのはウールリッチ作品のような結末ではありません。

 英語で「demon drink」というと「悪魔の飲み物」つまり「酒」のことを指します。であれば「demon lover(魔性の恋人)」とはすなわち恋は魔物というほどの意味かも知れません。

「おふくろの味」(Like Mother Used to Make)
 ――デーヴィッドの部屋はチャーミングだ。今はパイを焼きマーシャが来るのを待っていた。

 男に対してだけいい顔するから女友達のあいだで評判の悪い女。マーシャはそんなタイプ。デーヴィッドはマーシャにとって、いい顔する対象じゃなかった。利用対象。隠されていた本性が、ジェームズ・ハリスのせいで露わになる。

「決闘裁判」(Trial by Combat)
 ――ハンカチがなくなっているのに気づいたとき、エミリーは誰がそれを盗んだのか悟った。

 こうした出来心と取り繕いの応酬こそが、本書中に頻出するテーマです。アレン夫人を糾弾できないエミリーに、アレン夫人に対するのと同じくらいの怖さを感じてしまいます。

「ヴィレッジの住人」(The Villager)
 ――ミス・クレアランスはハイソな生活に憧れていたし暮らしていた。今日はヴィレッジの部屋にふさわしい中古家具を買いにいくところだ。

 ヴィレッジに暮らしバレリーナや画家のような芸術家に憧れている。主人の留守中に来た客に対し、自分が芸術家の主人であるようなふりをする。それなのに(それだから?)その家の家具をけちょんけちょんに貶して部屋を出るのだ。自分の中にあるコンプレックスを気づかせてしまったジェームズ・ハリス。実際に悪いことをするんでもなく、そそのかすわけでもなく、ただただ本性を引き出すだけのやっかいな悪魔。

「魔女」(The Witch)
 ――その車室の少年は母親に告げた。「窓の外に魔女がいるよ」

 悪意版「これが人生だ」[bk1amazon]といったところ。子どもは残酷なことが好きなものです。子どもが自発的に(というのも変な言い方ですが)「くびちょんぱ」とか言ったのなら、せいぜいが腕白坊主の過ぎた一言に過ぎません。ところが大の大人が子どもに向かって語り聞かせるところを親が目撃していたとなると、途端に恐怖譚になってしまいます。だけどやっぱりこれは悪意版「これが人生だ」だと思います。少年時代の忘れられない思い出。

「背教者」(The Renegade)
 ――ウォルポール家の電話が鳴った。飼い犬のレディーが鶏を殺したから、二度とできないようにしてほしい。田舎はやっかいなことばかりだ。

 好意的に解釈すると、田舎では動物は愛玩のためではなく、家畜・番犬として実用のために飼っているのだから、というように考えれば、この村の人たちがあながち残酷なわけでもない。などというのはやはりこじつけであって、異世界における異人という存在を、極端なまでにデフォルメするとこうなるのでしょう。自分が異分子であるというストレスをつねに感じていた都会人にとっては、毎日毎日を「とがった金属の先端が喉に食いこんでくる」ように感じていたわけで。

 だけど第二部には子どもの話ばかり収録されていることを考えると、これも主眼は子どもの残酷さなのかもしれない。

「どうぞお先に、アルフォンズ殿」(After You, My Dear Alphonse)
 ――「どうぞお先に、アルフォンズ殿」「いやいやそちらこそどうぞお先に、アルフォンズ殿」「お母さん、ボイドもお昼に連れてきていいでしょ」

 スタニスワフ・レム『天の声』[bk1amazon]に書かれた一文を思い出しました。「ほめることができるのは(中略)上から下へであって、下から上へむかってではない」。「ほめること」を「与えること」に変えれば、浮かび上がってくるのは本編にほかなりません。

「チャールズ」(Charles)
 ――わたしの息子ローリーは幼稚園にあがって以来、手に負えなくなってしまった。どうやらチャールズという悪ガキの影響のようだ。

 悪童。まさに怪物。孤独な少年がこういうことを、というのならよくある物語だけれど、本編の少年の周りでは特に変わったことはない。そこが怖い。だけど孤独な少年もののパターンを知っているだけに、この少年に孤独の影を感じてもしまふ。

「麻服の午後」(Afternoon in Linen)
 ――ハワードがピアノを弾いている。わたしにだってあのくらい弾ける、と少女は思った。でも頼まれたって断ってやる。わたしの方がお姉さんなんだから。

 子供心を描いてシャーリイ・ジャクスンほどの手練れはいない。悪意も興奮も喜びも照れも恐れも、自由自在です。子どもにとっていちばん大事なことが何だったのか、ときに大人は忘れてしまうものです。

「ドロシーと祖母と水兵たち」(Dorothy and My Grandmother and the Sailors)
 ――毎年ある時期になると、艦隊が入港する。ドットとわたしは普段以上に神経質になる。問題は水兵たちだ。母も祖母も水兵たちとふらふらと水兵についていく娘たちをいつも問題にしていた。

 何かあったわけじゃない。背伸びしたかっただけ。「わたし」に見せつけてみたかっただけ。「ヴィレッジの住人」や「伝統あるりっぱな事務所」の心理に通じる密やかな魔。

「対話」(Colloquy)
 ――医師のもとを訪れたアーノルド夫人はこうたずねた。「頭がへんになりかかっているかどうか、どうすれば見きわめられますの?」

 わざと難しい言葉を使う。これも他人よりいいところを見せたいという心に忍び込む小さな悪意。ドキリとするけどユーモラス。

「伝統あるりっぱな事務所」(A Fine Old Firm)
 ――コンコード夫人と娘のヘレンのもとに、フリードマン夫人が訪れた。軍隊に入っている息子のチャールズがいつも手紙に書いている友人ボブの母親だった。

 『くじ』中の一篇だと思わなければ何気なく読み流してしまいそうな話ですが、息子の思い出や自慢が見栄の張り合いに発展する様子がスリリングです。こういうのってものすごくリアルで面白い。

 目次ページのタイトルには「伝統あるりっぱな会社」とある。どっちが正しい?

「人形と腹話術師」(The Dummy)
 ――ウィルキンズ夫人とストロー夫人が訪れたレストランでは、フロアショーが開催されていた。出演しているのはひどい芸の腹話術師だ。

 スタージョンの「考え方」[bk1amazon]を思い出しちゃいました。この短編集に登場する二人の会話は、たとえ友人同士のものでも油断がならない。取り繕う、ということがあります。腹話術師が人形に託したように、人はつねに、何かに託して取り繕って会話をしている。

「曖昧の七つの型」(The Seven Types of Ambiguity)
 ――地下にあるその書店には、店主ハリス氏のほかは常連の少年しかいない。聞こえるのは本を棚から抜き出す音だけ。だがその静寂が破れた。

 本棚を見ればその人となりがわかる、とは誰の言葉だったか忘れたが、「いい本」の持ち主が「いい人」なのかどうか。客人が嫌味な教養主義者のようには書かれていないだけに、本を愛するものにはこの結末はつらい。「いい本」が読みたい「いい人」だったと思いたい。きっと魔が差しただけ……。

アイルランドにきて踊れ」(Come Dance with Me in Ireland)
 ――アーチャー夫人は扉を開けたが、訪問者は年老いた物売りだった。

 これも「ほめることができるのは(中略)上から下へであって、下から上へむかってではない」パターンとでもいうべき作品。「上から下へ」与えた人間が、「下から上へ」感謝を返されると思うのは大きな間違いです。「上から下へ」施しを与えた返礼には、そっくりそのまま「上から下へ」過不足なく与えられるのです。

「もちろん」(Of Course)
 ――タイラー家の隣にハリス一家が引っ越してきた。ハリス夫人「主人は引っ越しのときはいつも実家に帰っちゃうんですの」。タイラー夫人「もちろんそうでしょうね」

 「伝統あるりっぱな事務所」ほかに通じる、さぐり合いの会話で成り立っている一篇。ただし本編で描かれるのは見栄ではなく、ことなかれ主義のようなもの。「もちろん」というのは人間関係をスムーズに進めるための社交辞令や挨拶のようなものであって、誰もが使っていると思います。ずっと昔に流行った「DA・YO・NE」も似たような働きをする言葉のような気がします。

「塩の柱」(Pillar of Salt)
 ――マーガレットとブラッド夫妻はニューハンプシャーからニューヨーク行きの汽車に乗り込んだ。ひさしぶりのニューヨーク。何もかもがゆるやかに荒廃していた。

 群衆の中のロビンソン。乱歩のいう「ロビンソン願望」があるわけではないのに、知らず漂流してしまう都会の中の孤独な個人。街はゆるやかに荒廃する。潮の流れよりも速く。ソドムとゴモラに降り立ったとき、後ろを振り返るまでもなく人は塩の柱になっているのでしょう。

「大きな靴の男たち」(Men with Their Big Shoes)
 ――ハート夫人はメイドのアンダースン夫人に対して、いわれのない恐怖感を感じていた。

 いわゆる「銀の仮面」[bk1amazon]パターンの「善意の悪意」の変形といおうか、むしろ「悪意の悪意」というべきか。いや、でもこんなおばさんどこにでもいます。

「歯」(The Tooth)
 ――「行ってきます」。虫歯のせいであごが腫れあがっているので口をきくのがむずかしい。どのくらい眠ったろうか。バスが停まったので目がさめた。ジムという紺のスーツを着た男が話しかけてきた。

 ジェームズ・ハリスに誘われて、あわれ地獄行きの船に乗り込んでしまいます。ジェームズ・ハリスが狂言回しではなく積極的にアプローチするのは、本書中でもめずらしい。鏡に「映ったたくさんの顔のうち、どれが自分の顔だかわからないのに気づいて、彼女ははっと胸を突かれた」というシーンが印象的です。

「ジミーからの手紙」(Got a Letter from Jimmy)
 ――ときどき疑わしくなるのだけれど、男って、完全に正気なんだろうか。「きょう、ジミーから手紙がきたよ」「なんて言ってきたの?」「知らん。あけてみなかったからね」

 生返事。それをいうならやることなすことすべてが気のない生人生。天然? 悪意? それが正気ではないってことなのでしょう。

「くじ」(The Lottery)
 ――九月二十七日の朝はからりと晴れていた。「みんな、用意はいいか? これからわしが名前を呼びあげる。呼ばれたものは前に出てきてくじをひく。いいな?」

 悪意のかたまりのような話が最後に待っていました。みんながやってるから。それが決まりだから。それだけが行動する理由。穏やかに言えば、まわりに合わせる、ということ。世間ではそういう人を“いい人”と呼びます。だからこそ怖い話。

 あまりにも有名だったため、本書を読む前から表題作「くじ」の粗筋だけは知っていました。粗筋だけ読んで、いかにもなホラーかと思っておりました。実際に読んでみなければわからないものです。それも本書を通して読まなければわからなかったかもしれません。心に潜む悪意という表現はおとなしすぎます。潜ませているどころか、誰もがつねに表にあらわしている。だから怖い。しかも巧い。すごい。
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くじ
シャーリイ・ジャクスン著 / 深町 真理子訳
早川書房 (2006.1)
ISBN : 4152086971
価格 : ¥2,100
amazon.co.jp amazon.co.jp で詳細を見る。

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