『デス博士の島その他の物語』ジーン・ウルフ(国書刊行会) ★★★★★

「まえがき」(Foreword,1983)★★★★★
 ――島に関する作品がほかにないわけではない。だがこの三篇はひとつのセット、題名を使ったことば遊びを構成している。最初の物語「デス博士の島その他の物語」がそもそものきっかけだった……。そして「死の博士の島」が最後の物語である。そう、これまでは。

「島の博士の死」(Death of the Island Doctor)
 ――以前、その大学にインスラ博士という退職教授がいた。こと島々の話題になると少々意固地な人物だった。ある秋の日に学長室にやってきて、ゼミを開きたい、と言いだした。困った学長は島に関するそのゼミを“非履修単位”として登録した。当然のことだが履修する学生はいなかった。だが七年目のその日……。

 デス博士三部作を収録した限定本『ウルフ諸島』のまえがきとして掲載された作品。ネビュラ賞晩餐会での逸話と、それがきっかけとなって、いかにして三部作が生まれたかについてのエピソード。

 そして「まえがき」を読んでくれた読者へのプレゼントが、短篇「島の博士の死」です。

 「アーサー王が実在の人物だった以上(中略)どこか架空の場所に葬られたというよりも、サマーセットに葬られたというほうが蓋然性が高いんじゃないか?」という教授のことばが妙に説得力があって印象に残ります。と思ったら、読み返してみるときちんとまえがき(のまえがき)に伏線があるんですね。というよりも、まえがきに書かれている実際のエピソードをもとにこの短篇を書いたという方が当たっているのでしょうか。そうだとするとウルフの創作術の一端がかいま見られたわけですから、貴重な作品といえそうです。いちど気になってしまうと、娘さんの詩も何かの伏線なんじゃないかと気になって仕方がありません。「写真は色あせてない」とかがそうなんじゃないかと思ってみたり。

 歴史とは何か。そして人が死ぬとは、人が生きているとはどういうことか。歴史とは主観によるもの。どちらがありそうなことか、どちらの方が蓋然性が高いか。強引に結論づけてしまえば、歴史とは人の記憶が作るものといっていいでしょう。もちろん、その人が生きていたという“歴史”も。

 人は死ぬ前に(そして死んだあとに)何を残せるのか、を描いた哀切な物語。

「デス博士の島その他の物語」(The Island of Doctor Death and Other Stories,1970)★★★★★
 ――それから、きみは家に帰る。ジェイスンが現れた。「町に行こう。ママは休みたいんだとさ」「わあい!」きみはドラッグストアの回転書棚から一冊抜き取って、彼のところに持っていく。「これ買っていい?」すばらしい本だ。怪物が男と戦っている絵。ランサム船長と怪物たちとデス博士の物語。きみは階下で海を眺める。遠くからいかだが近づいてくる。「ランサム船長です」

 『20世紀SF4 1970年代 接続された女』[bk1amazon]で読んだときにまず、「SFやファンタジーは、ときに逃避文学だと非難される。だが、人が逃避に走らざるを得ない状況、幻想が唯一の救いとなる状況があるのではないか。ちょうど、マッチ売りの少女がはかない幻影に慰めを求めたように。本篇は、逃避としてのファンタジーが生まれる瞬間をファンタジーの手法でとらえた傑作である。」という中村融氏の言葉にガツンとやられました。

 もしこの作品が短篇集の一番最後に収録されていて、「きみだって同じなんだよ」という言葉とともに本のページをぱたんと閉じてしまうのだとしたら、ものすごく残酷な気持になっていただろうと思います。閉じるのではなく、開く。そのためにはこの短篇が単独の作品ではなく、連作の、それも第一作であることが必要です。ウルフがこの作品を書いたときには連作にするつもりなどなかったというのに。ウルフのように書くことに意識的な作家の作品でさえ、名作というものはどこか作者の手を離れてしまうものなのでしょう。

「アイランド博士の死」(The Death of Dr. Island,1973)★★★★☆
 ――砂の中から、頭に傷跡のある少年が現れた。昇降口が音を立てて閉じた。「お聞き。お聞き。君のことを何と呼ぼう」波が聞いた。「名前はニコラスだ」「ニックだね。友だちは私のことをアイランド博士と呼んでいる」椰子が言った……それから少年は凶暴な男と、19歳くらいの若い女に出会った。それが“治療”のためにこの島に閉じ込められている三人だった。

 ウルフ自身のまえがきによれば、「デス博士の島その他の物語」の「いろいろなものを裏返しに」した作品。デス博士はこう言います。「ランサムとわたしはいってみればレスラーに似ている。いろんな扮装をして、何回も何回もショウを演じる――しかし、それはいつもスポットライトの下でおこなわれるんだ」。自らショウを演じるのがデス博士だとするならば、アイランド博士とは、釈迦の掌のうちで他人を演じさせる存在です。当然のように、物語は冷たい。

 ものすごく筋道の立った作品なのですが、そのことがかえって、人間ってのはホントならそんなふうにパズルみたいにきっちり嵌らないものなんだぞ、という気にさせてくれます。この作品を、間然するところのない完璧なSF、だと評価して終わることも可能でしょう。実際そのとおりでもあります。けれどこの作品のすごいところは、筋道立った完成度の高いSFであること自体が、物語の残酷さを際立たせている点だと思います。たとえるならば、息を呑むほどに素晴らしい生け花を見て感動するとともに、翻って野生の美しさに思いをはせるような。批判や称賛の物語ならば誰にでも書けます。けれど批判や称賛という意味づけを取り払ってもなお、完成度の高い一個の作品として立ち続けている物語は――わたしの知るかぎり、ここにしかありません。

「死の島の博士」(The Doctor of Death Island,1978)★★★★★
 ――州矯正施設委員会は、末期癌であるアラン・アルヴァードが、冷凍睡眠処置を受ける最初の受刑者である、と発表した。

 目を開けない。カウンセラーの声がする。アルヴァードが睡眠してから、四十年が経っていた。身体が回復するまでのあいだ、人と話をしたり本を読んだりして過ごすことになる。かつて彼自身が発明したスピーキング・ブックだ。本を開くと声が言った。「その『人の子』とはだれのことですか」聖書をばたんと閉じると、かつての恋人が差し入れてくれたディケンズを開いた。

 訳者の一人柳下毅一郎氏は解説で、「ウルフほど読書の喜びと苦しみを知っている作家もそうはいないだろう」と書いていますが、本篇はまさにその言葉どおりの作品です。これほど“本を読みたいっ”という希求力にあふれた作品はないでしょう。ディケンズが読みたくて読みたくてたまらなくなりました。本に対する愛情に満ちあふれた作品というと、すぐに思い浮かぶのは北村薫氏の〈私〉シリーズです。けれど〈私〉シリーズを読んでここまで読書飢餓感に襲われることはありません。“そうかそんな読み方があるのか”と気づかせてくれて、“じゃあ今度そういう視点でもう一度読み返してみようかな”と感じるのが北村作品だとしましょう。すでにある作品の味わいを深めてくれるのが北村作品です。ところが本篇は、ディケンズという作品を――味わうのではなく、――言ってみれば――生きている。「デス博士の島その他の物語」でタッキーが読んでいた『デス博士の島』――そうした架空の書物のかわりに、本篇にはディケンズが登場するといえばいいでしょうか。タッキーにとってデス博士が、生きることそのものに深く関わり成長を導く案内人だったように、本篇のディケンズは、過去と現在をつなぎアイデンティティを保つよすが。神話を読みたい、世界の果てを見てみたい、ものごとの一番奥にある秘密を明らかにしたい、そんな原始的な欲求に訴えかけてくるから、飢餓感をあおられるのでしょう。

アメリカの七夜」(Seven American Night,1978)★★★★☆
 ――マダム、ご子息ナダンの日記帳が発見されましたので送付いたします。

 やっと到着! まずは観光に出かけた。廃墟。乞食。旧アメリカを破壊した遺伝子損傷の痕がいたるところに残っている。夜には劇場に行った。博物館の職員から興味深い話を聞き、幻覚剤のアンプルをもらった。中身はただのアルコールだろう。舞台に出ていたエレンという女優が気になって仕方がない。

 ジーン・ウルフの作品というのはミステリ的に読み解いてゆくのが楽しいのですが、それに夢中のあまり、考えた挙句にそれがなんなのだ?ということになりかねません。わたしの場合、本篇でも、削除された一夜とは?とか、アメリカに来た本当の目的とは?というところにだけ頭を使ってしまって内容をおろそかにしてしまうわけです。ジーン・ウルフファンサイト「Ultan Net」解説によれば、「欧米の読者の場合には、おそらく(「新しい太陽の書」と同様に)あちこちのパラグラフから「死と復活」の主題を読み取りたくなり」とあります。それが唯一の主題ではないにしろ、ついついミステリ的な部分に頭を使うあまり主題をおろそかにしてしまいがちなわたしにとっては、ありがたい指摘です。というかキリスト教的な解釈というのは、欧米の読者にとっては解釈以前の問題なんでしょうね。そういう基礎知識があってそのうえで初めて、“信頼できない書き手”とか“わからないことはあるのだ”というところに踏み込んでいくのが理想的なんじゃないかと思うわけです。で、キリスト教の素養がないわたしとしては、「アイランド博士の死」とか本篇「アメリカの七夜」のような、キリスト教的風味を漬け込んでいる作品はちょっと苦手です。苦手というか及び腰というか。本書中ではむしろ、キリスト教臭のあからさまな「眼閃の奇蹟」の方がすっきりします。

「眼閃の奇蹟」(The Eyeflash Miracles,1976)★★★★★
 ――網膜による認証管理が行われる近未来。リトル・ティブが水を啜っていると、声をかけられた。「そこの子供! わたしは教育長だ」 コンピュータに職を奪われおかしくなった元教育長パーカーさんと召使いのニッティだった。盲目のリトル・ティブは二人とともに旅をし、いろいろなことを聞き、“目にした”。

 目の見えない少年が、耳にしたこと、空想したこと、が区別なく描かれているので、空想だとばかり思っていたシーンがあとで現実だったとわかったりと、油断ができない。こうなってしまうと、実は全部が空想なのかもしれないし全部が事実なのかもしれないし、まるきり混沌としてしまう。

 エピグラフ「そんな男は覚えていない」はアナトール・フランスユダヤの総督」より。偶然だけれどずっと以前に翻訳してました。(html で読む)。ユダヤの総督ピラトが、イエスという男が処刑されたと聞いて一言。「そんな男は覚えていない」。だからこれはキリストの物語。素直に考えればリトル・ティブが奇蹟を起こしているわけなんだけれど、このエピグラフがあるせいで、かえってこんがらかる。

 というのも、物語の最後で、「白人の人が黒人に助けてもらったときは、ときどき、そのことを忘れたくなっちゃう」と書かれているからです。ユダヤ人のことを忘れたローマ人総督。黒人のことを忘れた白人。この対比が適切なものだとすれば、イエスに対置するのはニッティということになります。考えすぎでしょうかね。

 幻想系が好きなわたしとしては、本書の中では「デス博士」の次に好きな作品。

 蛇足。本書のタイトルですが、英語版みたいに『デス博士の島その他の物語その他の物語』にしてほしかったな、と思います。長くなりすぎるし、日本には『○○ その他(の短篇/の物語)』というタイトルをつける習慣が欧米ほど一般的ではないし、しょうがないかな、とは思いますが。
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デス博士の島その他の物語
ジーン・ウルフ著 / 浅倉 久志訳 / 伊藤 典夫訳 / 柳下 毅一郎訳
国書刊行会 (2006.2)
ISBN : 4336047367
価格 : ¥2,520
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