『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』サイモン・ウィンチェスター/鈴木主税訳(ハヤカワ文庫)★★★☆☆

 一八七二年のロンドンの一角――三発の銃声が響いた。その場で身柄を拘束された男は、誰かに命を狙われていたのだと妄想を口走った。男はウィリアム・マイナー、アメリカ人。「脳の障害」のためイギリスに保養に来ていたのだった。精神異常を証明されたマイナーは、こうしてブロードムア刑事犯罪病院に終身監禁されることになった。

 OEDの編纂方針は他の辞典の多くとは異なっている。印刷物などの記録から「用例」を徹底的に集め、その言葉がどのような意味で使用されているかを示しているのだ。これには気の遠くなるような時間がかかる。OED以前には、すべての言葉を収録しようという発想自体がなかった。この難題にマレー博士が取り組み始めた。

 オックスフォード英語大辞典(OED)はいかにして完成したのか。完成まで七十年、すべての英単語を収録するという前例のない目標、文献から用例を地道に拾い出すといういつ終わるともない作業、どれを取ってもそのスケールにまず圧倒される。辞典作りの試行錯誤や苦労が垣間見られて興味深い。興味のない人にとっては、作業方法の試行錯誤なんて面白くもなんともないかもしれないけど。

 一方で、本書の多くは、辞典作りにかかわった二人の男の生涯を追うことにも費やされている。実を言えば、これが意外なほどつまらない。マイナーは南国で性に目覚めて戦争で頭をやられて……って絵に描いたようなストーリー。事実は小説より奇ならず、です。マレー博士の方はごくあっさりと。多くは過去の辞典についての説明です。

 「無意味な言葉を羅列」した「難解語」が収録されているようなものが当初の英語辞典でした、というのは気持はわからないでもない。引く方としても、例えば英和辞典を引くときには大事な基本語ほど引かずに済ませてしまうし。国語辞典でも同じだなぁ。結果的に、普段使わないような言葉ばかりが収録された無意味な辞典(^^;。だからOEDは画期的だったんでしょうね。

 マイナーとマレーの邂逅という印象的なエピソードで幕を開け、謎めいた殺人でぐっとひきつける展開がうまいなぁと思う反面、一つだけ抜け落ちてしまった単語というのが最後まで引っ張るほどの単語ではないのが残念。フィクションではなく事実なんだから、オチを期待するわたしの方が間違っているのだが。

 OED製作の影の功労者は実は狂人だった!みたいなスキャンダラスな話ではない。『博士と狂人』というタイトルから受け取るであろうような、“二人の”物語でもない。辞書作りに人生を賭した博士と、用例集めに一生を捧げた狂人。これだけ大がかりなプロジェクトになると政治的な利害なんかもからんでくるし、辞書を作るというのは実際は書くというより編集するという作業がメインになるわけだし、博士は学者というよりプロデューサーに近い。一途ではあるんだけど学者馬鹿ではいられない。だからマレーというプロデューサーのお眼鏡にかなったのが、マイナーという男であった、という感じで、けっこうドライな読後感だった。

 名プロデューサーと名エキストラそれぞれの物語、でした。
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博士と狂人
サイモン・ウィンチェスター著 / 鈴木 主税訳
早川書房 (2006.3)
ISBN : 4150503060
価格 : ¥777
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