『八本脚の蝶』二階堂奥歯(ポプラ社)★★★★★

 ちょうどわたしが幻想文学情報を求めて「牛込櫻会館」を覗き始めたころに、この人が亡くなったはずだ。掲示板に訃報や哀悼が残されていたので、事情のわからないものにとってはただただ戸惑うばかりだった。幻想文学ファンのあいだでその死が話題になる人、という記憶だけが残った。記憶には残っていたから、高原英理『ゴシックハート』[bk1amazon]の弔辞がこの人のことを指しているのだろうというのは何となくわかった。『ゴシックハート』の著者が一章を費やして書き記したかった人に興味を持った。それからまた時が過ぎ、この人の日記が書籍としてまとめられた。

 東雅夫氏のブログで刊行が告知されたとき、ウェブ日記を覗いてみたのだが、日記やブログの性質上トップは最新の記事になっている。つまり死の直前の、なかば錯乱したような引用と叫びが連なっている。もし著者に興味があるのなら、過去記事から覗いてみるべきだと思う。そこには才能のきらめきが書き残されている。同じ理由で、本書を読むなら最初のページからめくっていく方がいい。興味のある日記を飛ばし読みするのではなく、一冊の本を読むように。

 内省的な内容の記事のなかには、いわゆるイタイようなものもある。女の子してる記事には(個人的には面白いと思うのだけれど)興味のない人もいるだろう。だけど確固たる世界観とセンスに支えられた多くの記事には、誰にも真似できないひとつの世界があった。

 初めにちょっと気になったのは2001年6月27日の日記。


 中野ブロードウェイで目当ての古本屋が閉まっていたので、何の気なしにナイフ専門店に入る。

 ナイフを愛でる趣味はまったくないので、本当に何の気なし。

 一本の大振りのナイフの前で立ちすくんだ。

 ナイフに向かう時、私と私以外との境界は鮮明になる。

 私の表面を、私を、やすやすと切り裂いて入ってきてしまうであろう刃と対峙しながら、私は事物の輪郭があまりにくっきりとしている世界の肌触りに驚いていた。
 

 このくらいなら同人系ブログでいくらでも読めると感じる人もいるかもしれない。でも少なくともわたしは、これを読んでとても短い短篇小説を読んだような凄みを感じて、この人は違うぞ、と襟を正して読むようになった。
短篇小説といえば、本書には短篇小説からインスピレーションを受けてまるきり別の物語を生み出してしまうこともある。

 2001年8月6日の記事は、『乱歩の幻影』や『凶鳥の黒影』のような恩田陸へのオマージュ企画があったなら、ぜったいにはずせない一篇になることでしょう。


 残業していたら12時くらいになったのでそろそろ帰ろうと支度した。

 でも、スイッチの調子が悪いらしくエアコンが止まらない。

 途方にくれる。

 エアコンがつけっぱなしでもまあいいだろうと帰ることにした。

 でも、会社の鍵を自宅に忘れてきたことに気がつく。途方にくれる。

 帰れない。

 ふと、恩田陸『象と耳鳴り』に出てきた都市伝説を思い出す。

 ある女性が一人高層階のオフィスに残って残業していたら、窓の外に真っ赤な犬がいた。

 犬が、「もういいかい」と聞くので、彼女は「もういいよ」と答えた。

 そしてしばらくして会社を無断欠勤し続ける彼女を心配した上司と同僚が一人暮らしの彼女の部屋を訪ねると、彼女はからからに干からびた状態で死んでいた。 身体には血が一滴も残っていなかった。

 窓の外を見ないように座りなおした。

 ガタンと大きな音がして冷房が強くなった。

 帰れない。どうしよう。
 

 2002年2月8日の「辞書を引いていたら「チュウして」という言葉が目に止まった。/私のようなことをいう辞書だ!/南山堂『医学大辞典』1365ページの柱。/「ちゆうして 1365」/中耳伝音器(ちゅうじでんおんき)の項までだから。」や、2002年2月20日の「「私がまだ○○という言葉を知らなかったころ」と話し始めて、魔法がかったその語りに慄然とする。」なんかも、ものすごく短い短篇小説です。

 2002年3月17日の「シージャック」の奇想にもわくわくした。2002年3月25日のキスの話も素敵な物語だ。2002年6月17日も一篇の幻想小説ですね。

 ごく普通のファッション話のようであっても、たとえば2001年6月29日の記事を読むと、『ゴシックハート』を連想しました。


 化粧というものは、一般に外出する際には常にするものなだけに、 義務になってしまうとこれほど面倒で気の重いものはありません。

 私としては、やはり化粧は変身の儀式であってほしいのです。テンションを高めるための、望む自分になるための。

 アナスイのコスメは変身の為の魔法の道具にふさわしい姿をしています。

あの、黒(と紫)を基調とし、ゴスでキッチュでラブリーで邪悪な薔薇の香りのするコスメたち。

 薔薇の浮き彫りのついた黒い手鏡を持つと、「鏡よ鏡、教えておくれ、この世で一番美しい者はだあれ?」と言いたくなるではありませんか。(しかし言ったことはない)。

 そうです、アナスイのコスメは、おそらくすっぴんである白雪姫より、世界で一番美しくあるためには継子殺しも辞さないお后にこそふさわしいのです!
 

 『ゴシックハート』的な(?)美意識ゆえに、2001年11月17日のような日記も存在する。これはフェミニズムではなくゴシックハートだとわたしは思う。2002年8月30日の貞操帯もそうだろう。2002年10月8日の「少女」。2003年2月11日のタンポンと貞操帯。2002年5月19日の「全裸オーケストラ」はまぁ仕方ないよなー。観客も企画者もエロティックではなくスケベなのだ。美意識というか、2002年7月8日に書かれた信念にはうならされた。こんなふうにしっかり生や死と向き合っている人がどれほどいるのだろう。わたしはこんなに真剣には生きられない。著者にほれぼれと嫉妬する。

 著者本人の言葉ではなく、紹介されている知人の言葉のなかにも忘れられない文章がある。ですぺらオーナーの言葉「金魚は一言で言えばデカダンスなのだそうです」。高原英理の言葉「論理によらない説得力を韻文と言う」。

 2002年2月9日の記事にはなんともいえない味わいがある。ぬっぺっぽう好きにはこたえられん。

墓場を散歩するのがとても好き。
特に桜は、墓場を一人徘徊して見る夜桜が一番いいと思う。
ぬっぺっぽうは、のたーっとした肉の塊のような姿をして、墓場をのそのそ歩き回っている妖怪だ。
いつか墓場でうしろからぺたんぺたんとぬっぺっぽうがついてきたらいいな……。
などと夢を見る休日出勤中。
ぬっぺっぽうのソフビがあるからさみしくないもん!

 2002年3月11日の新明解も楽しい。「今日の新明解。/ぐゆう【具有】 資格・性質などを持っていること。/ 「史上最高の両性━━セクサロイド」/具有の例文にセクサロイドまで出してくるとはさすが新明解!/職場では新明解の奇妙な解説・例文を報告しあうのが慣例となっています。/新明解愛好者は多いですが、この項目に注目している方がいました。しかも、「史上最高の両性具有セクサロイド」の正体を明らかにしています。すごい。」

 2002年8月29日の記事に、本書のタイトルのもとになった「八本脚の蝶」のことが書かれている。著者も書いているように「すてきだ」。美しい誤解というものはこの世にまま存在する。

 2003年3月19日、具合が悪いのを通り越してすでにこの世の存在ではなくなってしまったみたいだ。魂の抜けた操り人形。この日はまだ語り口が明るいけれど、この前後から急激に日記の内容からとりとめがなくなってしまう。何があったのだろう。

 その他、気になった日記。2001年8月24日の澁澤龍彦「犬狼都市」。2001年10月2日の北村薫『夜の蝉』。2001年10月20日の加藤郁乎「遺書にして艶文、王位継承その他無し」。2002年1月3日の「子どもの哲学」、著者の哲学的論考はちょっと観念的になりすぎるきらいがあるのだけれど、これなんかはわりとまともにうなずける。2002年1月4日『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。2002年1月6日〜11日、貞操帯、日夏耿之介・福田恆在『サロメ』、鴨居洋子。2002年1月30日古川日出男『アラビアの夜の種族』。2002年5月9日の龍の夢の話も『夢十夜』みたいでいい。2002年7月11日タロットカード。2002年7月12日ウロボロスの蛇。2002年7月13日「白鳥の王子」。2002年7月22日クトゥルー神話、わたしはクトゥルーが楽しめる人が本気で妬ましい。クトゥルーちゃんはほしい。2002年8月17日〜20日、カタツムリのキス、掌編、『ハリポタ』。2002年10月7日の体育館の空想。2002年10月19日〜27日、尾崎翠、髪を切る、少年探偵団、灰でピアスを作りたい、『蜜のあはれ』。2002年11月15日ソーイングセット。2002年11月26日安西冬衛。2002年11月30日『神々の黄昏』引用で「尋《と》めゆく」という言葉を知る。2003年1月2日6日、超短篇、サー・ローレンス・アルマ=タデマ。2003年3月1日クトゥルー同様『稲生物怪録』を楽しめる人もわたしは嫉妬する。これらの魅力を語る人の声は、わたしにとっては異世界との通訳者の声だ。2003年3月2日アレン・カーズワイル『驚異の発明家の形見函』。

 東雅夫高原英理西崎憲穂村弘中野翠津原泰水佐藤弓生高遠弘美石神茉莉、雪雪、吉住哲ら、著者にゆかりの十三人が寄稿しています。尾崎翠矢川澄子の流れを汲む少女文学作品の一冊として記憶に残るべき日記文学でした。
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八本脚の蝶
二階堂 奥歯著
ポプラ社 (2006.1)
ISBN : 4591090906
価格 : ¥1,890
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