『文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕』川端康成/東雅夫編(ちくま文庫)★★★★★

 「片腕」と『掌の小説』は新潮文庫で手軽に読めるので知っていました。どちらも好きな作品なのですが、それだけにどういう系統の作品か見当がついてしまう(と思っていた)のでそれほど過度な期待はしてませんでした。いや、失礼いたしました! すごい。怪談として見れば似たタイプの作品が多すぎるとか指摘することもそれはできるのですが、それは不当な指摘でしょう。言葉に淫し美に耽り永遠の女を追い求めた作品群。講談社文芸文庫で出ている作品が面白そうです。

「片腕」★★★★★
 ――「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。

 初めて読んだときには、片腕を取り外して貸し出すという不気味で色っぽい行為に目を惹かれたのだけれど、今回読み返してみると、全編をとおしてもやが覆っていて、それが紫色に光るという雰囲気・世界観自体がすでに幻想的だったことに気づいて、そのトワイライト・ゾーン的なオーラにやられました。金井田英津子氏の「片腕」装画も最高です。
 

「ちよ」★★★★★
 ――山本「千代」――松氏が、中学の寄宿舎に私を訪ねてきたのは、虞美人草の咲く頃でした。「千代」――松氏は祖父の借金の証文を書き替えてくれというのです。親戚に話すと、未丁年者に証文を書かせた間の抜け加減を笑いました。それからというもの、氏は私の前では罪人のようにおずおずしていました。

 文字の視覚的効果を狙った(と思われる)実験的文章に若書きの匂いが感じられないでもないけれど、その実験は大成功といっていいと思う。読んでいるあいだじゅう、頭の中に「ちよ」が響きます。あまりにも繊細で病的な青年期のこころがしんみりと伝わってきます。

 川端には珍しい(?)私小説的な作品。
 

「処女作の祟り」★★★☆☆
 ――一高の「校友会雑誌」に「ちよ」という小説を出した。これが僕の処女作である。これに出てくる三番目のちよのモデルが白木屋の女給だった。僕は彼女に渡せなかった恋文を破って「ちよ」を書いた。彼女が古村ちよ子だから、「ちよ」を書いたにすぎない。ところが、この処女作が祟ったんだ。

 実体験を反映させた「ちよ」の裏話を、さらに実話として語ることで、どこからがフィクションでどこからが事実なのかを混沌とさせることに成功しています。「ちよ」が実話的・私小説的と取られることへの反発のようにも思える。「祟りが本当にあったんだ」と言えば言うほど嘘っぽくなるからです。
 

「怪談集1――女」★★★★★
 ――禅坊主が武士に言った。「途中で火事を見られたな」「亭主が焼け死んだと女が泣き崩れておった」「ははははは、あの泣き声は嘘じゃ」

 まるで漱石夢十夜」のような不思議な物語。禅坊主というところがミソで、文字どおり禅問答のようなやりとりが繰り広げられる。「女」というタイトルからすると、ころころ変わりやすい女の気まぐれを禅問答になぞらえているのかもしれません。
 

「怪談集2――恐ろしい愛」★★★★★
 ――彼は妻を極度に愛し過ぎた。だから妻が死んだのは自分の愛の天罰だと考えていた。しかしどうすることもできないことに、娘は妻に似ていた。

 妻を愛しすぎた天罰で娘に殺されるというように美しく自己を正当化しているけれども、娘の秘密を覗いただけではなく、太宰の「魚服記」にも似て娘を犯してしまったのかもしれない。ナルシシストの見た理想の妄想。
 

「怪談集3――歴史」★★★☆☆
 ――山の村に金持が来た。別荘を建てて、湯を取りこむついでに共同湯をつくってやった。老人が死ぬと息子がやってきた。

 なにか寓意のようでいてよくわからない。開発という名の搾取が始まっているのに、取り残されている村人たち自身はそれに気づかず進歩や慈善だと喜んでいる。そして歴史を動かす者を非難する。
 

「心中」★★★★☆
 ――彼女を嫌って逃げた夫から手紙が来た。(子供に毬をつかせるな。その音が聞こえてくるのだ。)

 同じ心中といっても、水であれば共に死ねるけれど、片方が相手を殺してから自殺するというパターンもある。夫が殺したのか。夫が殺されたのか。茶碗の割れる音を聞いて心臓が破裂し、一切の音を聞かず心臓が停止した。逃げた夫と泣きながら無理心中したように思える。

 エリック・マコーマック「ルサウォートの瞑想」でも同じようなアイデアが使われていました(音を恐れるというところだけであとは全然ちがいますが)。
 

「龍宮の乙姫」★★★★☆
 ――「わが墓石を女より高き石にて作れ。女に墓石を抱かしめて海に葬れ」父がこんな遺言を残して死んだ。

 こうやって並べられると、前話の「心中」も心中する女のお伽話だとわかる。墓石に乗って海上をすべるという神話的な幻視がすばらしい。
 

「霊柩車」★★★★☆
 ――君に義妹の葬式の時の出来事を報告しよう。君の方から会いに来るべきなのに、死際に義妹は君に会いに行った。

 『掌の小説』を最初に読んだのは、〈ちくま文学の森〉に収録の「化粧」でした。あれも超常的ではない恐怖が描かれておりましたが、本篇もその系統といっていいでしょう。描かれる偶然のことよりも、(月並みな言い方ですが)人の心の怖さを描いてめっぽう怖い。
 

「屋上の金魚」★★★★☆
 ――金魚が一つ、奇怪なものを妊娠した腹を水槽に浮かべて死んでいた。「おとうさん、許して下さる? 私夜も寝ないで番をしているんですけれど……」

 父が大事にしていた金魚を母が殺してくれた。その母も死んだ。同時に訪れる父殺しと母殺し。鏡に映る水槽とその水槽に映る月(もまた鏡に映っている)――屋上は鏡の国。閉じられた世界。鏡を割るのは不吉なこと。であれば、囚われた世界から抜け出すには、水槽の中身をなくしてしまえばよい。
 

「顕微鏡怪談」★★★☆☆
 ――その千早という男は、自分の血を顕微鏡の種板になすりつけて、覗いているのだ。

 どちらかといえば幻想的で叙情的な怪談が多い中で、本篇はそのグロテスクさが際立っています。専門バカを描いたバカミスになりきれないところが川端のよさ(何を言っとるんだろう……(―_―;))。
 

「卵」★★★☆☆
 ――「秋子こわい夢を見たのよ。秋子は死んでるのよ。死んだ人なのよ。妙なお婆さんがね、秋子の後をつけて来るのよ」

 夢と現実の奇妙な暗合もさることながら、秋子の見た夢の内容自体がシュールで魅力的。夢を聞かされた両親のあくまで日常的なのんびりした会話が郷愁を誘う。
 

「不死」★★★★☆
 ――老人と若い娘が歩いていた。二人は立ちどまりもしないで、ふうっと金網を通り抜けた。そよ風のように……。

 「心中」や本篇のように、消え入るような死を描かせたら天下一品。成仏できない死者は死んではいない不死なのか。死者の心中という不思議な雰囲気が横溢している。
 

「白馬」★★★☆☆
 ――木立の木ずえから白い馬が飛び出した。「やっぱり乗っている。やっぱり黒衣だな」野口が小学生のころ、妙子と馬の絵をかいたことがあった。

 これも叙情的幻想的でファンタジックな作品のようでありながら、「長い黒布のようなもの」という記述が微妙に怖い。いやかなり怖い。
 

「白い満月」★★★★★
 ――私がお夏を雇い入れたのは五月だった。七月に、上の妹の八重子がやってきた。下の妹の静江のことで問題ができたのだ。「女としては生きていられないような侮辱を受けたんですの」

 冒頭から引き込まれる。「河鹿の声は、こうお月さんの光に浮いているように聞えますでしょう。それが時々地の底へ沈込むように聞えるんです」という表現は川端にしか書けません。

 『雪国』にしろ「伊豆の踊子」にしろあるいは「眠れる美女」にしろ、川端は恋愛小説の名手なのかもしれない。嫉妬と純情をこんなにも美しく描ける作家はほかにいません。夢と偶然が必然のように散りばめられる。

 河鹿の鳴き声がここのサイトhttp://www.tabijozu.ne.jp/~misasa/kaeru.htmlで聴けます。
 

「花ある写真」★★★★★
 ――卵巣を取ってしまったいとこが、僕には一人あります。けれども、僅か十七のみさ子とは、すっかり話がちがいます。

 ポルターガイストは、卵巣を取る(取った)ことへのできるかぎりの抵抗なのでしょうか。失ってしまったものを、何かが必死で補おうとしている。

 本篇にける美しさの象徴が、下から見上げた白い顎というのが、「片腕」や「眠れる美女」を描いた作家らしくてなんとも川端らしい。卵巣を取って黒ずんでしまうまでのわずかのあいだという、処女性をさらに凝縮したような物語。
 

「抒情歌」★★★☆☆
 ――死人にものいいかけるとは、なんという悲しい人間の習わしでありましょう。私が神童と謳われましたのは、一字も読めませんのにかるたを取った五つのころでした。なのになぜあなたの魂はあなたの死を私に知らせてくれなかったのでありましょう。

 乱歩「人でなしの恋」や谷崎『卍』などなど、女の人の問わず語り一人称はどうも苦手です。亡き元恋人に未練と思慕を語る思い出話なのかと思いきや、途中からスウェーデンボルグなんかが出てくるから途端に怪しくなってくる。怪しいといえば、はじめのうちは位牌に手を合わせながら話しかけているのかと思って読んでいたのだけれど、むしろどうやら霊と交信していると称した方がいいらしいともわかってくる。少なくともこの人の心の中では。「早咲きの蕾を持つ紅梅に、あなたが生れかわっていらっしゃるというおとぎばなし」のような輪廻転生を「叙情詩」なんて表現されてしまうと、とんでも系な話もしんみり聞こえるから不思議。
 

「慰霊歌」★★★☆☆
 ――花子が来ましたわ。え? と私は部屋をひとわたり見廻して、また鈴子に戻しました。鈴子の声ではありませんでした。私はここに来ているのですわ。生前の名前を名乗るってことが、死んだ人間にはちょっとむずかしいと言ったら、不思議にお思いでしょうね。

 『日本怪奇小説傑作集1』[bk1amazon]にも収録されていました。そっちで読んだときには、「片腕」みたいな幻想系の話は好きだけど、この「慰霊歌」みたいな心霊系の話は苦手だな、とだけ思ったものでした。心霊系には違いないのだけれど、本書収録作の例に漏れず、まず何よりも風変わりな恋愛小説として素晴らしい。

 「ふと鈴子のみすぼらしい髪を思い出したのでありました。ああ、そうか、それで女の髪の毛がみんな美しく見えるのか。これは私に喜びでありました。(中略)よほど鈴子を愛しているにちがいないと、私は気がついたのでありました」なんて傲岸不遜なことはおいそれとは言えないし書けません。

 出していない男の手紙を自動筆記する女。本物の幽霊が出てきたあとですらアブナイと感じてもいいはずなのですが、おしゃれな会話に着地しているのは超絶技巧というほかありません。一線を越えたからこそこんなことを打ち明け、また受け入れて冗談にしてしまえるのでしょうが、幽霊の裸を通して一線を越えてより親密になるなんて奇想中の奇想です。メタファーにしても類がない。
 

「無言」★★★★☆
 ――大宮明房はもう一語も言わないそうである。六十六歳の小説家だが、もはや一字も書かないそうである。小説のたぐいを書かないという以上に、字というものをまったく書かないのである。

 最後の一文にぞくっとしてしまうのは深読みしすぎだろうか。「幽霊としゃべるのは、たたりますよ」という一言に、じゃあしゃべらないということは……と想像してしまった。

 脳病院に入院した息子が書いたつもりの小説を、書かれているかのごとく白紙を母親が朗読するという作中作に象徴されるように、会話・対話というものは聞き手の勝手な解釈によって成り立ってるんですよね。人は無言にすら意味を感じ取ってしまう。「幽霊としゃべると〜」というのも一緒でしょう。勝手に何かとしゃべったつもりになって祟られたように感じてしまう。

 こういう小説に対して何か感想や書評めいたことを書くのは、釈迦の掌で踊っているようなものかもしれない。コミュニケーションの不可能性と中島敦名人伝」をミックスしたような作品。
 

「弓浦市」★★★★☆
 ――「お久しぶりでございます。お変りになってらっしゃいませんわ」九州の弓浦市で三十年ほど前に、お会いしたという婦人が訪ねてきたが、香住には覚えがない。

 実際にどこかにありそうなちょっとふしぎな話に託された、記憶と実存についての物語。死んだあとも忘れないでいることを「その人の心に生きている」という言い方をすることがあるけれど、ではでたらめや勘違いを忘れずに覚えていたのなら、心に生きている人とはいったい……? それは本人ではない。といいつつ本人はすでに死んでいるのだから――。
 

「地獄」★★★☆☆
 ――私は七年前に死んでいるが、生き残っている友人の西寺とときどき短い話をする。「辻子さんはどうしている。死の世界で会うことはないのか」「会わないね。死人は死人に会うことがないのだよ」

 のっけから驚かされる。死人による一人称という設定が、これが西寺の脳内空想であるという可能性を拒否してます。となると、どうしたって語り手が死人である必然性を考えてしまう。1.二人が再会したのは偶然ではなく必然(死人の方で会いたくなったから出た)。2.身近な人の死をわりと突き放して語れる(死んでいるのでそれほど執着がない)。3.たとえば3Fだか4FというFemaleのFemaleによるFemaleのためのミステリがあるように、死人による死人のための小説(死んだ辻子を理解できるのは死者だけ)。なんかわかりません。
 

「故郷」★★★☆☆
 ――彼は空から故郷の村を訪れた。ヘリコプタアのようなものに乗って来たらしい。小さい女の子が松のあいだから現れた。「ふくちゃん」と彼は呼んだ。「虎夫さん」と少女も彼を呼んだ。

 時間と空間と彼岸・此岸が混沌と入り混じる。臨死体験ってこういうものなのかもしれないなあ。過去を美化したノスタルジーっちゃノスタルジーなんだけれど、思い出すことや現れる事物の不思議感覚のバランスがよい。
 

「岩に菊」★★★★☆
 ――その岩は前面に大きい窪みがあって、そこに土を入れ、菊が植えられていた。供養のためであった。私が鎌倉の石造美術を見て歩くとき、先ず思い浮かぶのは利休や三斎の墓であった。

 “岩に菊”とはつまり墓の謂いなわけですが、岩という有形のものを墓とする限界は、心霊という無形のものにこだわった川端らしくもないと思う。――だなんていうふうに小説を思想として捉えてしまうのは間違っていて、これはやはりただ美しい“岩に菊”のイメージを堪能しましょう。
 

「離合」★★★★☆
 ――娘と結婚したいからと言って、遠隔の地に隠棲している娘の父を訪ねて来るのは、もしかすると今時奇特な青年かもしれない。はじめて会ったのに親愛と好意とを感じた。

 怪談として読むならば怪異自体は当たり前すぎてつまらない。でもこうでなければならなかったのだ。娘の結婚をきっかけに別れた夫婦がもう一度だけ気持を通じ合わせるなんてのは、きっと理想家の見る夢。現実では起こりえないから。
 

「薔薇の幽霊」★★★★☆
 ――貨物自動車がとまったのは、薔薇の家に新しく住む人ができた証拠なのです。「今度学校へ転任していらした先生よ」

 むかしの文豪はほんとうにいろいろなものを書いていて、これは少女小説です。これも怪談と呼ぶのはためらわれるほどの怪異なのですが、むしろ薔薇の花や少女たちのぺちゃくちゃしたおしゃべり、フランスで亡くなって薔薇に生まれ変わった少女の幽霊などに、いかにもな少女小説らしさが感じられて好ましい。
 

「蚕女」(「神女伝」より)/川端康成★★★★☆
 ――高辛帝の時代であった。ある娘の父が捕虜になり帰ってこなかった。父を連れて帰ってくれば娘をやろう。その言葉を聞いた馬が父を連れて帰った。

 中国古典の現代語訳です。中国の古典と怪談いうと南伸坊さんの漫画&エッセイが思い浮かびますが、まさにそんな感じの何とも言えない不思議さ漂う作品です。
 

Oasis of Death」ロオド・ダンセニイ/川端康成★★★★★
 ――彼等はリヒトホフェンを英軍の野堡線に埋葬した。埋葬すると彼等は屯に帰り、独砲が轟き、アミアンを護る大砲がそれに応じた。

 飛行機が響をあげ、砲声が轟く、激烈を極める戦争が起きているはずなのに、静寂が聞こえる。
 

古賀春江★★★☆☆
 ――私は古賀と少しおくれて文学的出発をしたので、古賀の新思潮巡歴に同情しやすい環境にいた。

 古賀春江といえば美術の教科書に「海底の情景」が載っていました。頭部が猫の裸の女のやつです。これが気持ち悪かった。手塚治虫『バンパイヤ』のようでもあり、狐憑きのようでもあり、猫神狗神のようでもあり。嫌らしい獣が生肉か何かを食べているように見えてしまうんです。ほかの絵を見ても、クレーやマグリットデ・キリコとは違い、どこか生々しさが残って感じられてぞっとする。生臭さが100%抜けた川端の小説とはまるっきり違うもの。
 

「時代の祝福」★★★☆☆
 ――篝火は一つ、長良橋の上から見えた。――八時が近づいて参りました。もう川原に篝火が燃えだしました。私は鵜飼を見に行かねばなりません。

 講演で奇怪な文学論を一席ぶつという入れ子構造を持つ物語。なんだか『スミヤキストQ』なりなんなりの風刺小説みたいだ。
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