『文豪怪談傑作選 森鴎外集 鼠坂』森鴎外/東雅夫編(ちくま文庫)★★★☆☆

「常談」ファルケ(Gustav Falke)★★★★★
 ――ゆうべの事だ。窓を開けて見てゐると、羽の生えた子が一人雪道をよろけて行く。

 詩。翻訳だから原作があるとはいえ、鴎外のイメージからは思いも寄らぬファンタジー掌篇。
 

「正体」フォルメラー(Karl Gustav Vollmöller)★★☆☆☆
 ――「是非君に見せたいのですよ」と男は繰り返した。「最初に僕を魅したのは風景でした。それから山や水の線を発見したように、女の線や体が僕を占領しました。そして第三者が来たのです。それは極美です。絶対の曲線です」

 神秘思想系の美意識あふれるキワモノ幻想小説。まあそうはいっても、描かれるのは数学的美とかいうのではなくて山の稜線とか女の曲線の延長線上の美ではあるんだが。
 

「佐橋甚五郎」★★★★★
 ――豊太閤が朝鮮を攻めてから往来は絶えていたのに、慶長三年の暮れに三人の僧が様子を見に来た。家康はすぐに左右を顧みて云った。「あの三人目の男を見知ったものは無いか。好うも朝鮮人になりすましおった。あれは佐橋甚五郎じゃぞ」

 江戸時代のこういう“実は生きていた”もの(?)って大好きなんです(^^;。復讐奇譚とかじゃないのがいいんですよね。ただの不思議な話。
 

「二髑髏」ミョリスヒョッフェル(El Ramusan Tir,Hugo Andresen-Moellishoeffer)★★★☆☆
 ――バギタ嬢がラスル・エルビと結婚する筈だった日から、明日で三十年になる。云いようもない程愛していたのを取られたのだ。かの日にはエル・ラムサン・チイムが恐ろしさに、一家は顫え上がっていた。

 編者の東氏の趣味なのか訳者の鴎外の趣味なのか、本書収録の飜訳ものには、どうもグロテスクなものの割合が多いように思う。「正体」「二髑髏」「刺絡」「己の葬」など。妄執や妄愛よりも、祈りめいた儀式が印象的。
 

「魔睡」★★★☆☆
 ――「君と僕との間だから云って置きたいのだ。磯貝へは細君丈は遣り給うな。魔睡術を施そうとするのだ。もしや体をどうか致されるかもしれないぞ」

 催眠術についての知識があるばかりに、疑心暗鬼に囚われる大学教授。生真面目・融通が利かないという印象の森鴎外が書くから面白い。鴎外ってすべてのことにこんなフィルターを通して見てたような気がするんですよね。素直ではいられない。エリートで頑固な自分という、“もう一人の自分”を通してしか物事を見られないし書けなかった人。嫉妬すら理詰めで考えてしまう不幸。
 

「負けたる人」ショルツ(Der Besiegte,Wilhelm von Scholz)★★★☆☆
 ――或騎士の話でございます。その騎士は坊さんで、歌うたいだそうでございます。その騎士に愛せられますと、どの女も死んでしまうのだそうでございます。このお話を致しますと何処からともなく出て参るというのでございます。

 戯曲。都市伝説というか一族の因縁というか。呪われる(?)側からではなく、途中からはなんと騎士の側から描かれるというのが戯曲ならではの構成だと思う。能とかにもこんな感じのがありそう。怪談として考えれば個人的にはそのラストがないまま終わった方が好きではあるんだが。
 

金比羅★★★★☆
 ――ご参詣なさらずにお立ちになると祟るかもしれません。そう言われながらも博士は金比羅参りをせずじまいだった。家に帰ると息子の半子が咳をする。百日咳だそうである。

 「佐橋甚五郎」にしたって「魔睡」にしたって、暗合や偶然に対し疑心暗鬼になるような話であって、そういう意味では本篇もまた今までのところでは“鴎外らしいい”怪談と言える。京極夏彦が『見えない世界の覗き方』のなかで、「錯覚」と「怪異」はどう違うかなんてことをおっしゃってましたが、鴎外の怪談というのは限りなく「錯覚」であることに近づきながら、ぎりぎりのところで怪談に留まっているような話なんじゃなかろうか。
 

「刺絡」シュトローブル(Das Aderlaßmännchen,Karl Hans Strobl)★★★☆☆
 ――三人の癖者が梯子の桟を踏んで墓地の塀の上に登って来た。真面目に解剖学を研究しようとするには差し障りばかりがあるのである。「ところで先生、手伝ってあげた報酬に、尼寺の刺絡をわたしにさせてください」

 刺絡とは瀉血すること。血で怪談と言ったらアレしかないわけだが、本篇はグロテスクというか耽美というか、「正体」にしてもそうだったけど、鴎外はどうも神秘主義的な西洋怪談が好きらしい。冒頭こそごくごくオーソドックスに始まるのだけれど、後半からはキリスト教耽美どろどろの古くさくも懐かしい作品に。
 

鼠坂★★★★☆
 ――鼠坂という坂がある。鼠でなくては上がり隆りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。そこに立派な邸宅が出来上がった。酒酣になって主人が話し始めた。小川君が酔った晩に話した、戦争中のあの事件は凄いぜ。

 戦争中の犯罪を武勇伝のように語り明かす主人&客と因果応報。これは「鼠坂」と名づけたセンス勝ち。「鼠坂」に建つ家だからこそ怪異も起こると思わせちゃう力がある。
 

「破落戸の昇天」モルナール(Molnár Ferenc)★★★☆☆
 ――一文なしのままツァウォツキイは「ユリア、ユリア」と女房の名を叫んで小刀を我胸に衝き挿した。ツァウォツキイは役人に引き立てられて十六年間浄火の中にいた。生まれたと云う我が子を見たさに一日だけ娑婆に戻ることを許された。

 原作者は戯曲作家としてそこそこ有名な人らしい。結局は地獄へ行ってしまうのだけれど、そのシーンはあくまでさりげなく書かれているため因果応報という感じはせずに、物悲しい透明感のある幻想小説になっている。他の作品とくらべても古風に訳しているように感じられて、それがいい味を出している。
 

「蛇」★★★☆☆
 ――女ののべつにしゃべっている声が聞こえているので、なんだってこんなそうぞうしい家に泊まり合わせたことかと思って、事情を聞いてみようと決心した。食事の時には嘉言善行を話すしきたりになっていたが、嫁さんはそんな偽善の話は厭だと云う。遠慮して御隠居も詞少なになった。

 蛇の祟りではなく精神疾患なんだという結末に唖然とする。というか、祟りだとは誰も思ってなくて、主人はただ祟りだという評判が立つのを恐れ、また精神疾患なのだという事実にも目をつぶろうとして、さらにはそんな臆病で優柔不断な自分を責めながらも自分で自分をごまかそうとし続けているわけで、そんな頭でっかちで自分大好きな田舎者の話。怪しげな衣をまとえば何だって怪しげな世界になるというのをあからさまに暴いたような容赦のない話だった。
 

「忘れて来たシルクハット」ダンセイニ(The Lost Silk Hat,Lord Dunsany)★★★★☆
 ――もし、もし、ちょっとこの内に這入ってシャッポを取って来てくれると助かるのだが。わたしは二度とこの家の閾をまたぐことが出来ないのです。

 なぜ鴎外がダンセイニの作品のなかでもこの作品を選んだのかすごく不思議。本書に収められた怪奇趣味あふれるほかの作品群と比べると異質だものなあ。探偵小説で言えば乱歩のように、いいものは何でも貪欲に読みあさった人だったんだろうな。
 

「影」「影と形」★★★☆☆
 ――お前には済まなかった。しかしお前を跡に残して置いて、ひとりで死ぬることは出来なかったのだから為方がない。ええ。それは善く分っていますわ。

 どういう形で発表されたものなんでしょうね、これは。転生を描いた愛すべき小品という感じの作品ですが。
 

「心中」★★★★★
 ――川桝という料理店での出来事である。夜中に小用に立った女中二人が足を止めた。「あの、ひゅうひゅうと云うのはなんでしょう「こわいわねえ」。そのころお金は、お蝶の寝床が空であることに気づいた。

 名物女中というと太宰の「眉山」を思い出す。怪談集の一篇というよりも、お金さんやお花お松、そしてお蝶の日常を切り取った“女中もの”とでもいうべき一篇として楽しんだ。鴎外は、気合い入りまくりの名作と言われるものよりも、短篇集のおまけみたいな感じで収録されている小品の方がよかったりするんだけど、本篇もそんな感じのよさがありました。
 

「己の葬」エーヴェルス(Mein Begräbnis,Hanns Heinz Ewers)★★★☆☆
 ――己は死ぬる三日前に「赤印自転車会社」に手紙を出した。約束の時間にちゃんと乗手共が来た。己は是非「立派な死骸」として葬って貰わなくてはならない。

 「蜘蛛」のエーヴェルスによる、怪談というよりは不条理劇みたいな話。カフカといいゴーゴリといい、東欧圏にはこういう不思議な才能が多いようだ。決まり事を茶化すというか、ガチガチの風刺ではなくあくまでとぼけた衣をまとっている。
 

「不思議な鏡」★★★★☆
 ――一体どうしてその日に限ってぼんやりしていたかと云うに、己の魂は体を抜けて外に出ていたのである。そのうち立派な家の門口をすうっと這入った。島崎君だの島村君だの徳田君だの、評判の正宗君だのが見える。

 「誤訳だと云って、指摘されないように」「一字も残さないように訳するので、長くなる」小説家の幽体離脱を描いた、なんともユーモラスな一篇。鴎外の一人称小説って、どうしても語り手に鴎外自身を重ね合わせちゃいたくなるんだけど、これなんかもそう。でもって鴎外ってお茶目。
 

「分身」ハイネ★★★★☆
 ――しづけきよはのちまたには/ゆくひともなしこのいえぞ/わがこひゞとのすみかなる……

 「月やあらぬ春はむかしの春ならぬ」みたいな詩。「わが身ひとつはもとの身にして」。
 

「百物語」★★★☆☆
 ――蔀君と云う人が、「あなたのお書きになっているものは勝手が違っているので、芝居を御覧になったら好いでしょう」と言ってくれたのであるが、こっちが却ってその勝手を破壊しようと思っているのだとは、全く気附いていなかったらしい。

 日本人はお祭り好きだ。行事が好き、と言いかえてもいい。クリスマスを祝い、初詣に行き、彼岸には墓参り。もちろん百物語だって大好きだ。ルールや決まり事が好き、と言いかえることもできるだろう。伝統と名づけて思考停止することも、お祭りごとと称して浮かれることも同じこと。やや意固地なところがあるとはいえ、日本人には珍しく“考えすぎ”るきらいのある鴎外が見た百物語。
----------------

amazon.co.jp amazon.co.jp で詳細を見る。


防犯カメラ