『マンアライヴ』G・K・チェスタトン/つずみ綾訳(論創社)★★★☆☆

 珍訳で話題になっていた作品。どれどれと思って読んでみたが、思ったほどはひどくはない。むしろ同じく大森望氏が『SFマガジン』で取り上げていたマシスン『不思議の森のアリス』の悪訳の方がひどかった。チェスタトンってそもそも原文自体がひねこびているという先入観があるから、だと思う。むろん名訳ではないし日本語でもないのだが。

 ただまあ、名訳で読めば面白かったのかなぁ?という気持は残る。こちらがチェスタトンのパターンをなんとなく把握してしまっているためなのか、チェスタトン自身に真相を隠す意図があまりないためなのか、訳のためなのか、とっくにネタは割れているのに長々と続けているように感じた。

 いやむしろ「裁判」とはそういうものだ、というべきか。理屈や直感でわかってはいても、証拠がなければ立証できない、と。

 とすると、これはチェスタトンによる従来型探偵小説への批判なのだろうか。探偵が真相を暴いてお終い、ではなくて。

 そもそもが探偵小説ではないにしても、やっぱりだらだらと長い印象はある。『木曜の男』だってまあ繰り返しには違いないんだが、あれは爆笑ものの追いかけっこを楽しむこともできたからなー。

 山田風太郎氏の著作に、シリーズ名探偵ならぬシリーズ犯人という珍品があったけれど、本書もそんなふうに読むと面白いのかもしれない。長篇ではなく、連作長篇。起きる事件起きる事件すべてに共通する同じネタ。シリーズ探偵ならぬシリーズネタ

 出てくる証拠出てくる証拠すべてが同じネタという繰り返しのおかしみ。またお前かよっ! またそのパターンかよっ! 気づけよ検察側!っちゅーやつね。

 う〜んやっぱり探偵小説への批判なのかもしれないなあ。

 『Manalive』G. K. Chesterton,1912年。

 下宿屋ビーコンハウスに現れた謎の男イノセント・スミスを私設法廷にて裁く。嫌疑は殺人未遂、強盗、重婚。下宿人らが検察側と弁護側に分かれ、はげしい応酬のもと裁判が進んでいく。いったいイノセント・スミスとは何者なのか。過去の関係者の手紙類が裁判の中心となり、やがてスミスの不可解な行動に意外な真相があったことが明らかになる。ブラウン神父の産みの親、チェスタトンによる諧謔と逆説を堪能できる初邦訳の長編ミステリ。同じく初訳の評論二編を収録。(カバー袖あらすじより)
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