『文豪怪談傑作選 吉屋信子集 生霊』吉屋信子/東雅夫編(ちくま文庫)★★★★☆

「生霊」★★★★☆
 ――菊治は、落葉松の林の奥にぽつんと見えている空別荘に上り込んでリュックサックを下した。(ここへ今晩泊るかなあ、どうせ空いてるんだ)。しばらく滞在しているうちに、初めて人に打突った。「やあ坊ちゃん、いつお見えでした」

 ジェントル・ゴースト・ストーリーのようなほのかに不思議な味わいを持つジェントル・ストーリー。裏側から見たジェントル・ゴースト・ストーリーといってもいいかもしれない。落葉松林をはじめとした自然描写が、どこかのどかででも寂しげで、しんしんとした静けさが聞こえる。
 

「生死」★★★☆☆
 ――小生は人間の死後の霊魂の存在を固く信じていたものです。小生の妻が妊娠した事がわかって間もなく、小生と分家のKとに同時に赤紙が来ました。それを慰め支える最後の綱は、霊魂の不滅を信じることのみでした。

 まっさらな状態で小説を読むことが少なくなった。怪談を読むときにも、怪談だという前知識を持って怪談を読む場合がほとんどだ。だけど本篇は、吉屋信子という作家をよく知らないこともあって、はたして霊魂が存在するという世界設定なのか存在しないという設定なのかがまったくわからぬまま途中まで読み進められた。こんなことは久しぶり。とても新鮮だった。
 

「誰かが私に似ている」★★★☆☆
 ――私は買出しに向かった。戦中でなかったら、女学生のハイキング姿だった。男の働き手はみな軍服で村を去り、田草取りをしているのは女性と老人の姿だけのようだった。「あっ、お嬢さま!」一人の女のひとが田から駆け上がって来た。

 むりやり怪談にこじつければドッペルゲンガー譚ということになるだろうか。魔が差す瞬間の常習性・依存性の魔力。江戸川乱歩が好みそうな話だと思った。もはや戦争中というのはわたしにとっては異世界みたいなものなのだが、戦後というと現実世界の過去という印象。昭和という昔の匂いがぷんぷんする。
 

「茶碗」★★★☆☆
 ――何千の人々が、銀輪を走らせている競輪選手の、決勝点へなだれ込む一瞬に、眼を吸いつけられているのだった。弥之助もその一人だった。生涯を賭けていると言ってもよかった。財布の中は立田家所蔵の抹茶茶碗の代金だった。

 転げ落ちるように身を持ち崩す典型的な駄目人間譚。ただ、悪いことをするには真人間すぎた。気が弱すぎた。絵に描いたような気弱な若旦那(ではないのだが)像が妙におかしい。
 

「宴会」★★★☆☆
 ――広間の隣の座敷にぽつんと一人圭吉はすわった。入口の襖がすうと、それこそ音もなく開いて一人のお婆さんが入って来た。「そのお召ものは、お父さまのお召しになったものですね、なつかしいこと……。それをお召しになってお遊びに見えたことがございますよ」

 どこか焦点がぼやけているというか、前半のくしゃみのエピソードは圭吉が気弱だという説明で、気弱だという設定は怪異を母親に話せない理由付けなのかなあ。圭吉=気弱というのを擦り込まれたおかげで、結びの一文が怪談のお約束の締めというよりも、圭吉の気弱さをいっそうアピールする結果になっている点が面白い。取り留めのない連想が話の穂を継いでゆく、語り物のような構成が印象的。
 

「井戸の底」★★★☆☆
 ――単独で登山に出かける勇気のあるはずのない私だった。私って娘はとてもさびしがりやなのだ。それが同行者の二人が食物に当てられて、不参加と決まった。女ひとりでも危険な場所ではない。やがて林に入った。足許の地面が陥没したみたいに私は下へ下へ――と落下した。あっ!

 少女小説というよりは小娘小説というか、現代っ娘小説なのだが、こういうのは時代の制約を受けざるを得ないなぁ……。“当時の現代っ子”の一人称は、今読むとなんじゃこりゃ、である。いきなり婚約して舞い上がっちゃうところなんかは乙女チックで微笑ましい。単純に考えて、「井戸の底」というのはこの世とあの世をつなぐトンネルの出口/入口だったんでしょうね。語り手は助かり、男は死んでしまった。ヘンなテンションの語り口とは裏腹に、ちょっと寂しい話でもある。
 

「黄梅院様」★★★★☆
 ――焼跡を見ながら決心した。二度と東京には帰るまい。ところが疎開先で茶道具屋が、東京で立派な邸を安く離す話があると持ち込んだのである。「何でも白髪のお茶筅にしたお婆さんの幽霊が出るんだそうです」

 何という信念。矜恃とか優しさとかを通り越して、もはや怪異ですらある。文字どおり古き時代の亡霊なのだ。狂信であれば愚かで怖いが、尊厳を賭けた信念は感動的。
 

「憑かれる」★★★☆☆
 ――なんでも見さえすれば口へ入れたがる子供の本能からか、その熟した赤い粒を隆次は口へ放り込んだ。それを見た父親が「莫迦!」といきなり頬を打った。「こんなものを食ったら死んじまうんだぞ」……仙ちゃんと遊んでいるとき、幼い日に父親に叱られたことを思い出していた。

 これも「誰かが私に似ている」と同じく魔が差すのが癖になってしまった人間の話。「宴会」のくしゃみとか、「井戸の底」の湯たんぽとか、本篇の子ども時代のエピソードとか、生々しくってグロテスクで細部がいちいち記憶に残る。本篇にしても「誰かが」にしても、印象的ではあるんだけど、それがトラウマになって……とか、幼い日の記憶が……ではないのが新鮮。

 気弱な圭吉や弥之助にしろ、黄梅院様にしろ、常習的に魔が差す「誰かが」の私や本篇の隆次にしろ、あるいは霊魂の不滅を信じる「生死」の語り手にしろ、吉屋信子は変わらない何かを信じていたのかもしれない。“何か”とは作品によって人間性だったり信条だったりするわけだけれど。
 

「かくれんぼ」★★★★★
 ――温泉宿で知り合った明治美人が言い出した。「かくれんぼ……子供の頃によくしたもんですよ……鬼になっていた子がとうとういなくなってしまいましてね、大騒ぎでしたよ」

 鮮やかな切れ味。「隠れんぼ」≒「神隠し」をモチーフにした綺譚。

 吉屋作品の主人公たちは幻視する力を持っている。実際に見てしまったり、自分が見た/経験したと信じ込んでみたり、他人の話を信じる気になろうとしてみたり。怪談やホラーなら当たり前のようにも思えるけれど、吉屋作品の場合、怪異というのはこの世ならざるものではない。「おや、茶柱が立った。縁起がいい」とか「空耳かな」とかいうのと同じレベルで、幽霊や怪異を視ることができる。そういう意味では、怪奇小説というよりは江戸の奇談のような、不思議な味わいの作品群である。
 

「鶴」★★★★☆
 ――私の父は天職だったとでも申しましょうか、指圧療法などの研究をしておりました。ところが母が亡くなって、月を見に山へ登ってくると言ったきり行方がわからなくなってしまいました。あとで聞きますと、鶴を療治していたそうでございます。

 “幻視力”と“変わらぬこと”“信じること”が組み合わさると、本篇及び以下の作品群になる。薄倖の語り手の人生はそのまま、人の力を越えた霊力のようなものを失いゆく近代と重ねられて、わたしたち自身が何かを失い何かを信じているような気持に囚われる。面白いのは、近代といっても吉屋作品の場合には、江戸⇔明治と戦前⇔戦後が重ね合わせられているように感じること。明治29年生まれ。終戦時に49歳。ううん、どうなんだろう。
 

「夏鶯」★★★★☆
 ――空襲サイレンが鳴り響き、私は見知らぬ防空壕に逃げ込んだ。奥から典雅な声が「どうぞお入り遊ばして」と答えるのが聞こえた。老刀自が座っており、一隅に鳥籠があった。「明治の頃に御奉公申した姫様が鶯が大好きで(玉くしげ)という鶯を飼っておいでになりました」

 老媼の昔語り。因果あるいは運命の皮肉の物語。心残りがあると成仏できない。だから語る。夏鶯すなわち老鶯と、老媼が同じ音なのは偶然ではあるまい。最後の美声、白鳥の声。

 鶯とかお茶とか一見すると風流なんだけれど、防空壕に灯された燭台、剥製を飼う鳥籠、真っ白な肌の和服の老媼というのは、かなり怖い。まさに「妖怪変化」「オサカベ姫」である。映像化すれば八墓村になりかねないイメージも、味わい深い作品になってしまうところなど、小説の魅力です。
 

「冬雁」★★★☆☆
 ――つうはそば屋の娘だった。一つちがいの妹のかつより、きわだって器量よしだった。父親が亡くなったため、職人の辰次を婿へと母は考えたが、つうは嫌がった。それを聞いていたかつが、私がお嫁さんになってもかまわない、と言い出した。

 駄目人間というか生まれつき魔が差しっぱなしというか、今でもこういう人間ってどこにでもいる。罪と罰。無知で愚かなことが罪になるならば。繰り返ししっぺ返しを食らいながら学習しない愚か者。巡礼すらも思いつきのひと目ぼれだったのだろうか。何かがぽっかりと欠けているのだ。無邪気で真っ直ぐなのと愚かなのは紙一重
 

海潮音★★★☆☆
 ――炭坑王の相続者たる幼い慶之助が、それを欲しいと無邪気に言葉に出したら、一も二もなく贈られたに相違ない。だが、慶之助には止み難い衝動――ひそかに盗み取って掌中に納めて始めて、その欲しい品ものへの愛着と所有慾が生じたのだ。

 すさまじい怪作。もはや妄念というにふさわしい。リアリズムなんか欠片もないが、わけのわからない迫力がある。ほしいから、奪うから、というところまでは予想できるが、まさかこんな結末になるとは。
 

「私の泉鏡花★★★☆☆
 ――下位春吉氏が鏡花全集を持っておられ、ローマの書斎に並べていられるのが、意外だったと同時に、親近感を持ったのを忘れない。

 吉屋氏曰く、「いつでもその終りの文章をよみ終えて、その余韻の中に恍惚とした」。その通り、と言いたいが、わたしなんぞの場合だと、終わりの文章の余韻どころか鏡花のすべての文章に恍惚としてしまうのである。
 

「梅雨」★★★☆☆
 ――今年(昭和二十五年)は小泉八雲――ラフカディオ・ヘルン百年祭。梅雨のいちにち書架を探した。

 怪談作家吉屋信子のルーツを知ると同時に、フェミニスト吉屋信子を知ることのできるエッセイでもある。
 

「霊魂」★★★☆☆
 ――竹久夢二の遺作展を百貨店の会場に見た日は春雨の烟るような日だった。その会場で、霊魂不滅を唱えている宗教の顧問をしているO博士とお話をした。

 O博士の話にしろ、「最後の審判がなければ、この世界で悪を働いた人間と善を働いた人間の差別がなくなるではありませんか」という内村鑑三の言葉にしろ、それを受けた「だが、普通の人にあっては、疑がうことが先立ち、そこまで確信は持てようもない」という著者の言葉にしろ、どれも本書を読むうえでなかなか刺激的。
 

「鍾乳洞のなか」★★★☆☆
 ――その年に書く新聞小説安宅家の人々〉に必要なので、私は日本一と誇る大きな鍾乳洞――秋芳洞と呼ばれるそこへ、案内されて行った。

 すごい聞き間違いだが、思ってもみないことを突然聞かされると、実際にこういうことってあったりする。本書の最後に本篇を読むと、これって怪談になるよなあと思ってしまうのである。
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