『ららら科學の子』矢作俊彦(文春文庫)★★★★★

 男は殺人未遂に問われ、中国に密航した。文化大革命下放をへて帰還した「彼」は30年ぶりの日本に何を見たのか。携帯電話に戸惑い、不思議な女子高生に付きまとわれ、変貌した街並をひたすら彷徨する。1968年の『今』から未来世紀の東京へ―。30年の時を超え50歳の少年は二本の足で飛翔する。覚醒の時が訪れるのを信じて。(裏表紙あらすじより)

 本書のタイトルは言うまでもなく『鉄腕アトム』のテーマ曲。

 ほんの数年前までは、21世紀は未来の代名詞だった。「科学の子」という言葉には明るい未来が溢れていた。

 21世紀に入ってはや数年。アトムもとうに“生まれて”しまった。

 本書の親本は、アトムが〈過去〉になってしまって間もなく刊行された。刊行時すでに、「1968年の『今』から未来世紀の東京へ」と書かれた〈未来〉は過去だった。だが作中時間ではアトムはかろうじて〈未来〉だったはずだ。すべてが過去になった今、文庫版を読む。しかも作品世界は回想と現在を自在に行き来する。なんという二重、三重構造。ふむ。

 矢作俊彦は、徹底して“なぜ日本はこんな馬鹿な国になったのか”を問い続けている。

 殺人未遂で日本から中国へ脱出した全共闘世代の主人公が、三十年ぶりに日本に帰ってくる。あらすじといえばそれだけだ。

 なんのテクニックもなく日本批判や政治批判を展開していたなら、いかに矢作俊彦といえども、単なるオヤジの愚痴たれながしハードボイルドになっていたかもしれない。

 三十年の空白をもうけて、しかも過去と未来を混沌とさせることで、どんな世代の人間が読んでも郷愁と共感を誘えるようにできている。少なくとも二十代後半のわたしが読んでも置いてけぼりは食わなかった。これには主人公自身というよりも、主人公に映る鏡像としての現代社会に思うところがあったのかもしれない。

 全共闘の影などかけらもない現在。三十年の空白を経て、主人公は意外とあっさり順応する。変わっていないのだ。うわべのポップカルチャーや科学技術や物価は変わっても、日本という国の本質はまったく変わっていない。今という時代がぬるいのなら、たぶん三十年前もぬるかった。全共闘が運動であったのなら、今も運動は続いている。

 昔は、とか、最近は、というのはきっと幻想なのだろう。日本は三十年かけて、世代を重ねて馬鹿な国を作り続けてきた。

 五十歳の人間は取り戻せない三十年を、四十歳の人間は取り戻せない二十年を、三十歳の人間は取り戻せない十年を、我が身を削る思いで悔いなければならない。

 三十年の空白というのは、あらゆる世代のわたしたちにとって格好のエクスキューズだ。主人公は三十年のあいだ、たとえ何かをやりたくてもできなかった。やろうと思えばやれるのに何もやってこなかったわたしたちには、“できなかった”“知らなかった”というのは蠱惑的な言い訳だ。

 やりたくてもできなかったのだ、と自信を持って言い訳してしまおう。これから実行すればよいのだ。失った時間を取り戻すことはできないけれど、未来はまだ作りあげることができるのだから。居場所がないのなら、これから見つければよいのだ。今から自分探しをしたって決して遅くはない。三十年、四十年、五十年先の未来がある。あのころの未来が明るく希望に満ちていたのなら、これからの未来が希望にあふれていたっていい。

 ハードボイルドのお約束“人捜し”と全共闘世代のノスタルジーのふりをしながら、けっこうコテコテの青春小説でもありました。
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