『海に住む少女』シュペルヴィエル/永田千奈訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆

 『L'enfant de la Haute Mer』Jules Supervielle,1931年。

「海に住む少女」(L'enfant de la Haute Mer)★★★★★
 ――船が近づくと、町はまるごと波の下に消えてしまいます。そこにひとりぼっちで暮らす、十二歳くらいの少女。この町には何も、そして誰もやってくるはずなどありません。

 あらかじめ与えられた喪失感。外も内もなく現れては消えだけを繰り返す不在の存在。存在していないものの存在を描くのは不可能なのに、かげろうのようなはかなさと透明感がその“不在”を包み込む。記憶のなかで人は永遠に生きる――ふつう肯定的に使われることの多い言葉を悲劇的に描いた作品。
 

「飼葉桶を囲む牛とロバ」(Le boeuf et l'âne de la crèche)★★★☆☆
 ――ヨセフの引くロバの背には、マリアが乗っていました。牛はひとり、あとをついてゆきました。町につくと、家畜小屋に入ります。目を覚ますと、飼葉桶のなかに眠る裸の子が見えました。

 イエス生誕を牛の視点から描いた作品。一応のところは、イエスを見守ることしかできないロバと牛というキリスト教の伝承がもとになっているようです。だから牛たちが何かしたくても何もできないのは元ネタがある。そもそもの伝承は、「イザヤ書」にある飼葉桶という記述は神と関係があるらしく、飼葉桶→家畜小屋→牛とロバという発想が生まれたのだと思う。でも同じ家畜でも、ロバは人を運べる。だけど牛はそれこそ見守ることしかできない。見守ることしかできないことの存在意義があるのだ。
 

「セーヌ河の名なし娘」(L'inconnu de la Seine)★★★★☆
 ――『あら、河底にずっといるものだと思っていたのに、引き上げられてゆくわ』溺死した十九歳の若い娘は、ぼんやりと思いました。幸い、夜が来て暗くなったので警官は断念しました。娘は流されて進んでゆくのです。

 自殺、らしい。身を投げた自分が海に流されてゆくイメージ。ふむ。美しい。たしかに引き上げられるのなんてまっぴらだ。ところが、引き上げられずには済んだのにあろうことか足かせをはめられてしまった。これはいやだ。美しく流されたい。現世の記憶を失ってしまえば、それを美しいとも醜いとも思わずに、河底で暮らしてゆけるのだろう。でも魂なんてごめんだ。美しい死体になりたかったのだ。
 

「空のふたり」(Les boiteux du ciel)★★★☆☆
 ――かつて地上で暮らしていた者の影が、天上の広大な世界に集まっていました。ある日、散歩していた人たちは、広場に本物の木でできた白い箱を見つけました。誰も箱のふたを開けることはできませんでした。

 つまりboiteauxだからboîteを開けることができたということかいな。blanche boîte(白い箱)すなわちblancs boiteux(汚れなきびっこたち)なのかね。途端にblanche boîteは「空虚な箱」から「白い箱」へと早変わり。木の箱ってことは原文はboîte en bois(ボワ・タン・ボワ)なのかな? 記憶のなかで人は永遠に生き、死んでもなお現世の記憶を持ち続け死者の国に入るのを拒否する。ここはそんな人たちの国。現世の記憶だけでできた国。しかし「浮気者になりがち」ってことは、ハッピーエンドじゃないんだね。きっとおすすめスポットとかで気が多くなるわけね。
 

ラニ(Rani)★★★★☆
 ――彼がそのインドの部族の長に選ばれたのは、断食の試練で勝ち残ったからでした。新しく長になったラニは、まだ体力が回復していないというのに、ヤラのもとへ行こうとしました。翌日、ラニは自分が部族の長ではなくなったことを知りました。

 なんとなく仏教的。肉体が滅して高みに達する。「セーヌ河の名なし娘」や「空のふたり」で描かれた裸の影たちの世界を〈無〉とするならば、シュペルヴィエルの作品は無への憧れと恐怖のあわいで行き来する作品ばかり。「海に住む少女」は〈無〉ゆえに永遠であり、名なし娘や空のふたりは〈無〉を忌避する。そしてラニは〈無〉ゆえに恐れられ、だからこそ崇められる。
 

「バイオリンの声の少女」(La jeune fille à la voix de violon)★★★☆☆
 ――ほかの子と同じような少女でした。ある日、木から落ちた少女は思わず悲鳴をあげ、ふつうにしゃべる声の底にバイオリンの響きが潜んでいることがわかってきました。

 これは本書のなかでもわかりやすい。というかそのまんまです。が、人と違うのを恥ずかしいと思う気持・違和感、がとてもシュペルヴィエルっぽい。悲しんだり、恥じたりすることはあっても、恨むことはしないのです。
 

「競馬の続き」(Les suites d'une course)★★★★☆
 ――グランプリを、リュフは六頭身差で勝利しました。それでも、馬は興奮さめやらず、高架線に沿って走り続け、セーヌ河へとつっこんでゆきました。その晩、リュフは馬になりました。

 本書のなかで初めて〈嫉妬〉という感情が出てきた。前半こそシュペルヴィエルらしい違和感/罪悪感から始まる静かな変身譚なのだが、周りは待ってはくれないのだ。心が弱すぎるから馬になって、「情けないやつ」でも怒るときは怒って、ラストももの悲しさ漂う。
 

「足跡と沼」(La piste et la mare)★★★★☆
 ――行商人が農場に向かっています。サン・ヒブルシオの納屋では羊の毛刈りが続いています。農場主のペーチョは苦笑いを浮かべました。「夕食のあとに商品とやらを見るとしよう」

 シュペルヴィエルのパターンからいうと、見ていたのは死体自身なんじゃないのかな、という気もするけれど。良心のようにも思える犬が、「自分の影を踏みながら」と悪魔の如き退場をする。誰もいない道にあるたくさんの足跡、という光景に漂う寂しさは、著者の独擅場だ。
 

ノアの箱舟(L'Arche de Noé)★★★★☆
 ――ノアは、洪水前から箱舟を造りはじめていました。箱舟に乗る動物たちは、雄と雌、二頭ずつやってきました。はしけでは、船に乗れない者たちが同情を買おうと必死でした。

 洪水前、吸取紙が湿って書きとりのできない少女。弱々しくなってきた炎。砂漠の砂粒まで水を吐く。方舟の前で、必死で演じる軽業師。泳ぎ続ける男。シュペルヴィエルは、静かな悲しみを込めて失われゆくものたちを描くのがほんとうにうまい。ノアは、最後の一言に象徴されるように、仕切り役・狂言回しでしかない。
 

「牛乳のお椀」(Le Bol de lait)★★★★★
 ――顔色は青白いものの意志の強そうな青年が、大きなお椀にあふれんばかりの牛乳を入れて、パリの街を横切ってゆきます。街のはずれに住む母親に届けるためです。

 永遠で始まり、永遠で終わる。記憶のなかの少女は海のなかで永遠に死なず、記憶のなかの母親は永遠に生きる。記憶なんてものがあるから悲しいのだね。「夜の闇のなかで愛するひとの顔をじっと思い浮かべるのも、ほどほどにしておいてくださいな」
 

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