収録作家の名前だけ見ると、もっとSFっぽい作品集なのかな、と思っていたのだが、読んでみれば意外と『異色作家短篇集』ぽかった。どうしたって何某かの先入観を持って読んでしまうため、拍子抜けしたり意外だった作品もあったが楽しめた。
「ジェフを探して」フリッツ・ライバー/深町真理子訳(I'm Looking for Jeff,Fritz Leiber,1952)★★★★☆
―― 「名はボビーってんで」唐突にパプスは話し始めた。「いつも必ずジェフという男のことをたずねる」「誰なんだ、ジェフって?」パプスは肩をすくめた。バーテンのソルが笑った。「パプスの法螺話はもうたっぷりでしょう。その女を、おれは一度も見かけたことがない」
これはお約束。巻頭ということで、顔見せみたいな位置づけなのでしょう。SFを期待すると拍子抜けするけれど、都市伝説っぽいホラーとしては悪くない。
フリッツ・ライバーというと『20世紀SF』に収録された「あの飛行船をつかまえろ」が素晴らしかったので、喜び勇んで『魔の都の二剣士』を買ったら、苦手なヒロイック・ファンタジーだったのでがっかりした覚えがある。他は絶版なので、いったいどんな作家なのかまったく見当がつかん。
「貯金箱の殺人」ジャック・リッチー/田村義進訳(Piggy Bank Killer,Jack Ritchie,1967)★★★★★
――「おじさんはプロの殺し屋ですか」「もちろん」わたしは答えた。訊いたのは十二歳くらいの少年だった。「だったら、ぼくの父方の大おじを殺してほしいんです。報酬は二十七ドル五十セントです」「自転車を買うために貯めていたお金じゃないのかい」
いかにもジャック・リッチーらしい、二転三転するプロットと気楽なユーモア。ありきたりの地味な真相をありきたりの奇想で覆い隠してしまう手際には、すっかり騙されてしまいました。
「鶏占い師」チャールズ・ウィルフォード/若島正訳(The Alectryomancer,Charles Willeford,1959)★★★★☆
――ベキア島に別荘を借りたのに、小説はまったくはかどっていない。鶏占い師のことを書いてみてもおもしろそうだ。わたしはその老人を訪問した。「運勢を見てもらってもいいかと思ったりするんだが」鶏が円に落とされたトウモロコシをついばんだ。
これもまあ古い作品なので、オチのある話、を求めてしまうとある程度予想通りのオチが待っています。そこが異色作家短篇集らしい、と言えば言えるのかもしれないが。占い師のいかがわしさがぷんぷん漂ってきて楽しい。技巧を凝らした作品もいいけれど、本篇やエリスン、シェパードの作品のように、熱気がむんむん伝わってくる作品もいい。
「どんぞこ列車」ハーラン・エリスン/若島正訳(Riding the Dark Train Out,Harlan Ellison,1961)★★★★★
――早朝の貨物車は寒かった。彼は若くて、元ミュージシャン、運もどんぞこだ。「運もなければ、金もない、か」踏切で列車が速度を落とすと、扉が開いた。ガキが女の子の腰をつかんで持ち上げ、貨物車に乗せた。スカートが太腿までめくれあがった。「こいつはいけるぞ、いけるじゃないか」
乗っているのは「どんぞこ列車」と言いつつも、ハーラン・エリスンの描くのは駄目人間じゃないんですよね。いやそりゃあ駄目は駄目なんだけどさ、何つうか、男気ぷんぷんなのです。
「ベビーシッター」ロバート・クーヴァー/柳下毅一郎訳(The Babysitter,Robert Coover,1969)★★★★★
――彼女が来たのは七時四十分。「ハリー! もうベビーシッターが来たわよ!」/ジャックはあてどもなく、町をうろついていた。ガールフレンドはタッカー家で子守り中だから、あとで顔を出してみてもいいかもしれない。/ぽんぽん。お尻ペンペンするわよ、とか言う。やってみやがれ。
連想と妄想と可能性でつながれた断片を無作為に並べたような、絵に描いたようなポストモダン小説。あり得たかもしれない可能性を多視点から同レベルで並列して物語るというふうに捉えれば、意外にも本書のなかではけっこうSF度の高い作品なのである。
「象が列車に体当たり」ウィリアム・コツウィンクル/若島正訳(Elephant Bangs Train,William Kotzwinkle,1971)★★★★★
――ふしぎな道が現われた。広くて、川底みたいに石が敷きつめられている。道の両側にはぴかぴかの骨がある。ゾウは道をどんどん進んで、花や草をほおばった。巨大な影が遠くの森からぬけだしてきた。サルが「逃げろ!」と叫んでいた。
おバカさんだねえ。しかも「ロイター発」って何だ(^_^;。その額縁がまったく活かされてないところに(ナン)センスを感じる。
「スカット・ファーカスと魔性のマライア」ジーン・シェパード/浅倉久志訳(Scutt Farkas and the Murderous Mariah,Jean Sheperd,1967)★★★★☆
――ある種類の子供にとっては、コマは最も純粋な意味での武器、おのれの意志の延長、才能と攻撃性を示す武器だった。だが、ちょっと待てよ。たしかにコマ回しの腕には自信がある。だが、わたしの目にかなうコマがなかった。スカット・ファーカスのコマはマライアというその名をとどろかせていた。
何だかわからんが迫力がある。博物館に展示されたジョージ・ワシントンの子ども時代の玩具からどこに連れて行かれるのかと思ったら、ほとんど無理矢理に回想に突入しました(^^;。どうでもいいこだわりにすべてを賭けるというのは、少年ものの醍醐味です。喧嘩ゴマこそが彼らにとってはこの世のすべてなのですね。
「浜辺にて」R・A・ラファティ/浅倉久志訳(By the Seashore,R. A. Lufferty,1974)★★★★★
――オリヴァー・ミューレックスの一生でいちばん重要な事件は、四歳のとき、ある貝を見つけたことだった。その貝はオリヴァーの頭よりも大きく(オリヴァーは人並みはずれた頭でっかちなのだが)、ふたつの目は、オリヴァーの目よりもキラキラと輝き利発そうだった。
ラファティといえばホラ話。とはいえ、この世の理屈ではホラにしか見えない出来事でも、別世界から見ればちゃんと筋も道理も通っているようです。“間違って地上に生まれてきてしまった別世界の子ども”ものの、暖かい変奏曲。
「他の惑星にも死は存在するのか?」ジョン・スラデック/柳下毅一郎訳(Is There Death on Other Planets?,John Sladek,1966)★★★★★
――「おれがスパイ? そんなの無理だ。そもそもスパイらしく見えやしない」緑の帽子をかぶった男は溜息をついた。「きみならできるとも。偉大なn重スパイは『何よりもまずスパイは他の誰かに見えなければならない』と言っている」
若島氏も意地が悪い(^^)。いくつもあることば遊びを柳下氏はちゃんと訳してくれてます。悪意と笑いの質は筒井康隆?。たとえて言うなら「ケケケケッ」という笑いがよく似合う作品。ホラだけで話が進むようなとんでもない作品。
「狼の一族」トーマス・M・ディッシュ/若島正訳(His Own Kind,Thomas M. Disch,1970)★★★★☆
――狼でも人間でもないわたくしは、おそらくアーレスについて語る唯一の資格を持っているのではないでしょうか。あの子は野生の獣だったのです。罠を仕掛けるのも獲物の跡を追うのも達者でした。でも、罠にかけたウサギの喉笛に乳歯を沈み込ませているのを見たら、きっと父親も困惑したことでしょう。
おや? これは意外と普通の狼男物語。木の精の一人称というのが風変わりと言えば風変わりだが。英国に移植されて知的に云々というひねくれたユーモアも楽しい。いや、というか、これはいったい誰に向かって語ってるんだ? 古典的を通り越して黴の生えた語りを採用した、擬似民話風のスタイルが面白い。一人称でありながら神の視点に近い、人間には知り得ない裏話。
「眠れる美女ポリー・チャームズ」アヴラム・デイヴィッドスン/古屋美登里訳(Polly Charms,The Sleeping Woman,Avram Davidson,1975)★★★★☆
――古いアーケードで開かれている展示物を見に行って、われわれの好奇心は充分に満たされた。すでに名を馳せているポリー・チャームズ、三十年前に深い眠りについてから一度も目を覚まさないイギリス娘に会うことができたからである。
なんとも形容のしようがない「ゴーレム」や「どんがらがん」の印象が強かったのですっかり忘れていたけれど、デイヴィッドスンはかなり怖いホラーや骨太の幻想小説からシリアスな作品まで、さまざまなものを書いていたんだったな。ごてごてと飾りが多くて筋運びを邪魔するうえに、この世の出来事とはいえ架空の王国が舞台であるため、結末にさして驚きや感動はない。思わせぶりなペダントリーや細かいギャグ(?)の方にむしろ惹かれる。
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