『The Meaning of It All』Rchard P. Feynman,1998年。
岩波現代文庫からの久々のファインマン作品は、講演録です。ファインマンさんシリーズはもともとが聞き書きみたいなものですから、講演といってもさほど違和感はありません。ファインマンによると、科学という言葉には三つの意味があるといいます。一、ものごとを突きとめるための、特殊な方法。二、いままで突きとめたことの知識の集成。三、突きとめた結果できるようになる新しいこと(=科学技術)。一はなくとも三の発達がありえることを、ファインマンは旧ソ連を例に出しながら、「悲しいこと」と表現します。別に政治的な意味ではなく。
「研究は応用のためにやるものではありません。ついに真実を突きとめたときの興奮を味わうことこそがその目的なのです」と語り、ファラデーの発見を紹介した味気ない文章に憤りを見せるファインマン。『ファインマンさん最後の授業』で「なぜ、デカルトは虹を研究したと思う?」と問いかけたファインマン。
喜びや発見のない「科学」など、考えられなかったのでしょう。
やはり白眉は第三章でしょうか。第一・第二章で話した内容を踏まえて、より具体的な例え話が盛り沢山に語られます。ちょっと堅苦しい一・二章と比べて、ぐっと身近な話が多くなりました。読心術者の話から始まる一連の例え話は、科学的とはどういうことか、統計とはどういうことかを、懇切丁寧に解き明かしてくれます。頭ではわかっていても、なかなか実行できないというのが人間というもの。科学者さえも、いやときにはファインマン自身でさえも非科学的になりそうな瞬間があるということを交えながら、名調子で語られる内容は、読心術、透視術、UFO、奇蹟、ネズミを使った実験、偶然出くわしたナンバープレート……。
ファインマン自身が体験した「第六感」の話は、占いは当たったときだけ覚えているものだという話を思い出します。占いを信じるひとの頭のなかでは、外れた予言は“なかったこと”になってしまうのですね。
妻が亡くなったときの話も印象的でした。妻の死亡時刻を指したまま止まってしまった時計。人情として、どうしたってロマンチックな意味を付与したくなる。けれどファインマンは、科学的に考えます。事実1、その時計が故障しがちだったこと。事実2、看護婦が死亡時刻を確かめるためにその時計を持ち上げたこと。そう、何のことはない。時計を動かした衝撃で止まってしまっただけなのです。
科学の楽しさを知り、科学的であることの重要性を知っていたからこそ、『科学は不確かだ!』と断言できたのでしょう。不確かであるからこそ、科学的な観察を持たなくてはなりません。
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