女三代の個人史である。だから当然といえば当然だけど、どれだけいろいろなことが起きようとも、語られるのは飽くまで個人レベルの物語。祖母と母から聞いた身の上を孫娘が書き記している、という設定なので、ますます身のまわりの出来事という印象が強まる。個人を通して共同体の歴史をも描く、という試みがあるとすれば、それほど成功していません。
千里眼や空飛ぶ人や裸踊りや漫画家デビューといったエピソードの羅列は読んでいて楽しいのだけれど、それがガルシア=マルケスの諸作のような奥行を持つことはない。狭く、浅い。なぜか、と考えると、やはり身のまわり小説に留まっているからなんだと思う。ところが、それがすわ欠点か、と言われると、そうとも言い切れないところもあって……。
旧家が舞台。それも昭和の物語である。身のまわりの物語にならざるを得ないような‘家の女’という現実があったというメッセージが込められているとすれば、そこは差し引いて考えるべきか。男権社会における家庭の女が主人公になるなら、こういう‘歴史’しか語り得ないというような。(まあこれは好意的に弁護してみただけであって、実際には失敗作だと思うけども)。
毛毬の代になると外に立ち向かうんだけど、あえなく引き籠もり。
で、第三部。孫娘瞳子の時代である。やけに青臭い青春小説。「不肖の娘」という表現があることから、それは著者の意図なんだろうとは思う。しかし……。個人史の物語が最終的に〈わたし〉の問題にたどり着くのは必然と言えば必然なんだけど、それにしたって青臭すぎる。
青臭い青春真っ直中にいる人にとってはこの第三部こそがぐっとくるのかもしれないけれど。「ビューティフル・ワールド」だなんていう、迷い子たちのハートを射とめるような(?)、わたしにとってはピントのずれた‘惹き’も、それを必要としている人は今現在どこかにいるのでしょう。わたしには必要なかった。
個人的には、第一部・第二部の路線で最後まで行ってほしかった。(それだと全然べつの物語になってしまうけれど)。
他人の思い出話を語る、という語りに、何かミステリ的な仕掛けを期待していたのだが、ささやかながらもその期待は叶えられる。謎に取り組むことと成長することがつかず離れず併走するのは、日常の謎派の十八番。こういうところからも、結局、第一部も第二部も、第三部の〈わたし〉の問題の延長に過ぎなかったんだねという印象を持ってしまう。祖母と母がいて〈わたし〉がいる。〈過去〉があって〈今〉がある――〈今〉と〈未来〉を向いているといえば聞こえはいいのだが、もっと一本大きな筋の通った大河な作品を読みたかった。
終戦後、「辺境の人」に置き忘れられた幼子。この子は村の若夫婦に引き取られ、長じて製鉄業で財を成した旧家赤朽葉家に望まれ輿入れし、「赤朽葉家の千里眼奥様」と呼ばれるようになる。これが、わたしの祖母である赤朽葉万葉だ。――千里眼の祖母、漫画家の母、そして何者でもないわたし。高度経済成長、バブル景気を経て平成の世に至る現代史を背景に、鳥取の旧家に生きる3代の女たち、そして彼女たちを取り巻く製鉄一族の姿を比類ない筆致で鮮やかに描き上げた渾身の雄編!
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