『Fiasko』Stanislaw Lem,1987年。
訳文が半端じゃなく読みづらい。註釈やあとがきからわかるとおり、この本の訳者はどうも翻訳者タイプではなく研究者タイプのようだ。直訳というか、律儀訳なのである。まあ慣れれば問題ない。
内容的にはどうなんだろう。レムのペダントリーというと、文字通りの衒学《ペダントリー》ではなく、必要不可欠な情報をてんこ盛りという印象だったのだが。本書にはなんだか無駄な描写が多いように感じた。ト書きのような機械的・説明的文章は多いのだが、思想的・理屈的文章は少ない(あってもあんまり本筋と関係ない)。
お馴染みコンタクトものだけれど、レムにしてはその点は普通。異星人の侵略ものである。しかし侵略するのは人間の側であり、しかも侵略するつもりはないのになぜかそういう展開になってしまうという、ひねくれた作品ではある。
『ソラリス』『砂漠の惑星』『天の声』で扱われていたのは紛う方なきコミュニケーションの不可能性なのだけれど、本書では会話(のようなもの)まではできちゃうんですよね。なんだか不可能性というよりは誤解と愚昧。
まさに大失敗。挫折ではない。お互いが自ら失敗に手を染めるのだ。
まあ『天の声』のような極右的な作品を書いてしまえば、そっち方面を書く必要はもうないのだろうな。というわけで、これまでとはちょっと別方面。コミュニケーションの拒絶と誤解。
だけどどうしても散漫な印象が残ります。大失敗にならざるを得ないような説得力があまり感じられない。脇筋の合間合間に圧倒的な考察が重ねられた『天の声』、エンターテインメントに徹した『砂漠の惑星』。そういうのと比べると、著者のさじ加減ひとつでは大成功に終わったんじゃないの?と感じてしまう。
だからこれは、「不可避の大失敗」を描いた作品ではなくて、「何が失敗に導くのか」を描いた作品なんでせう。それは「勇気」かもしれない。「科学的好奇心」かもしれない。「相互無理解」かもしれないし、「事故」や「敵意」や「不信」かもしれない。
レム=「ディスコミュニケーション」→「不可避の大失敗」という先入観を持って読んだせいで、ピントがずれた感想を持ってしまったのでした。
だけどそれにしても、やはり散漫だなあ。
前半の一見どうでもいいようなエピソード(土星での救出・幻想小説の引用など)だとか、いよいよ惑星に到着してからの後半のSF的展開は楽しく読めた。それと、「接触の窓」という発想が面白い。知的生命体を発見してからコンタクトを取ろうとしても、接触するまで何光年も経ってしまう。文明の揺籃期と円熟期のあいだの、互いがコンタクトに必要な状態を保っていられる短期間が「接触の窓」。だからあらかじめ揺籃期(または揺籃期以前)の惑星を目指して飛び立つと、ちょうどいい時期にコンタクトできるという、気の遠くなるような計画です。
土星の衛星タイタンにおける救出任務の最中に遭難した宇宙飛行士パルヴィスは、自らをガラス固化して22世紀に蘇生する。地球外知的生命体探査に旅立つ宇宙船エウリディケ号に乗り込んだ彼は、最先端の自然科学者やカトリックの神父らとともに、知的生命体が存在する可能性のある惑星クウィンタを目指す。やがて、光を超える旅の彼方に彼らが見たものは、地球とは別種の進化を遂げた文明の姿だった。不可避の大失敗を予感させつつ、文明の〈未来〉を思考したレム最後の神話的長篇。(カバー袖あらすじより)
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