プロローグを読み終え、第一章を読み始める。ものの名前や人の動作を表わす決まり切った言葉を、著者は使わない。もちろん完全に使わないと文章自体が書けないので、恣意的なものではあるけれど。
例えば、ペン先を振ってから文字を書く場面を、著者はこう書く。「三本の指で握りしめて、虚空にアラベスクを描く。そして、ペン先を親指の爪に押し当てる。すると、昆虫の羽根ばたきのような微かな音が聞こえてくる」。
何かにつけてこの調子なので、場面によっては何が描かれているのか理解するのに苦労する。しかしこのように、「紙に書く」という行為を、それを見たことがない者がどうにか説明しているように描くことで、現実世界を架空世界として構築し直すような、幻想的で異様な雰囲気を醸し出している。
そして。これがこの作品にとっては必然なのだ。
著者九歳のころアウシュビッツに消えた父が、生前最後に残した一通の手紙。たった一通の手紙から、著者は世界を構築しようとする。それは現実ではない。さまざまなエピソードを書き起こすことで死者の肖像が浮かび上がってくるような作品ではないのだ。否。そうしたくともできなかった。現実には、名もなく人知れぬ死があっただけ。エピソードで彩りたくとも彩れなかった。
そこで著者が採った手法は、一通の手紙と生前の記録だけをもとに、想像力を駆使して“もうひとつの”世界を構築することだった。こうして架空世界を構築するように構築された現実世界は、異様なまでに偏執的な叙述と相まって、(おそらく)本当の現実すら超えて、読む者を圧倒する。
本書では「旅の絵」と称された叙景風の第一章ほかを初めとして、訊問風、問いかけ&回答風、妄想風……とさまざまな形で、入れ替わり断片が描かれる。そのあまりにも切れ切れの断片ゆえに、読みづらい作品ではある。しかしエピソードのなかには比較的ストーリー的にも楽しめるものもあるし、何よりもばらばらな断片がばらばらなゆえに(キュビズムのように(?)立体的に)幾多の角度から世界を照射する。そして気づく。断片などではなく、そこに世界があることを。
死者の肖像を書き起こしても、それは思い出でしかない。著者は思い出であることを拒んだ。風化する現実世界に生きてやがて色褪せる思い出などではなく、常に目の前に立ち上がってくる架空世界としての(双子の)現実世界を作りあげた。
※一番笑えるエピソードはこちら。「ブラト氏、技師兼手品師、駅の入口で通行許可証の代わりとして、掠奪にあった後に家で見つけることができた唯一の品、小学校三年次の通知表を見せたのだが、心理的効果を巧みに用いて切り抜けることに成功したばかりか、その通知表でアメリカにまで渡ることに成功し、ノヴィサドに住む両親に連絡を寄こした。」
『Pescanik』Danilo Kis,1972年。
円い鏡に、炎がもう一つ映っているのが見える。双子の炎。(眼によれば、絵は、白い花瓶、花瓶か砂時計、もしくは聖杯だが、それは花瓶が陰画すなわち見せかけにすぎないことに気づくまでのことで、実在する陽画は、二つの同じ人物の横顔、まるで鏡に映しだされたような、向き合った二つの顔、面と向かった対称物なのだ。その実在しない鏡の軸は、今や存在しない花瓶―砂時計の器の軸に重なっている。一方だけでなく、両方の顔が存在するのは、この二面鏡のおかげだ。)
E・Sは自らの手紙の日付を改竄したか? 自らの行いを正当化して言うには、彼の腕時計ではその日はもう十六分しか残っておらず、手紙は次の日に、遥か彼方の曙の宛てられたものであり、従って、手紙の結びは勿論のこと、冒頭でさえも翌日に属する、とのこと。彼は以前にも文書の日付を改竄したことがあるか? 一九〇五年に診断書の日付を改竄して、学業休暇を一週間ほど長引かせている。一九一二年には、急行列車の二等無料乗車券の日付を改竄し、……。
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