冷たい言い方をすればウィリアムズの戯曲は「負け犬の遠吠え」。ロマンチックな言い方をすれば、マッチ売りの少女の見た夢。どん底の人間があげる呻きや叫び。
「しらみとり夫人」(The Lasy of Larkspur Lotion,1941)★★★☆☆
――家賃支払を迫られ、南米に所有する農園から送金があるとうそぶく女。上流気取りとは裏腹に部屋に転がる物は……(裏表紙あらすじより)
店子と大家のお決まりのドタバタから始まり、鮮やかな〈嘘〉で終わる。しかし作家の長広舌がいただけない。思想をそのまま台詞でだらだら説明するというのは戯曲としては……。いやしかし、この台詞のせいでこの作家は底辺で懸命に生きる人物というよりはインチキ臭い人物という印象が生まれるわけだから、そういう狙いなのか。所詮〈嘘〉も、精一杯の希望や勇気ではなく、現実から逃れたいあまりの詭弁。自分を騙さないとやってけないのだ。
「風変わりなロマンス」(The Strangest Kind of Romance,1945)★★☆☆☆
――「前に住んでたのは運の悪い男。運の悪いのはその猫のせいだってさんざん言ってやったけど」「その人みたいに、その猫を飼っていいなら、この部屋を借りたいな」「ふうん、その人のようにしたいって言うんだね」「うん」「あたしの亭主は寝たっきりでね……」
これまた理屈っぽい独白が入る。今回の場合はそれが狂人とアル中という設定なのだ。この場合の狂気とは、不器用、と言いかえてもいいのだろう。器用に生きる正常者からははみ出してしまう落ちこぼれ。
「ロング・グッドバイ」(The Long Goodbye,1945)★★★★☆
――「きょう引っ越しか」「ああ。マイラが生まれたのも、おふくろが死んだのも、そのベッドだったな。おふくろは自殺したんだ。保険をくれようとしたんだ」「そいつは知らなかった。マイラはどこにいるんだい?」「デトロイト――らしい」「いい子だったがねェ――急にあんなふうに……」
アナーキストだかヒッピーだかの作家と、落ちぶれた妹。極端な設定にもかかわらず普遍性を持っているのは、ビッグマウスだけど何も実のあることをできない作家と、自由に生きると言い条世間に飲み込まれているだけの妹の姿が、現代の若者像とダブるからではないだろうか。わめく前に、そっと、窓の外の声に耳を傾けてほしい。
「バーサよりよろしく」(Hello From Bertha,1945)★★★☆☆
――入院を勧められた中年娼婦が、行き先を恐れて助けを求める相手は……(裏表紙あらすじより)
誰もが心の中にブラジルのゴム園を持っている。持っていないとやっていけない。けれどたった一つのその拠り所が、すでに家庭を持った昔の男(しかももしかすると恋人とかではなく単なる知り合いor客?)だというのが悲しすぎる現実。嘘なら、夢なら、もっと大きく見たっていいのに。普通の日常すら夢だった、哀れな人間の物語。
「財産没収」(This Property Is Condemned,1941)★★★★☆
――年に似合わぬ濃い化粧の少女。人気者だった亡姉の服も知り合いも継いで幸せだというが……(裏表紙あらすじより)
ふと思った。子どものころの方が、他人に優しかっただろうか? 本篇に登場する二人は、他の収録作の大人たちとは違って、かろうじて心を通わせているように思う。編中、唯一ほっとできる一篇。
「話してくれ、雨のように……」(Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen,1953)★★★☆☆
――「何時だ?」「日曜よ」「日曜は知ってるよ。小切手はどこだい?」「あたしがあんたをさがしに出ているあいだに帰ってきて、自分で持って出ていったじゃないの。わけのわからない書き置きを残して」
どん底同士がもがきながらも、一つになる。人間関係がギスギスしていないだけでも気が休まる。
「東京のホテルのバーにて」(In the Bar of a Tokyo Hotel,1969)
Tnennessee Williams。
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