柴田元幸編『紙の空から』で著者のことを知って慌てて取り寄せました。DHCは翻訳講座もやっているだけに意外とアンテナの感度がいいのですが、それが読者に届きづらいのが玉に瑕。
『If I Told You Once』Judy Budnitz,1999年。
冒頭、出産中の夫婦が山賊に押し入られるものの、血塗れの夫の姿を見て山賊どもは逃げ出してしまう、という印象的なシーンから幕を開けます。もうこれだけで本書の面白さは約束されたも同然。
冬の間じゅう二人きりでくっついていたために、身体がくっついてしまった新婚夫婦のエピソードが語られたあたりで、「四代にわたって語り聞かせる彼女たちの人生」という帯の惹句と相まって、“お。これはマジックリアリズム系の作品かな”という手応えを感じました。
でも実のところはマジックリアリズムというよりももっとほかの何か。「リアリズム」ではないかも。マジックとしか呼びようのない不思議な幻想とユーモア。
森の中で山賊がイラーナに、「ばあちゃんの顔によく似ている」からこの木がお気に入りだと告げるシーンがあります。そこでイラーナが気づいた「世の中を見るのは、一つの方法だけではない」という気持こそが、バドニッツの創作の秘密の一端かもしれません。
さてほかにも、梁の上を走り回るばあちゃんやら愛撫の力が強すぎて動物を引き裂いてしまう弟やらクリームのような肌を持った少女やら、印象的な人々には事欠きません。
けれどそれだけではただの奇人変人大会になってしまう。この作品の魅力を確固たるものにしているのは、そのときそのときのひとりひとりの気持を確かに捉えたユニークな文章です。
例えば母の出産に立ち会ったあとでイラーナが初潮を迎えた場面。母のお産を思い出し、自分にも小さな赤ちゃんが生まれてしまうと思い、必死で股を閉じて赤ん坊の登場を阻止しようとするイラーナ。
例えばイラーナが村を出る場面。目に見えない母の引力を感じそれに抗うイラーナと、姿はないのに読者にすら影響力を与えてしまう力強い母。やがてポケットの中身から知る、母の思い。
例えば三人の老婆の昔話。「水にくっきりと映った月や、川面を打つ雨の滴や、腐った切り株から延びている若木を見つけたときのような気分を、女の子は味わった」。不思議な比喩なのだけれど、人を好きになることを表現するにはこれしかないというような説得力です。
例えば初めて演劇を観る場面。舞台の上で起こっていることが演技だと知らされた後も、「心の片隅で、理解することを拒んだ」。その「光景をいつまでも大切にしておきたかった。わたしには、あれが奇跡のようなものだとわかっていたのだ」と信じるイラーナ。
これも数え上げていけばきりがありません。
イラーナとシュミュエルが窓際で光を浴びるシーンの美しさや、毎週かかさずやってくる清掃業者の不気味さも忘れられません。病院で見た「人魚」の描写に関する、島田荘司なら一篇のミステリに仕立て上げてしまいそうな視点も忘れがたい。物事とはこういうふうに見ることもできるのかと、唖然としました。
面白いのは、語りが親から子へと順番に受け継がれるのではなく、子どもが産まれたら子どもと母の語りが交互に、孫が生まれれば孫と子と母の語りが代わる代わる現れるところです。まったく性格も物の見方も違う三人の目から語られると、まるでそれぞれが別の世界に生きているようです。一人はお伽噺の世界に、一人は現実のアメリカに、一人は妄想の世界に。
終盤、ひ孫の視点が加わることで、物語が大きく動きます。歴史とは、記憶とは、物語とは、こうして生まれるのだと――そして物語の誕生の場面に居合わせているのだと思うと、小さな感動が波のように襲ってきました。
そして当然のように、歴史は未来へと引き継がれます。夢かと思ったものがが少しずつ現実を浸食しながら。この場合の未来とは、ひ孫のノミーだけではありません。娘のサーシィも、孫のメーラもまだ生きているのですから。ここで複数の語りが生きてきます。単純な未来=子どもという図式では終わりません。サーシィとメーラは、過去を引き継ぐと同時に未来へと物語を紡ぐ人間でもあるのです。小説は終わっても、物語はどこまでも続いてゆきます。過去を受け継ぎ、それを主観で再構成し、また語ることを繰り返しながら。
雪の降る村からやってきた、髪に鈴をつけた少女。卵に映る、夢のような世界を探して。子供のころの不思議な世界、新しい未知の世界、母と娘の関係、失われた愛、新たに生まれるなにか。母から娘へ、四代にわたって語り聞かせる彼女たちの人生。(帯表惹句より)
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