『族長の秋 他6篇』ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直他訳(新潮社ガルシア=マルケス全小説)★★★★☆

 『エレンディラ』から6篇+『族長の秋』という構成。『El otoño del partriarca y otros 6 cuentos』Gabriel García Márquez。

「大きな翼のある、ひどく年取った男」鼓直訳(Un señor muy viejo con unas alas enormes,1968)★★★★★
 ――雨が降って三日目、何やら中庭で呻いているものに気づいた。それはひどく年取った男で、もがけばもがくほど大きな翼が邪魔になって、立ち上がることができずにいた。これは間違いなく、暴風雨にやられた外国船の生存者だと思われたが、隣家の女に言わせると「これは、天使だよ」。

 本書中でもいちばん笑いの要素の多い、何とも人を食った作品。天使だからオカシイのではなく、言動がオカシイからオカシイのだという、ある意味しごく真っ当な感性が、かくも不思議な世界を生み出すとは。
 

「奇跡の行商人、善人のブラカマン」木村榮一訳(Blacamán el Bueno Vendedor de Milagros,1968)★★★★☆
 ――毒グモ、毒蛇に咬まれても、たちどころに毒を消すという特効薬だよ。――これは面白いというので、ある男が猛毒の蛇を持ってきた。行商人は嬉しそうに蓋を開けたが、蛇はサッと飛び出し、解毒剤を用いる暇もなくどうっと倒れ込んだ。

 口八丁手八丁の詐欺師(魔術師?)コンビが送るピカレスク。奇跡を手に入れた善人ブラカマンのたった一つの悪行。地獄も天国もありゃしない、死んでから聖人に列せられたって――いえいえ、地獄も天国もなくとも、死んでから……。〈奇跡〉を効果的に使った復讐譚です。
 

「幽霊船の最後の航海」鼓直訳(El Último Viaje del Buque Fantasma,1969)★★★★★
 ――世間の奴ら、おれがどういう人間か、分からせてやるぞ! 巨大な客船を初めて見たのは、あれはもう何年も昔のことだけれど、ある晩、村の前を通りすぎたのだった。そのことを母親に話すと、母親ががっくりきて泣き言をこぼしつづけた。

 幽霊船を霊視(?)した男が引き起こした奇想天外な顛末。この世とあの世では異なるルールも、同じルールで結びつけられるならば、この世で起こるのと同じ当然のことが起こるのです。一発ネタの大ボラも丁寧な筆さばきでたちまち一篇のファンタジーに。
 

「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」鼓直訳(La Increíble y Triste Historia de Cándida Erendira y su Abuela Desalmada,1970)★★★★★
 ――エレンディラは燭台をナイトテーブルに置き、ベッドに倒れこんだ。しばらくして、不運の元となる風が寝室になだれこみ、燭台を押し倒した。焼け跡に無事なものはないと知った祖母は、孫娘を見て溜息をついた。「一生かかってもお前にはこの損を償いきれないよ」エレンディラはその日から償いをすることになった。まず訪れたのは、生娘には金をはずむという評判の男だった。

 これも祖母によるピカレスクと呼べるかもしれない。不始末から家を全焼させた償いに、孫娘に体を売らせ続ける祖母。祖母の頭には損失を補うことしかなくって、そのためにはどんなことをしてでもエレンディラに春をひさぎ続けてもらおうという、半ば本末転倒な義務感が、あり得ないバイタリティを生み出します。ターミネーターみたいな婆ちゃん萌え(^^;。
 

「この世でいちばん美しい水死人」木村榮一訳(El Ahogado más Hermoso del Mundo,1970)★★★☆☆
 ――波に打ち上げられた漂流物から海藻を取り除いてみると、下から水死体が現われた。顔をあらためるまでもなく、その水死体がよそ者だということはわかった。「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかという気がするね」たしかにその女の言うとおりだった。けれども、年若い女のなかには、そんなことはない、ラウタロという名前のほうがぴったりするはずだ、と考えるものもいた。

 天使が溺死人に変わると本篇になります。描かれていること自体は、溺死人を海に帰すという、実際にどこかの風習にでもありそうな儀式に過ぎないのですが、問題は死体に対する〈儀式的〉ではない〈気まま〉な接し方でしょう。果ては村人全員が死体を絆に義家族になってしまうという壮大さ。
 

「愛の彼方の変わることなき死」木村榮一訳(Muerte Constante más allá del Amor,1972)★★★★☆
 ――上院議員オネシモ・サンチェスは六カ月と十一日後に死を控えていたが、その日に生涯を決定づける女性と出会った。彼女に会ったのは幻のような寒村だった。

 決定した未来から逆算して語り起こされる物語、という形式からは『予告された殺人の記録』を連想しますが、似ているのは形式だけ。何しろ本篇は一応はセンチメンタルな恋愛譚。死を控えた男が貞操帯をつけた娘と添い寝するというプロットからは、川端「眠れる美女」〜ガルシア=マルケス自身の『わが悲しき娼婦たちの思い出』を思い浮かべるものの、こちらも同じなのはプロットだけ。あと百年は死にそうにないパワフルなじーさんのセックスライフ『わが悲しき』とは違って、本篇は四十代の壮年で死を宣告された男の孤独と諦念。やがてその二篇に芽吹く前のつぼみのままの状態であるかのように、感情を抑えた静かな静かな悲しみに満ちた作品です。
 

『族長の秋』鼓直訳(El Otoño del Partriarca,1975)★★★★☆
 ――宴席に供されたのは、腹心だった将軍の丸焼き。荷船もろとも爆沈、厄介払いした子供は二千人。借金の形に、まるごと米国にくれてやったカリブ海。聖なる国母として、剥製にされ国内巡回中のお袋。だがお袋よ、ほんとにわしが望んだことなのか? 二度死なねばならなかった孤独な独裁者が(中略)運命という廻り舞台で演じる人生のあや模様。(裏表紙あらすじより)

 何と言っても特徴的なのは文体です。改行もかぎかっこもなく一見だらだらといろんな人の一人称が入り混じってて混沌としています。印象としては、人間に取り憑いた複数の悪魔が好き勝手にしゃべってる感じに近いかな。

 語りの印象だけじゃなくて、「独裁者」という「仕組み」が勝手に斟酌して大統領とは別に物事を進めてしまうという皮肉も、悪魔は人間を支配しているけれど、取り憑かれた人間の方は上位人格たる悪魔のことはわからない――なんてのを連想したりもしました。

 そういう、部下や国民の声も含めて「独裁者」なのかな、と思ってもみたり。人は独裁者になるのではなく、他人によって作りあげられるものなのだ、とか。

 ただ、諷刺としての独裁者像はそんなに目新しいというわけでもなくって、やはりガルシア=マルケスの小説は細部が面白い。

 帯にも紹介されている「宴席に供されたのは、腹心だった将軍の丸焼き」なんてのはむしろおとなしい。六十頭の犬を調教して生きたまま噛み殺させて暗殺するとか、「べつの男のお下がりのロープで自殺をはかった男」とか、本書にはいろいろな死が出てくるのに、その一々が残酷なくせにくっだらなくてほろりとおかしい。

 きっとラテンアメリカの人間にとっては、独裁者というのはわたしが思っている以上にリアルな存在であって、例えばユダヤの作家がホロコーストについて創作せずにはいられないように、ガルシア=マルケスにとっても独裁者の物語というのは書かずばいられない作品だったのでしょう。

 独裁者とは、わがままで、マザコンで、頭がおかしくて、孤独で、疑心暗鬼で、惨めで、残酷で、子どもというよりまるで赤ん坊。うんちとか便器とか下ネタも多い。
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