『ミノタウロス』佐藤亜紀(講談社)★★★★★

 戦争小説。ではあるけれど、戦記文学でも歴史小説でもイデオロギー小説でもありません。百姓でも貴族でもない成り上がり地主の息子という、何者でもない人間が、何物ともわからない混沌とした世界で生き抜く物語です。

 舞台こそ一応のところ戦時中のロシアなのだけれど、これはまあ何者でもない人間が生きる混沌とした世界にふさわしい舞台の一つだということであって、ロシア史はよくわからん。。。と及び腰になる必要は全然ありません。(※佐藤訳『バーチウッド』を読んだあとだと、あれはあれでアイルランドの現実とがっぷりなのですが、日本人がロシアを舞台にすることで、そういう逃れられ得ない縛りから逃れられているような気がします)。

 だからといって異世界ではもちろんないし、少年による戦いとはいっても『デスノート』や『バトルロワイヤル』のような人殺しゲームでもありません。この場合の〈ゲーム〉とは別に蔑称ではなくて、つまり「ルールに則った」という意味ですね。だから何なら〈スポーツ〉と言いかえてもよいでしょう。

 翻って本書には、戦争には、ルールなんてあって無いようなもの。そもそも人殺しにルールがあるなんてことの方がちゃんちゃらおかしい(現実の国際法も、ねぇ)。だったら殺すなよ、と。

 だけど困るのが、「あって無いようなもの」というところなんですよね。「ある」とは言えないけど、「無い」じゃあないんです。

 それは確かに相棒の一人フェディコなんて、しょっちゅう平気で仲間を売ります。もう一人のウルリヒも相当ぶっ壊れた奴で、人殺しを何とも思っちゃいないのはもちろんのこと状況判断すらまともにできないような厄介者です。それでもウルリヒにだって譲れないものはあって、それは清潔さと惚れた女と飛行機。でもね、こんなマイ・ルールなんて、守れないわけですよ。ましてや戦争中に。他人が守る筋合いのものでもないですし。

 主人公のヴァシリ(ヴァーシャ)・ペトローヴィチだって一見クレバーに見えますが、かなりコワレてるし子どもっぽい部分もあります。レイプに関する考え方なんて自分勝手もはなはだしくって、まあ自分の頭で勝手にでっちあげた法則ですよね。。。何を許し、何を否定するか。ポリシーなんてものではなくって感覚的なものに過ぎないし、極端な話〈自分がどう思うか〉だけですから。

 ルールは自分で作らなければならない。じゃないと生きていけないから。ルールのない世界で他人を批判して吠えたって、それこそ負け犬でしかありません。保身を否定してなおかつ生き延びるにはどうすればいいのか。自分の信じることを信じ続けてなおかつ生き延びるにはどうすればいいのか。そんな都合のいい現実なんてそうそうあるわけでもないのに。

 だけどこのちょっとガキくさい語りが好きなのです。なんていうか、これを読んで、わたしが『ライ麦畑』をあまり好きでない理由がわかったような気がした。ホールデンくんは大人の嘘を徹底的に軽蔑してるけれど、そんな自分の立ち位置が見えていない。見ようとすら思っていないふしがあります。それがそのまま思春期の若者って言やあそうなんだけども。でもわたしは、やはりヴァーシャのように自分という存在に対して某かの自意識を持っている語り手の方が好きだな。たとえそれが独りよがりなものであったとしても。

 一箇所だけ、ああ帝政ロシアだなあ、と思うところがあって、それは語り手の母やマリーナのような〈貴婦人〉が登場するところ。少なくともロシア文学から得た知識のなかのロシアには、こういう人たちがちょこちょこいた。至るところで誰かと一発、という当時の〈風俗〉と相まって、前半はコメディみたいでもありました。

 それから、戦記文学ではない、とも書いたけれど、やはり飛行機の場面はわくわくします。佐藤氏も好きなのでしょう、いやあずいぶんと生き生きしていました。

 身一つで、逃げるようにして、親父はミハイロフカにやって来た。その近郊一番の土地持ちである大旦那シチェルパートフは、親父の手堅さが気に入った。息子が跡を継がない以上、農場を切り回す相棒も欲しかった。翌朝、農場を親父の名義で登記させた。十年目に、花嫁はキエフからやって来た。すでに親父は有数の金持ちになっていたから、行かず後家の学者の妹には過ぎた縁談だった。お袋は十箇月後に兄を産み落とし、その後にぼくを産んだ。屋敷にピアノを入れ、誰も読まない外国語の本を並べ、紗を風に膨らませて埃だらけの田舎道を馬車で駆けさせるお袋は、ついぞミハイロフカの住人になろうとはしなかった。

 クリヴォイ・ログへ向う街道の脇で、グラバグがオーストリア軍を襲ったのは、八月のはじめのことだった。今やミハイロフカの鼻摘み者は、追い剥ぎどころか、キエフの政権に楯突く英雄だった。既にちょっとした軍隊に成り上がっている。逃げ出すなら潮時だな。シチェルパートフともあろう者が、農場を捨てて逃げ出す? ぼくには自分の耳が信じられなかった。ぼくは外に飛び出し、馬を解き、橇に乗って鞭を当てた。
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