第15回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。
蘆雪は《象と牛図屏風》という、六曲一双の屏風を描いた。(中略)「へん」の第一は右隻の象にあって、この画家は、象がいかなるものかを十分に把握していない。だから「頭だけ象」であるようなものが、白い布をかぶっているだけのようにも見える。(橋本治『ひらがな日本美術史5』より)。
あるいはジョン・アシュトン『奇怪動物百科』を繙いてみると、どこかに棲息していると伝えられている角のある動物として、犀とユニコーンが同じように載っていたりします。
本書は下層社会を思わせる町工場のシーンから幕を開けます。それだけならどうってことはない、いつぞの時代のどこかの国での労働風景。ところがやがて、舞台はほぼ現代の日本であり、エネルギー危機がきっかけとなって自給率の低い日本はアメリカと中国に占領されてしまっている、ということが明らかになります。そして理由はよくわかりませんが、アメリカと中国はすべての日本人を東京に集めてひとかたまりにして管理したがっているらしい。
人のひしめき合う東京。しかも食うにも事欠いて――となれば海千山千が跋扈するのは当然のこと、麻薬は店頭で購入でき、人々は公安に怯え、人身売買は当たり前、町は拾い屋・娼婦・詐欺師・元締めであふれかえっています。
そんな様々な人々が交代で視点人物を務める、オムニバス形式で話は進んでゆくのですが――まず冒頭がうまいです。「あんた、モクはやるかね」。煙草の話だと思いきや、実は麻薬の話なんですよね。そんな調子でとんとんと引き込まれてしまいました。
占領されて東京に押し込められてから育った日本人は、自動車も象も知らない。話にだけ聞く象は、彼らにとって巨大な力の象徴でした。それは現実の象とはほとんど無関係な、まだ見ぬ希望の象徴。翼のような耳とホースのような鼻を持つという、お伽噺のような存在。でも、実際にいるらしい。だとしたら……。
ニュースなんか見ていると、現代は若者にとって希望を持ちにくい世の中だ、みたいなことをときどき言ってますが、それってどうなんでしょう。だったらどん底に落ちてみればいい。どん底から見ればあらゆることが希望でしょうから。
実際、本書の登場人物たちは、希望なんて持ちようがなさそうな世界で、何らかの希望を持ち続けています。英治は「どこかいい場所」を見つけに、ハルは強くなることを夢見、京子は子を産むことを務めとし、総一郎は〈恋人〉との別れの挨拶を、興行師や後藤は金を、コーちゃんたちは日本人としての誇りを、胸に抱き続けているのですから。
もちろん抱いた希望が実現するかどうかは別問題なのですが。
メタファーとしてわかりやすすぎるとかは、この際どうでもいいでしょう。
戦争を知らない世代が書いたある種の戦後ものとして、同じく戦争を知らないわたしにはけっこう面白く読めました。
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