フィクションという形でだからこそ最大限効果的に現実を描き出すという当たり前のことを、デビュー作で軽々とやってしまいました。
執拗なほど事細かな迫真の戦闘描写、カフカやゴドーになぞらえられる不条理なスパイ活動、くだらないジョーク、超管理社会と化した先進諸国が「当たり前」となった社会、各地で頻発する紛争と世界的な陰謀。諷刺なんていうお利口さんなものではなく、冒険小説として全然ふつうに面白いんだけれど、無責任な戦記ものというわけでもない。
しかもこれの何がSFかっていうと、世界の残虐さとか悲惨さとか怒りとか不条理とか空虚とか不安とか曖昧とか、この作品世界ではそれはもうすでに前提として当然のことなんですよね。「平和」なこことは異なるルールの世界が存在していて、そういうのが大前提の世界では、当然その世界のルールに則った行動原理に従った行動や考え方があるわけで。
それはもちろん現実の戦場とも違う。戦場に赴く際には良心の痛みを感じないよう脳にマスキングされた兵士の一人称なんだから。だから戦闘シーンは平気で血がどばどば飛び散るくせにからっとしてます。要するに悪意も良心もないのだけれど、ノワールなピカレスクでもなし。
現実を舞台にメッセージ性の強い作品になっていれば、青臭い倫理問答で終わっていたかもしれません。だけど「そういうのが当たり前の世界」という立ち位置から発せられることで、説得力と破壊力が格段に違っています。
何で殺すのか?とか何で戦争するのか?っていう問いに対する一つの愚直な回答ではあります。答えが出ないからと言って「書かない」という選択を取るのも、そりゃ一つのスタンスではありますけど。利己と利他、意思と遺伝子、自由と不自由、意識と死、事実と情報、自分や世界や他人はたして何のために戦うのか? 飽くまで、単なる一つの回答だけど、でも世界の秩序をどうにかして説明したい安心したいという、やむにやまれぬ渇望みたいなものがびしびし伝わってきました。
人間の進化と虐殺器官についてのSF的ロジックは面白かったし、言語=器官という発想も光ってたのだけれど、ただ、それでもやっぱり、虐殺の文法という形でそれが実現されちゃうには説得力不足というか、ちょっとトンデモ系っぽさが漂ってしまったけれど。
9・11以降、激化の一途をたどる“テロとの戦い”は、サラエボが手製の核爆弾によって消滅した火を境に転機を迎えた。先進資本主義諸国は個人情報認証による厳格な管理体制を構築、社会からテロを一掃するが、いっぽう後進諸国では内戦や民族虐殺が凄まじい勢いで増加していた。その背後でつねに囁かれる謎の米国人ジョン・ポールの存在。アメリカ情報軍・特殊検索群i分遣隊のクラヴィス・シェパード大尉は、チェコ、インド、アフリカの地に、その影を追うが……。はたしてジョン・ポールの目的とは? そして大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは? ――小松左京賞最終候補の近未来軍事諜報SF(裏表紙あらすじより)
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