『飛騨の怪談 新編綺堂怪奇名作選』岡本綺堂/東雅夫編(メディアファクトリー幽クラシックス)★★★★☆

「飛騨の怪談」★★★★☆
 ――昨夜も亦、ワロに鶏を盗られたと云いますよ――。市郎のお祖父さんもワロに殺されたのだ。五十年前の事だ。お祖父さんは日が暮れてから帰って来た。と、路傍の樹の蔭から可怪な者がちょこちょこ出て来た。猿のような、小児のような者で、其奴が赤児を抱えていた。そこで、お祖父さんも考えた。これは例の山ワロが人間の赤児を攫って行くに相違ない。腰に佩した刀を引抜いて、「待てッ」と声をかけた。

 詰め込み過ぎなくらいにてんこもりな作品です。山操(ヤマワロ。ほんとうは手偏じゃなくて獣偏)が出たと噂する冒頭は正統怪談調。山に住む母子の住処に話が転じると、途端にそこは異世界。怪しげな化物や隠された財宝、底知れぬ洞窟など、伝奇の匂いがぷんぷんです。嫉妬に狂うた芸妓が出てくると凛とした明治の恋愛小説風。山狩りが始まれば、洞窟内での戦いが待っています。

 ……と、ここまではそれなりにまとまっていたのですが。快刀乱麻を断つ名探偵/妖怪博士役が登場してきた途端に、それまで以上にとんでもっぽさが強まるのだから不思議です。お師匠さん役や物識り道士なんかが出てきてもっともらしく一席ぶつ中国の古典小説か何かを踏まえているような気もしますが、真っ新な状態で素直に読めば、この植民地主義的合理精神の塊みたいな解説は、ちょっと興ざめですよねえ。。。

 それから洞窟にいた怪しい男。正体については筋が通っているし伏線も拾えてはいるのですが、それにまつわるエピソードというのが、メイン・ストーリーに無理矢理もう一ネタぶち込んだ感じで、それまでの流れが寸断されちゃってるのが残念。てんこもり過ぎるがゆえに、彼の正体よりも気になることがたくさん起こりすぎているのです。

 しかし何と言っても最大の見どころは、クライマックスの重太郎とお葉の悲恋です。大雪のなかの逃亡劇、暗闇のなかの死闘。燐寸をもらいに行くってのがまたいいじゃないですか。

 帯のUMA云々という惹句は、『幽』本誌の実話怪談やオカルトのファン層を狙ったものかと思わるる。
 

「影(一幕)」★★★★☆
 ――「怖いよう、おとっさん」「なにが怖い。夢でも見たか」「あれ、来たよ、来たよ」「成ほど、誰かが歌いながら来るようだ。旅の人でも迷って来たかな」「済みませんが、少し休ませて貰えませんか」

 「木曾の怪談」の戯曲化。戯曲ということを考えた場合、舞台で太吉役の役者が子どもの声色で「怖いよう」とやるのが一番の興醒めなわけです。その点この作品では、太吉の出番を極力抑えながら、サブリミナルのごとく作品全体を「怖いよう」「怖いよう」という声が木霊して覆っていて、雰囲気を盛り上げています。舞台でやるならむしろぼそっとつぶやくような感じで「怖いよう」とやってほしいかな、と思ったりしました。
 

「怪談実話集「木曾の怪物」「お住の霊」「河童小僧」「池袋の怪」「画工と幽霊」」★★★★☆
 ――これは亡父の物語。猟師曰く、私は年来この商売を為ていますが、この信州の山奥では時々に不思議なことがあります、此れを「怪物《えてもの》」と云いまして、猿の所為とも云い、木霊とも云い、魔とも云います。鴨を見つけて忍び足で傍へ寄ると、鴨は二足ばかり歩いて立止まる。追縋れば又二足ばかり歩、歩めば追い、追えば歩む。例の怪物に相違ない……。

 いまもって違いが(あるのかすらも)はっきりとはわからないのだが、「実話怪談」というのは実話かどうかを問わずオカルト風の文体で語られる怪談のことであり、「怪談実話」というのは怪異を扱った実話ということでいいのだろうか。綺堂はそもそも『半七』にしてからが聞き書きのスタイルなので、新聞記者の聞き書きというスタイルのこの実話集も、あまりノンフィクションぽくはない。合理にもオカルトにも収斂させない一言コメントみたいな文章に味がある。ほかに、枕元に出る幽霊の話、尻に目のある小僧を投げ飛ばした話、石が降る話、倫敦の別荘に出た幽霊の話。
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