『諸国物語』(ポプラ社)★★★★★

 文字がでかいので、見た目ほどには収録作は多くない。全21篇。しかしさすがに傑作が多い。

「かけ」アントン・チェーホフ原卓也(Пари,Антон Чехов,1889)★★★★★
 ――十五年、「囚われの身」になるという実験。その時、彼の心に何が起きたか? 十五年の幽閉生活に耐えたら、二百万ルーブル。酒席で公論となり、若い法学者は尊大な資産家の提案を受けて立つ。庭の離れに閉じこもり、一年、六年、十年……。一夜の酔狂が人生を台無しにしたかと思われたが、すべてを覆す驚きの結末が待っていた! 最後に人の心を満たすものは何か。(出版社紹介文より)

 冒頭のやり取りが、このところの日本の知識人のやり取りとまったく同じで笑えた。恐らく法律学者はチェーホフなど読んではいますまい。

 十五年もあれば人の心は変わります。塀の内と外の人生のその年月がほんの数ページに凝縮されてます。短篇ならではの切れ味です。

 お金があるときはお金なんて重要じゃない、お金がなくなるとお金にしがみつきたくなる、お金のない生活をしていればお金なんてどうでもよくなる。立場が変わればものの見方も変わる。となれば死刑論も所詮は立ち位置によるのでしょうか。
 

「秘密のないスフィンクスオスカー・ワイルド平井呈一(The Sphinx without a Secret,Oscar Wild,1887)★★★★★
 ――それでも人は秘密を求める。謎の女に恋した男の青ざめた告白。馬車から顔をのぞかせた見知らぬ女性に心奪われたマーチソン卿は、晩餐会で偶然、彼女と再開する。月光のような妖しい魅力に恋心を募らせるが、女の唐突で不可解な行動にすっかり振りまわされてしまう。憔悴しきった彼の話を聞いた友人はその謎を鮮やかに解いてみせる。(出版社紹介文より)

 男心の方だけが空回りしていればただの皮肉な話なんだけれど、女心の方にも他意がないから、ちょっと寂しいこの世の真実みたいな感じで、おしゃれなパーティジョークみたいな感じもしてちょっといい話(パーティジョークがおしゃれかどうかはともかく)。
 

「盲目のジェロニモとその兄」アルトゥール・シュニッツラー山本有三(Der blinde Geronimo und sein Bruder,Arthur Schnitzler,1900)★★★★★
 ――なぜ? なぜ疑う? 兄弟の心が本当に結びつくまで。弟を失明させた罪の意識に苦しむ兄は、自分の楽しみを捨て、放浪する弟に寄り添い続ける。だが、ある日、弟が兄を突然なじりはじめた。目が見えないゆえに生じた誤解。心が離れていく哀しみ。真実を伝えようとする兄は思い余って常軌を逸した行動に出る。沈黙のなかに心つながる瞬間を描く。(出版社紹介文より)

 不用意な言葉によって傷つけられた絆が、また別の言葉によって回復されますが、それを言葉じゃなくて行動で示すのがかっこいい。取り返しのつかないことを通して取り戻せたものがありました。
 

「三つの死」レフ・トルストイ/中村白葉訳(Три Смерти,Лев Толстой,1859)★★★★☆
 ――まざまざと死を吟味する―――さて生きる者はどこへ向かうのか? 肺を患う夫人はすっかり衰弱しきっていた。僅かな望みを抱いて転地療養を試みるが、旅の途中で付き人の鈍感さや夫の無神経さに苛立ちながら、やがて死へと赴いていく。死にゆく者と健康な者の心の隔たりを描き、自然の中に人間の生死を見つめる仮借なき生命のデッサン。(出版社紹介文より)

 走る馬車の俯瞰から始まって、馬車の中の女主人の様子、馬車の御者、駅逓に停まれば駅逓の中で寝込む御者へと、景色が流れるように移り変わり、ひとたび移り変わればあとはそのまま女主人と駅逓の御者の二つの物語が別々に語られます。そして最後に描かれる三つ目の死。縁の連鎖とでもいいますか、この世の出来事はすべてつながっているのだ。二つ目の死の、残酷さが印象深い。

 ほかの作品と比べても訳文がちょっと古風。
 

「砂男」E・T・A・ホフマン/種村季弘(Der Sandmann,E.T.A. Hoffmann,1815)★★★★★
 ――夢想家ナターナエルを追いつめるおぞましき砂男の影。優しい恋人のクララに、「砂男」の悪夢を伝えようと必死になる学生ナターナエル。恋人の恐怖を取り除こうと、クララは包み込むようにいたわるのだが……。冒頭の三通の手紙はプロローグに過ぎない。その後に待ち受けている奇怪な出来事の連打は、ナターナエルを狂気の際へと追いこんでいく。(出版社紹介文より)

 リアルに考えればトラウマが元で気が狂った人の話。なんだけれど、こんな狂い方なら本望だったんじゃないだろうか。
 

「シルヴィ」ジェラール・ド・ネルヴァル入沢康夫(Sylvie,Gérard de Nerval,1853)★★★☆☆
 ――過ぎ去った恋がからみあう―――妄想的恋愛の驚くべき美しさと破綻。ヴァロワの村の輪踊りで少女に出会った瞬間、少年は戦慄する。幼い恋が生み出した幻影は幾度も記憶の淵から呼び出され、新たな恋が塗り重ねられていく。三人の女性を巡るエゴイスティックな恋愛、その喜びと喪失…。自然のすがすがしさと田舎の風俗、仄かなエロティシズムが交錯する恋愛小説。(出版社紹介文より)

 舞台女優にかつて愛した少女の面影を見たことから始まる、思い出の青春風スケッチ(実際青春なんだけど)。たった一つの出来事から、ほとんど妄想のように(まんま妄想?)話が広がってゆくのだが、スケッチ自体は美しい。これで内容が個人的な恋愛バナでなければ超傑作なのだが。
 

「目に見えないコレクション」シュテファン・ツヴァイク/辻瑆訳(Die Unsichtbare Sammlung,Stefan Zweig,1926)★★★★☆
 ――失われた数々の名画は老人の記憶の中に輝き続けていた。老人の数百点に及ぶ貴重な版画コレクションは、戦後の窮乏生活をしのぐため、家人によりすっかり売り払われた。だが、いまや盲目となった老蒐集家はそれを知らず、古美術商の「私」を招き入れる。老人が白紙を前に絵の美しさを語りあげる場面は、細部にわたって記憶された生の輝きに溢れている。(出版社紹介文より)

 内容が内容なだけに、「この目のくろいうちは」という部分の原文がどうなっているのか気になります。
 

「水晶」アーダルベルト・シュティフター手塚富雄(Bergkristall,Adalbert Stifter,1853)★★★★★
 ――信じあう兄妹の健気さ。雪山から生還する子どもたちの物語。クリスマスの前日、山間の小さな村からふたりの子どもが祖母をたずねて山越えをし、両親の待つ家へ帰ろうとしていたが……。雪山に遭難した兄弟が生還するまでを描いた心洗われる名篇。村人たちの暮らしぶりや山の四季を諄々と描く前半は、後に続く物語に奥行きを与える美しい序奏となっている。(出版社紹介文より)

 雪で真っ白なのにあふれる色彩、風もなく降る雪など、静謐なイメージに圧倒されます。残酷で美しい景色の隅々まで堪能されたし。「そうよ、コンラート」の繰り返しがうざったいのが残念。
 

「一人舞台」ヨハン・アウグスト・ストリンドベルヒ(ストリンドベリ)/森鴎外(Das Starkare,Johan August Strindberg,1889)★★★★☆
 ――相手の女優は「ト書き」のみで登場。一人語りの戯曲の魅力。登場人物はふたりの女性だが、話すのはひとりだけという戯曲。カフェで雑誌を読んでいる女優仲間に語りかける主人公は、恋も仕事も彼女と張り合い、今は勝者を気取っている。だが、話すうちに自分が深く彼女の影響を受けていることに気づく。一人語りの中にすべてを浮かびあがらせる話芸の魅力。(出版社紹介文より)

 さすがに鴎外訳は古すぎるような。。。二人の女優が抱える確執が徐々に露わになって……というパターンなのだが、一人芝居なので文字どおり一人上手というか、勝手に自分の暗部をさらけ出しちゃっているようで、かえって惨めである。
 

「鰐」ヒョードルドストエフスキー米川正夫(Фёдор Достоевский,Крокодил,1865)★★★☆☆
 ――鰐の腹の中でしゃべる男。貪欲な人間たちの、支離滅裂! 妻エレーナにねだられ鰐見物に訪れたイヴァンは、鰐に、がぶりと飲み込まれてしまう。悲惨な事件の未亡人になるはずのエレーナだったが、事態は思わぬ方向へ。鰐の腹の中から興奮してしゃべり続ける夫、人間より鰐を心配する見世物師……。欲にまみれた人間たちが繰り広げる奇想天外な物語。(出版社紹介文より)
 

王になろうとした男ラドヤード・キプリング金原瑞人三辺律子(The Man Who Would Be King,Rudyard Kipling,1888)★★★★★
 ――王になろうという発想! どん底からの突破口を求めた男たち。灼熱の西風が吹きつける夏の夜、汽車で知り合った山師のような男が赤ひげの相棒を連れ「わたし」のもとを訪ねてきた。インドは狭すぎるからカフィリスタンという国の王になりに行くのだと言う荒唐無稽な話だった。だが数年後、ふたりが本当に「王」になりかけていたことを知らされる。(出版社紹介文より)

 新訳。王になろうとした男が道を踏み外すまでを描く。才能ある人材を呼び寄せようとしたり、帝国を夢見たりと、それなりに政治的ビジョンもありはしたのだけれど、結局は「一番偉い人」的な世俗的な「王」のイメージのままに突っ走り滅びてしまう。実際そんな程度の小国の王がいた時代だったようだが。てっぺんをとる、というわかりやすい野望を実現しながらも、本人が「てっぺんにいる者の当然の権利」だと思っていたものが、原住民にとっては「てっぺんから降りること」であったというのは皮肉である。
 

「ジュリエット祖母さん」レオポルド・ルゴーネス/牛島信明(Abuela Jurieta,Leopoldo Lugones,1906)★★★★★
 ――その夜、心は伝えあえるのか。ふたつの魂がたどった旅路の果て。人間嫌いのエミリオの唯一の楽しみは、二十も年の離れた伯母オリビアを訪ねチェスをすることだった。激しい愛を胸に抱きながら、自尊心の強いふたりは四十年もの間、淡々とした態度を崩さずつきあいつづける。老人となったふたりに、ある夜、心を伝えあうまたとない瞬間が訪れるが……。(出版社紹介文より)

 アルゼンチンの作家。南米文学というと暑苦しい文体の印象が強いのだが、著者によるのか訳者によるのか、印象がまったく違う。終盤にかけて描かれる、純愛の美しさと滑稽さが渾然一体となったシーンには心が動かされます。
 

「純な心」ギュスターヴ・フロベール太田浩一(Un Coeur Simple,Gustave Flaubert,1877)★★★★☆
 ――純な心がたどりついた人生の悲しみ、その美しき最期。身寄りを失い家畜の世話をしていたフェリシテは寡婦のもとに雇われる。教育はないが働き者の彼女は、女主人とその子どもたちを慈しみ、ささやかな幸福を味わった。だが、やがて心を寄せた身近な人々は、ひとり、ふたりとこの世を去っていく……。眼前の人への愛情に生きた女性の、人生の光。(出版社紹介文より)

 コッパードの「The Hurly-Burly」を連想した。悪でもなければ善でもない、汚れがないのではなく素朴なだけの人生。もっとも、あちらはそれを後悔したのに対し、こちらは幸せなのだが。
 

「明日」魯迅竹内好(明天,Lu Xun,1923)★★★☆☆
 ――悲しみよ、何も語るな。貧しくとも必死に生きる母の明日。後家の単四嫂子が夜更けまで糸車をまわす音が隣家に聞こえない日はなかった。だが今夜は音がしない。女は病に苦しむ我が子を助けようと呻吟しながら朝を待っていた。願をかけ、蓄財を投げ出し、医者のもとを訪れる単四嫂子。無知と貧困のなかで懸命に生きる母の姿が惻々と胸を打つ。(出版社紹介文より)

 執拗に繰り返される「無智」という言葉を、フロベールの「純」と同じような意味だと思えば、別に啓蒙的な話でもないんだけど。紙幣を燃やす中国の葬式の習わしは『スワロウテイル』で知ったけど、たとえ少額でも絵になるなあ。
 

バートルビーハーマン・メルヴィル/杉浦銀策訳(Bartleby the Scrivener,Herman Melville,1853)★★★★★
 ――まったく手に負えない! すべてを拒絶する謎の男の物語。ウォール街の小さな法律事務所にバートルビーという青年が筆耕として雇われた。黙々と書類を写す彼は有能だったが、それ以外は一切何もしようとしない。大目にみていた雇い主も青年の異様さに耐え難くなり、縁を切ろうと画策を始めるのだが・・・・・・。『白鯨』で知られるメルヴィルのもうひとつの傑作。(出版社紹介文より)

 この手の作品の不思議なところは、理不尽な存在を語り手たちがなぜか受け入れてしまうことにある。だから「銀の仮面」のような善意の押し売りや、カフカのような純然たる不条理が押し寄せるというよりは、むしろ受け手の側に「老水夫」のようなコンプレックスなり、「ミリアム」のような写し鏡なりが存在する危うさを強く感じてしまうのである。
 

「秘密の共有者」ジョゼフ・コンラッド/宇田川優子訳(The Secret Sharer,Joseph Conrad,1909)★★★★★
 ――「分身」という奇妙な感覚にとらわれ一瞬に運命を掛けた男の、危機一髪。殺人を犯したという海からの闖入者をかくまうことになった船長の「私」。なぜ危険を冒してまで男を守るのか。会ったばかりの男への奇妙な共感、孤独、任務への緊張。閉ざされた空間で異様な情熱に貫かれた「私」は、男を逃がすために大胆な賭けに出る・・・・・・。息詰まる心理劇は圧巻のラストへ。(出版社紹介文より)

 新訳。身内ばかりの船に船長として投げ込まれた疎外感より、出身校が同じというだけで見知らぬ逃亡者に共感を覚えてしまうというのは、わからないでもない。作中にも書かれているように、余所者同士の連帯感というやつです。本篇の場合は相手が逃亡者であるため船員からは匿わなければならず、だんだん語り手の精神状態も危うくなっていくのがひとつの見物。

 しかしこの結末はどうも、罪を犯した「分身」をきちんと送り出すこと(がきっかけ)で語り手が一つ階段を上る、というのは物語的にはよくできているのだが、キャラ中心に読むと、逃亡者のレガットが船長の成長のダシにされているみたいでしっくり来ない。
 

「争いの果て」ルーシー・モード・モンゴメリ村岡花子(The End of a Quarrel,Lucy Maud Montgomery,1912)★★★★★
 ――ずっと求めていた人生がある。懐かしい庭からはじまる愛の物語。二十年ぶりに里帰りをしたナンシーは、かつて喧嘩別れをした婚約者のピーターがまだ独りでいることを知る。従姉に復縁をそそのかされるが、再会したピーターは声もかけてこない。遠い昔のほろ苦い夢。だがある日、ナンシーのちょっとした悪戯からハプニングが。夢とユーモアに満ちた心温まる作品。(出版社紹介文より)

 男で言えば「少年の心」のようなもの。「女心」ではなく「女の子心」を描くことにかけては、やはりモンゴメリは圧倒的に長けています。ルイザとナンシーの会話とか、ピーターの家を訪れたナンシーのちょっとした思いつきとか、乙女度100%です。あっ、それをいうならキプリングの作品は男度100%ですね。
 

「死せる人々」ジェイムズ・ジョイス/安藤一郎訳(The Dead,James Joyce,1907)★★★★☆
 ――愛も、熱情も、生も、死も―――いま、降りしきる雪がすべてを覆う。舞踏会に招かれたゲイブリェルの心は重く、外の雪ばかりが気になっていた。だが、人々が闇のなかに去り始めたとき、ある一瞬の光景が彼の生気を呼び覚ます。懐かしい思い出、妻の告白、降りやまぬ雪。彼はかつて味わったこともない時の深みに身をゆだねる。細密な描写が織りなす幽遠な心の世界。(出版社紹介文より)

 雪の舞踏会で交わされるお定まりの会話。それと足並みを合わせるかのようにぱっとしないゲイブリェルの気分が、妻との打ち明け話をきっかけに静かに高まるクライマックスが感動的です。
 

園遊会」キャサリンマンスフィールド浅尾敦則(The Garden Party,Katherine Mansfield,1922)★★★★★
 ――喜びの日に舞い込んだ暗い報せ。万華鏡のような少女の心、人生の深い淵。園遊会の準備を母から任されたローラは喜びに踊り上がる。庭にテントを張る職人の仕草、花屋が届ける沢山のユリ、厨房のざわめき。何もかもがローラの心を浮き立たせた。だが、そこに暗い報せが飛び込んできて……。めまぐるしく変化する少女の心が多忙な一日の終わりに辿りついた不思議な感慨。(出版社紹介文より)

 新訳。もっと何も起きない地味な話の印象だったのだけれど、意外とけっこういろんなことが起こってました。というか、多感な少女の視点から見たからこそ、ものすごい波乱に満ちた一日だったということでしょうか。そうだとすると、それを感じさせてくれた新訳さまさまです。
 

「もっとほんとうのこと」ラビンドラナート・タゴール/内山眞理子訳(Parï Ãro Satya,Rabindranath Tagore)★★★★☆
 ――心洗われる音楽のように祖父から孫へ贈る、優しさと喜び。「おじいさまのは作り話ばかりだわ。なにか、ほんとうのお話っていうのを聞かせてよ」というクシュミに、「おまえは妖精の国からきた妖精だったけれど、この大地の重みに囚われてしまったんだ」とおじいさんは語り始める。晩年のタゴールが孫のために書いたという、清らかな優しさを放つ物語。(出版社紹介文より)

 夢見ることと想像力のすばらしさを語り聞かせながら、それが同時に「昔々……」というエクスキューズを用いない童話にもなっている、珠玉の作品。
 

「片恋」イワン・ツルゲーネフ二葉亭四迷(Ася,Иван Тургенев,1858)★★★★☆
 ――ツルゲーネフ×二葉亭四迷! 蕩けるような翻訳で読む、悲しい恋の物語。ライン川沿いの田舎町に逗留していた「私」は、異国の地で同じロシア人の兄妹に出会い意気投合する。穏やかで人好きのする兄と、不安定で子どものような妹。だが、兄から妹の悲しい生い立ちを聞き、「私」は激しく心を揺さぶられる。二葉亭四迷の自在な訳が濃厚な味わいを醸す悲恋の物語。(出版社紹介文より)

 やたら危なっかしい魅力のあるエキセントリックな女の子と、肝心なところでダメダメな男の組み合わせというのは鉄板だなあ。自然主義どうこうよりも明治の文豪どもはこういう構図にメロメロになったんじゃないだろうか。などと思ってしまった。
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