『三種の神器――謎めく天皇家の秘宝』稲田智宏(学研新書)★★★☆☆

 天皇家に伝わる、言わずと知れた皇位継承の証です。

 歴史的な考察よりも、まずは明治以後における三種の神器の地位について書かれていることに意表を衝かれました。即位式行幸などの神器を伴う公式行事や保管場所について確認することで、その重要性が説かれています。平安時代も現代も、今上帝が崩御したら悲しみに暮れる間もなくすみやかに神器を移動して即位式をおこなうというのは興味深かったです。

 壇ノ浦に沈んだはずの草薙剣について、ご神体を例にとって依代という視点で解釈しているのも、目から鱗が落ちました。

 ところがです。依代云々という話になった以上は宗教的な面の話になっても当然なのですが……。神器に宗教性があるのだから、神器がらみの皇室行事にも宗教的重要性が伴っていて然るべきだ、という発想なのでしょう。途中からは“最近の皇室関係のあれこれは宗教的価値を自重していてけしからん”みたいな自説を不満たらたら語り出して、調子が怪しくなってきます。

 第二章は神器の由来。『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の伝承を中心にたどられます。丸く輝く鏡が天照と同一視されるのはわかりますし、天照自身が瓊瓊杵尊に向かって鏡を自分だと思えと言っているのだから、八咫鏡の神器としての由緒は間違いのないところです。

 ところが八尺瓊勾玉が神器に数えられるきっかけや由来ははっきりしないのだそうです。そもそも桓武のころになるまでは、神剣や神鏡の記述はあっても神璽の記述が見られません。(第一「神璽」という呼び方にしても、「璽」というのは「印」のことであって「勾玉」のことではないのだそうです)。では神璽がないがしろにされていたのかというと、記紀の記述では三種の神器のなかでは真っ先にその名をあげられています。こんな話を聞くと、わたしなぞは推理小説的な展開を期待してしまうのですが、著者はそんな浮ついた発想はせず慎重な記述に留まっています(残念。(^^;。)。

 そして第三章は、現実の神器の歴史です。けっこうなくなったり移動したりしてるものなんですね。へえ、ちゃんと実物を見た人がいたのか(記録上は)。それでも南北朝統一後はどうやらとくに特別なことは何もなかったらしく、著者も何も書いてはいません。

 その結果、終わり方がものすごく唐突で尻切れとんぼな印象でした。

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