『定本 久生十蘭全集 第3巻』久生十蘭(国書刊行会)★★★★★

 第三巻の月報は芦辺拓澤登翠。芦辺氏の方は、十蘭を「いかに書くか」の作家という側面だけではなく、「なにを書くか」の方でも再評価しようというもの。澤登氏は弁士らしく語りについて。

「海豹島」(1939,1956)★★★★☆
 ――海豹島は膃肭臍《おつとせい》の蕃殖場である。二十数年前、島である事件があつた。乾燥室から火を失し、人夫小屋を除く全部の建物が烏有に帰し、狭山といふ剥皮夫が生き残つたほかは、五名が焼死したといふ事件である。

 理詰めで考えていきながら、島の雰囲気と疲労や衰弱から、理屈を飛躍する瞬間が強烈な印象を与えます。探偵小説的な部分よりも、むしろその瞬間のための伏線を面白く感じました。
 

「教訓」(1939.4)★★★★☆
 ――山路一等運転士は、あつと小さな叫び声をあげて、食ひ入るやうに社長の死体を注視してゐたが、急にさりげない顔つきをとりつくろひ、顔をうつむけてしまつた。山路が改札口を出ようとする時、社長の次女のユミ子が声をかけた。

 三一版未収録。小栗虫太郎の問題篇に、各作家が解答篇を寄せたもの、だそうです。場面状況がわかりづらいのはそういう事情によるものです。巻末解題には虫太郎の問題篇も掲載されています。軽くトリッキーなショート・ショートです。
 

「妖翳記」(1939.5)★★★★★
 ――何をしてゐるのかと思つて、のぞき込んで見ると、やまかゞしをなぶつて遊んでゐるのだ。「あたしの来るまで、この蛇を蹈んづけてゐてちやうだい」と言ひすてゝ、歩いて行つてしまつた。私は、今の女性に美学と美術史を教へに来た苦学生で、蛇の頭を蹈んづけに来たわけではないのだが。

 三一版未収録。何年か前に『日本怪奇小説傑作集』にも収録された傑作です。白磁のような顔、宙乗りのような足どり等々、人間離れした「無生物的」でサディスティックな美女に惹かれ、恐れながらもマゾヒスティックな悦びに傾倒していく語り手。冒頭では踏んづけられた蛇を上から見下ろしていた語り手が、やがて蛇の側になってゆく様子が、ぴしりとした文体で語られてゆきます。「月光と硫酸」なんかもそうだけれど、頭がおかしくなるのって、実はすごく楽しいことなのかも、って錯覚しそうなほど魅入られてしまいます。
 

「だいこん」(1939.6)★★★★☆
 ――アメリカから帰つた叔父さんが、お土産をわけてくれる。だいこんには、護謨《ゴム》でつくつた卷脚絆のやうなものをくれた。「三十日で脚をスラリと痩せさせる法」といふ小冊子がついてゐる。

 三一版未収録。こまっしゃくれた女の子「だいこん」の、ちょっといじわるで健気なエピソードの数々。嬉しくなるほど可愛くありません(^_^。完全無欠の優等生だったキャラコさんとは違い、そこがいいのです。
 

「墓地展望亭」(1939.7〜8)★★★★☆
 ――おれは、明日、死ぬ。なぜ、明日なのか。人生に対して、存分に焦らしてやりたいと思ふからである。土壇《テラツス》に出てゆくと、龍太郎の揺椅子にひとりの婦人が掛けて、海を眺めてゐた。「失礼ですが、それは、私の椅子です。明日になれば、ご自由にお使ひくださつて差支へないのです。でも今晩は……」「なぜ?」「明日、私は死ぬのです」「じぶんで死ぬのは、勇気がいりますわ」「死ぬよりも、生きていくはうが、もつと勇気の要る場合だつてありさうですね」「それも存じてゐますわ」

 今は作家となった語り手が、若い頃に本人から聞いた話、という形を取っています。そうは言っても実話めいたところなどなく、頭からのお伽噺なのですが、「墓地展望亭」という名のカフェが、そういうお伽噺に相応しい雰囲気を持っていて、こういう場所でなら何を聞いても信じられそう、何が起こっても不思議はなさそうな気にさせられます。

 「馬耳塞朝刊」に「マルセイユ」というルビが振ってあったので、おや、と思う。そういえば「トルコ」も「土耳古」だなあ。調べてみると、元々は中国語の表記らしい。とすると――大下宇陀児という探偵作家の名前も、もしや?と思い、確かめると、四声こそ違えど「耳」も「児」もどちらも「er」という発音でした。ペンネームの由来は歌子夫人、とか言われても、「ウダジ」や「ウタコ」ならともかくどうして「ウダル」と読むのかと、長年もやもやしていたので、胸のつかえが取れた思いです。※というか、「老頭児《ロートル》」とか「帖木児《ティムール》」とか「胃加答児《胃カタル》」とかけっこうあるんですね。「児=ル」はもしや常識の範疇だったのか。
 

「昆虫図」(1939.8)★★★★★
 ――団六は青木と同じく貧乏画かきで、古ぼけたアトリエに、年増くさい女と二人で住んでゐた。十一月のはじめ、アトリエを訪ねてみると、細君の姿が見えないで、どうしたのかとたづねると、病気で郷里へ帰つてゐるのだといふ。

 読み返してみると、女が夢枕に立つところが余計に思えたのだけれど、結末を知っているだけに、これじゃあ幽霊の出てくる怪談みたいだと早合点してしまったせいだろうか。初読のときなら、蠅で「ははあん」と思いつつ、蝶で「おや?」と思い、夢枕でもう一度「ほう」と思い、甲虫でぞっとして、最後にもう一押し……というのが自然な流れなのかもしれない。厳密に言えば甲虫は団六の家の出来事ではないのだから、それを一連の流れに組み込んでしまうのは、そこに流れを読み取ってしまう青木と読者の妄想であってもおかしくはないのでしょう。普通であれば何でもないただの「甲虫」を事件(?)とつなぐのが夢枕なんですよね。でもそうなると、これまではこの作品を「埋まっている(と匂わせている)」作品だと思っていたのですが、そうではなく「視点人物が狂っている(と匂わせている)」作品だったのでしょうか。
 

「計画・Я―又は、地底の攻略路」(1939.8〜9)★★★☆☆
 ――ソヴィエト聯邦政府は、地底道説が実証されたら、日本に対する在来の軍事強化を放棄し、「地底の攻略路」によつて一挙に日本の北辺を衝かんとする計画を案出した。

 従来は「地底獣国」の名で知られていた作品です。タイトルの採用理由については解題に詳しい。その解題にもあるとおり、やはり第九章は( )内はない方がいい。当時の秘境冒険ものらしく、軍事色愛国色政治色もそこそこまぶせつつ、基本は博士と囚人の探検行です。無駄にかっこいい死に方をする人たちもいて、連載ものなら毎回山場が必要というのもわかるのだけれど、これはそれこそ無駄にかっちょいい。もっともらしく地下空洞についていろいろ引用しているのも楽しい。
 

「贖罪」(1939.9)★★★★☆
 ――五年前の夏のことである。風見は、モンテ・カルロでルウレツトに気儘に模擬貨を投げ込んでゐた。ちやうど八回目あたりのとき、二千法が倍になつて、四枚の紺青の模擬貨が積み重ねられた。その時、すんなりとした白い手が四枚の模擬貨のはうへ這ひ寄つて来て、素早くそれを掴むと、すうツと引つ込んで行つた。

 三一版未収録。冒頭、「ヌラヌラと」「ぬらついて行つて」「人魂色の」「ぞつぺりとした」といった不思議な表現が続いて、なんじゃこりゃ、と思っていると、「あツ」と語り手が驚くと同時に読んでいるこちらにも空気が変わったのが伝わってきます。ロマンチックなストーリーではありますが、実は女の方は一言もしゃべってはおらず、男が勝手に忖度しているようにも思えてしまいます。が、模擬貨に言葉が掘られていたというのは事実でしょうから、そうなるとやはりほかの部分もふくめて、十蘭の意図は素直に受け取っていいのでしょう。そうはいってもやっぱり男の側がロマンチックすぎますが。
 

「「女傑」号」(1939.9)★★★★★
 ――巴里に住みついて五年経つてしまつた。六十歳になるおふくろが、日本からひとりでトコトコと巴里までやつて来た。「おい、こゝが巴里なのかい」「うん、さうだよ」「あんまりパツとしないところだね。馬鹿々々しい……それに、ひどく、おしつこの匂ひがするぢやないか」

 三一版未収録。おっかさんが強烈な印象を残します。無名の人間が有名人を笑い飛ばすというのが諷刺のならいなれど、本篇では相手を貶めるのではなくこちら側を魅力的に描いているのが気持ちいい。おっかさんの魅力があふれていて、読んでいて快い作品でした。
 

「犂《カラスキー》氏の友情」(1939.12)★★★★★
 ――山川石亭先生が、蒼い顔をして入つて来た。「どうも、えらいことになりました」「だから、言はないこつちやない。……美人局ですか?」「いや、もつと物騒なやつなんです……実は、盗つとに誘はれましてねえ」

 三一版未収録。冒頭から先生と語り手の掛け合い漫才が楽しい作品です。偉い先生はやっぱり底の抜け方が違います。スコーンと気持いいくらいの抜けっぷり。道徳の研究というのがまたいろいろと皮肉でした。「地見」「ぼくよけ」「油屋さん」「うんてれがん」といった古くさい言葉遣いも、おとぼけぶりに一役買っています。
 

「カイゼルの白書」(1939.12)★★★★★
 ――今朝大きな海老の夢を見て眼を醒した。喰べた夢ならありさうなことだが、余が海老になつた夢なのだ。兎も角、ひどく赤い。腰は曲り、眼はとほんと霞んでいる。思ふに、「白書」と名乗つた以上、こんな剽軽なこと書いてはいけなかつたらしい。

 三一版未収録。元ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世がヒトラーに書いた手紙、という設定。自慢のカイゼル髭もあんなことになったり、ナチスに共感して政界復帰を夢見るもけんもほろろ、等々、たぶんに戯画化されたおちゃめな皇帝です。哀れ・滑稽・機知・知性さまざまに詰まった、自虐と諧謔のレトリックが駆使された作品でした。
 

「赤ちやん」(1939.12)★★★☆☆
 ――「あの、ちよつと……」と、いふ声がした。若い美しい西洋婦人が、赤ちやんを抱いて立つてゐる。ホワツト……、と唇の先まで出かゝつた。モゾモゾしてゐると、婦人は歯切れのいゝ東京弁で、「あのウ、あたし、買物に行つて来ますから、こいつを、預かつてちやうだいね」

 思い込みが激しくて純粋で一本気という、十蘭作品にはよく見られる人物が主人公。独り相撲が微笑ましい作品です。
 

「娘ばかりの村の娘達」(1940.1)★★★☆☆
 ――克平の差当つての気苦労は、どうして部落の古老に、山林を売らなければならない事情を納得させようかといふことだ。世話役のズン太郎を味方につけようと土間へ踏み込んだところ、突然、パチパチと拍手の音が起つた。振向いて見ると、村の娘が卅人ばかり整列してゐる。

 三一版未収録。そのころ農村小説・農民文学というジャンルが注目されていたそうです。それにしても、「ズン太郎」はないだろ。
 

「白鯱模様印度更紗」(1940.1)★★★★☆
 ――頃は一八〇〇年五月の五日。処は名に負ふ印度洋の真直中。進み来る一艘の二檣帆船《ブリツク》、これぞ法朗西《フランス》の掠奪船《コルセエル》、「白鯱《エポオラアル》」号!

 三一版未収録。ナポレオン時代の海賊ロベール・シュルクフを描いた講談調の作品。相思相愛の女でも親友の妻だから手は出さない、それどころか敵に捕えられた親友を命を棄ってでも助けようとする、まさに講談にふさわしいヒーローなのです。
 

「心理の谷」(1940.1)★★★★★
 ――貴子さまがお電話で、「すぐ資生堂まで、おいでくださいまし」と、おつしやる。端倪すべからざる複雑な修辞を駆使して、自分のしたいやうに相手を捻ぢ伏せてしまふ。「あたくし、このごろ、メンデルの『雑種植物の研究』を読んでをりますのよ」結婚したあとのことばかり考へてゐますのよ、といふ意味を言外に匂はせた。山座は、高所恐怖症といふ奇妙な病気を持つてゐる。(えらいことになつた! おれの癲癇を知つてゐるのは、礼奴のやつのほかゐない筈なんだが……)

 三一版未収録。三者三様の心理の恋の駆引きが見どころの作品です。そのわりに山座は鈍いのか、病気も恋もショック療法が必要でした。「いや」という代わりに「その方がよろしいわ」というお嬢様に倣って、運命も言葉を裏切ります。日本語で短長音五歩格を誦する礼奴が、キザを通り越して果てしなくかっこいいです。
 

「月光と硫酸」(1940.1)★★★★★
 ――朝から晩まで蟻を見て暮すといふのは、なかなか楽なことぢやない。身から出た錆といへばそれまでだが、これが、せつせと勉強したむくいだといふんだから、いやはやである。昼日中に幻影が見える。猿が来る。梟が来る。薔薇の花が来る。天使がくる。……

 三一版未収録。鋭くとぼけたユーモアが印象的な作品ですが、狂人の視点を利用して伏線を堂々とさらけ出して見せるなど、ミステリとしても優れた作品です。
 

「暢気オペラ」(1940.1)★★★☆☆
 ――頭を揃へなければ、売上の歩を組み直すといふんだ。なア、文芸部、おめえ女になつてくれよ。……東京を出発するときは、それでもちやんと筋が通つてゐた。ダンスが三本、日本舞踏が二本、それに舞踏劇が一本つく。それが初日で大コケ、客席は畳の面と桝桁ばかり。

 三一版未収録。でたらめで人情じんわりな時事ユーモアです。興行がうまくゆかず、やればやるほどドツボにはまる、呆れるほどのぐだぐだっぷりが可笑しくて仕方がありません。南京豆の袋って……それで金を取ろうという料簡がばかばかしくってたまりません。
 

『平賀源内捕物帳』

 三一版未収録。ミステリとしてはすっとこどっこいな作品ばかりなのだけれど、そこが源内らしいというべきか。という意味では、中途半端にリアリティのあるトリックよりも、無茶なトリックの方がむしろ作品としては成功しているのかもしれません。

「萩寺の女」(1940.1)★★★☆☆
 ――「……おい、伝兵衛」その声は、どうやら、はるか虚空の方から響いて来る。五重塔の素ツ天辺、平賀源内先生が、筒眼鏡を持つて景色を眺めてござる。「先生、実は朝方、またあつたんです」……美しい娘が頭の天辺から割りつけられ、倒れてゐた。雪の上には娘の足跡しかない。

 流れ星を捨てネタにするあたりは博覧強記の源内先生というところで、トリッキー過ぎる真相とともに、篇中でも「名探偵」平賀源内を堪能できる作品だと思います。
 

「牡丹亭還魂記」(1940.2)★★★☆☆
 ――伝兵衛が云ふには、「実は、この頃御牢内で無闇に人が死にます。それも大盗人ばかり」「それは奇態だな」「昨夜には稲葉小僧新吉が、妙なことを口走るんです。『間もなく嫦娥さまが迎ひにくる』と」

 通りがかりに見かけた見知らぬ植物の絵に、本草学者としての血が騒ぎ、事件をほっぽりだしてしまう先生。結果的には真相解明の早道でしたが。「嫦娥でも舞ひ下りて」きたような娘だなんていう、無理矢理なレッド・ヘリングが、作品の雰囲気を盛り上げています。
 

「稲妻草紙」(1940.3)★★★☆☆
 ――ついこの月初にお手当になつたばかりの幻術使ひの女賊、稲妻お紋の悪事を三幕に仕組んだ女歌舞伎が大景気。一座の寿々女とお紋とは生写し。ひよつとすると、お牢にゐるのが寿々女なんぢやないか……と伝兵衛が源内に耳打ちする。

 幻術というのが魔術なのか奇術なのか正体がはっきりしませんが、だからこそ真相の意外性が生きてくるのでしょう。台本にあるのに読まれなかった科白、一台多い駕籠などなど、そのまま書けばうまくまとまったミステリになりそうな気もするのですが、冒頭で長々と説明文が続いたり、途中で源内を引っ込めたり、不思議なバランスの作品でした。最後に人情に訴えるあたりに捕物帳らしさがあります。源内が一座のために作った科白がけっこう長々と引用されてて面白い。
 

山王祭の大象」(1940.4)★★★☆☆
 ――今年は猿の山車の外に、小山のやうな白象の曳物を出すといふので、これが江戸中の大評判。ワツシヨイワツシヨイ。そら、象が来た。どうしたといふのだらう、作物の象の胸先が牡丹の花ほどに濡れ、そこから血が赤く糸をひいてゐる。「血だ、血だ」見るより伝兵衛、アツと叫び声をあげた。「象の腹の中に若い女が死んでゐます」

 衆人環視のなかの殺人。殺人が行われた頃合いや容疑者から犯人を絞り込む際の推理など、手堅い段取りを踏んでいるため作品としてまとまってはいますが、それだけにものたりないところもありました。蓮華往生や延命院日潤を解決した(という設定の)名人たちも出てきて、何となくお得感があります。
 

「長崎ものがたり」(1940.5)★★★☆☆
 ――源内先生は旅姿である。浮々してもよかるべきところを、面には一抹の憂色がある。長崎に勉強をしに行つた時、長々寄泊して親身な世話を受けた長崎屋の妹娘の鳥といふのが、長崎で世話になつた唐人さんに挨拶に行つたところ、殺されてしまつた。

 江戸と大坂と長崎で同時刻に同一犯人に殺されるという、極めつけの不可能犯罪です。スマートな解決であればパターンは限られると思うのですが、その実まったくスマートではない、でも源内先生らしい解決が待っていました。即死されては成り立たないトリック、『孔雀の羽根』を連想するような動機などなど、ご愛敬たっぷりなところもこのシリーズではむしろ欠点ではありません。
 

「尼寺の風見鶏」(1940.6)★★★☆☆
 ――薔薇のびるぜんといふ尼が、ときどき『昇天』といふことをする。木の枝へ首を吊つて縊れて死に、それから三日後に復活する。じつに有難がたいことだといふので、密信徒《くろ》は生神のやうに崇め慕つてゐる。

 みずから首をくくり三日後に復活する隠れ切支丹の尼僧――。「長崎ものがたり」に引き続いて魅力的な謎の物語です。最後の証拠探しは、さり気ない伏線!と思ったけれど、よく考えると犯人側がそんなことする必然性がありませんよね。
 

「蔵宿の姉妹」(1940.7)★★★☆☆
 ――札差利倉屋の大番頭喜兵衛が奥印をもらひに主人の利右衛門の居間に行つた。……返事がない。どろしとしたものが閾に筋をひいて流れ出してゐる。「わツ、これは血!」襖を開けると、利右衛門が俯伏せに倒れてゐた。「……新島亘にやられた」

 源内先生たちは長崎からの帰京中のため、伝兵衛の姪お才が探偵役をつとめています。論理的に幕が引かれるのではなく、歌舞伎のように複雑怪奇な人間関係が明らかになることで物語が閉じているのが興味深いところです。
 

「爆弾侍」(1940.8)★★★☆☆
 ――「どうなさいました……おツ、斬られてゐる!」「お願いを……じつにもつて、由々しい大事……」それで息絶えてしまつた。お才は船番所に知らせようと歩きはじめた。それからものの十丁ばかり、また一人の男が倒れてゐる。

 謎の連続殺人から始まって暗殺計画の発覚から阻止にいたるまで、なかなかスリリングな一篇です。殺された人間が「大変なことが!」とばかり言って肝心なことを言わずに息絶えてしまうギャグもあったりして悪ノリしてます。本篇も、表向きの謎を解くのはお才ですが、最後に源内先生が残った謎を論理的にさばきます。
 

「お嬢さんの頭」(1940.3)★★★☆☆
 ――万歳の大合唱の中を軍楽隊先頭の大行進が轟々堂々と進んで来た。石川澄江は、それを見てゐるうちに、突然、飼猫に三日も喰べものをやらずにゐたことを思ひ出して蒼くなつた。

 三一版未収録。画家の絵をお題に三作家がショート・ショートを書き下ろすという企画もので、紀元節のパレードを見ている観衆のなかで一人だけ別の方向を見ているお嬢さんはいったいどうしたのか?(大意)というお題だそうです。
 

「酒祝ひ」(1940.5)★★★★☆
 ――けふは先生はひどく冷い顔をしてゐる。「あなたに医学の常識をおあたへするつもりなのよ」「せつかくですが、けふは下痢加減ですから、近い将来に……」「将来なんかありますかしら……出やうひとつで、婚約は破約させていたゞくことになるかも知れません」まさに春暁の霹靂。先生は酩酊……飲酒のところの朗読をはじめた。「ゆふべやつたことをおぼえていらつしやいませんの?」

 三一版未収録。酒癖の悪い男と婚約者の女医が、かたや何でもかんでも専門分野に我田引水、かたや逆らえもせずとぼけた返答をしていたすえに……という落語みたいな話です。
 

「葡萄蔓の束」(1940.6)★★★☆☆
 ――ベルナアルさんは、たいへんにおしやべりが好きである。もうすこしで修道士になれるところを、沈黙の戒律を破つた罪で、また労働士にさげられる。花や、虹や、小鳥や、小川などの美しさにあまり感動し過ぎるやうである。主よりも花や小鳥を愛し過ぎるといふのは困つたことにちがひない。

 三一版未収録。第11回直木賞候補。『薔薇の名前』にも「キリストは笑ったか」なんて話がありましたが――と、いつのまにか翻訳もののつもりで読んでいる自分に気づきましたが、純然たる十蘭のオリジナルです。
 

「ところてん」(1940.6)★★★★★
 ――小文さんは、見てゐる方でハラハラするくらゐ気がいい。さういうひとだが、癇癪をおこすとそのときはめざましいのである。癇癪をおこすたびに、かならず立ちあがるのが妙である。なぜだ、ときいてみたら、じぶんでもよくわからないといふ返事だつた。

 三一版未収録。おしゃまさんとダメ男の、どことなくラノベめいたキャラと人間関係を思わせる、ところてんな日々。ちょっとはみ出た感じの不器用な二人が健気に生きるさまがいじらしくて微笑ましくてほっくりします。
 

「レカミエー夫人――或は、女の職業」(1940.6)★★★★☆
 ――「……部屋がありますか?」帳場の親子は、じぶんをうつとりさせてくれる男性かさうでないかで泊める泊めないを決めることにしてゐる。つい十日ほど前、金無しの絵描きを五日も泊め、じぶんの貯金をおろして辻褄を合はしたばかりなのに、どうやら、またその二の舞ひをやりさうだ。

 三一版未収録。恋に不器用な職業婦人「ボーツト倶楽部」の四者四様の不器用ぶりが、ユーモアを交えて描かれています。なかでも、おせっかいを焼くのが趣味の龍子さんが、しっかり者の男におせっかいを焼きたいがため、しっかり者をへこませたうえでおせっかいを焼こうという、本末転倒っぷり(それも相当な念の入りよう)が可笑しかった。
 

「浜木綿」(1940.8)★★★★★
 ――愛してゐるひとが多少の欠点をもつてゐるからといつて、愛する気持にかはりがあらうはずはない。いはんや、そのひとがあまりよく泣くからといつて、泣く子はいらないよ、などとそんなすぼけた気になるものではないのである。東京を飛び出して下手糞な櫓を漕ぎながらその日その日を送つてゐるといふのも、せんじつめたところお美代さんのしとどな涙にひかされてゐるわけだつた。

 三一版未収録。これまた不器用すぎる二人の恋愛譚です。作中で新派劇の話が出ていましたが、新派劇というか、絵に描いたよな自然主義文学じみたなよなよな感じがとてもいいです。悲劇に酔ってのろけてる二人が青くさくっていいなあ。
 

「大龍巻」(1940.8)★★★☆☆
 ――いゝ天気だ。癇癪が起きるほどにいゝ天気である。どのくらゐ時間が経つたか知らない。砂漠を襲う砂龍巻のやうなものが、垂直に空から垂れ下がつてゐる。一刻も早く颱風《ハリケン》の圏内から逃げ出すことが急務だ。

 三一版未収録。竜巻に巻き込まれた飛行士たち――といっても、恐怖小説ではなく、秘境探検ものみたいな暢気なパニック作品です。
 

「白豹」(1940.9)★★★★☆
 ――凡太郎が振向いて見ると、さつきの女性が自転車を押しながら後から歩いて来た。二人はおしだまつて歩いてゐた。また剽悍な犬の吠え声がうしろに迫つてきた。「犬はお嫌ひですか」「怖いですよ。警察犬は猛烈ですからな」

 三一版未収録。警察に追われる白皙の殺人容疑者と云々という、ほとんど無茶苦茶な話なんだけど、十蘭はエキセントリックで凛とした美女となるようになる男を描くのがうまいから、この作品も妙に心に残りました。あと、ほとんど表には姿を現さないのに、犬の存在感があって、山狩りの雰囲気が迫ってきます。
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