太宰は嫌になるくらい書くことに意識的な作家だったらしく、作家志望の人なら読んで損はないのでしょう。だけど怪談集としては今までで一番がっかりかも。
「怪談」★★★☆☆
――私は怪談を作ることを愛する。少し不思議なこと(いやむしろ平凡過ぎることかもしれぬ)でもすぐにそれを怪談にしてしまう癖があるのである。
太宰治による怪談創作講座、入門編。
「哀蚊」★★★★☆
――おかしな幽霊を見た事がございます。青蚊帳に写した幻影のような……。あれは御祝言の晩の事でございました。私の婆様程お美しい婆様もあるものではございませぬ。婆様はお寝になる時は、きまって私を抱いて温めて下さったものでございます。
怪談創作講座、実践編。「なぜそれがドロドロ現れねばならなかったのか」云々と書かれてもいるように、語り手は語っている時点ではわかっているのですが、それでいてちゃんと怪談になってもいます。
「尼」(「陰火」より)★★★★☆
――夜更けのことであった。部屋の襖がことことと鳴った。蒲団から腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立っていた。
改めて読むと、何だかつげ義春の漫画みたいなやり取りでした。『晩年』収録作だけれど、この場所に収録されているのは、解説にあるとおり「怪談」つながりです。
「玩具」★★★☆☆
――私は貧乏が嫌いなのである。生家の土蔵にはなおたからもののあることを知っている。私はそれを盗むのである。私はこの玩具という小説に於いて、姿勢の完璧を示そうか、情念の模範を示そうか。
怪談創作講座、応用編。太宰ってこんなに技術的な話も書くんだ。書くことについて書きながらの小説。最後の( )のなかも含めて完成品です、もちろん。
「魚服記」★★★★★
――山には炭焼小屋が十いくつある。スワという娘が、父親とふたりで年中そこで寝起きしているのであった。いつか父親が語ってくれたが、きこりの弟がやまべという魚を取って来たが、兄がかえらぬうちに一匹焼いてたべた。おいしかったのでとうとうみんな食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった……。
ここにきてとうとう「怪談創作講座」の跡は消え、完全にプロ作家の手になる物語ができあがりました。父に犯され身を投げた話の、どこをどう太宰が料理したのか、ぐっと難易度があがっています。
「清貧譚」★★★★☆
――以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。私は、この小片にまつわる私の様々の空想を、そのまま書いてみたいのである。むかし江戸、向島あたりに馬山才之介という男が住んでいた。ひどく貧乏である。
巻末に収録の原典「黄英」と比べると、ピントのぼやけた(そこがいかにも中国の昔話らしい)原典を、清廉潔白もとい意地っ張りの才之介に焦点を当ててより面白おかしいやり取りにして、最後にはほろりとさせているのがわかります。
ここから数話、ネタをいかに料理すべきかを学ぶという意味で、ふたたび怪談創作講座に戻ります。
「竹青―新曲聊斎志異―」★★☆☆☆
――むかし魚容という名の貧乏書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。伯父から押しつけられ、色黒く痩せこけた下婢をめとった。一奮発せんと決意して、まず女房を殴って家を飛び出し、自信を以て郷試に応じたが、見事に落第。「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ」と言って眼を閉じた。
↑あらすじにあるような、しれっとしたユーモアは好きなのですが、これはピントの合わせ方が「走れメロス」とかの方向に行ってしまいました。人生訓的な内容は悪い意味で太宰らしいとも言えるけれど、あまり好きな話ではありませんでした。
「人魚の海」(「新釈諸国噺」より)★★★★☆
――風も無いのに海が荒れ出し、白波二つにわれて、人魚、かねての物語と同じ姿であらわれ、船に近づき笛の音。おのれ船路のさまたげと、浦奉行金内、半弓を取出し射れば、あやまたず人魚に当る。金内はほどなく帰着し、土産話のついでに、れいの人魚の一件を、ありのままに語る。
西鶴による原典は驚くほど短い。次に収録された「舌切雀」のなかで著者は、書く予定だった「桃太郎」の鬼について、「どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであった。」と記しています。それは本篇にも当てはまり、原典ではほんのわずかだった敵役・百右衛門の性格に、より筆が割かれているため、物語としての完成度と説得力がぐんと増しています。
「舌切雀」(「お伽草紙」より)★★☆☆☆
――この舌切雀の主人公は、日本で一ばん駄目な男である。未だ四十歳にもならぬのだが、まあ、世捨人とでも言うべきものであろうか。しかし、世捨人だって、お金があるから世を捨てられるので、一文無しだったら、捨てようと思ってもとても捨て切れるものではない。
世評は高い『お伽草紙』だけど、何度読んでも好きになれません。こんなのユーモアでも皮肉でも優れた人間観察でもないと思うんだけど……。親父ギャグだし。橋田壽賀子の方がまだしも鋭い。書かれなかった「桃太郎」についての文章は自作解説みたいで面白いし、『お伽草紙』自体も、原話のふくらませ方やテクストの批判的な読み方を学ぶにはためになるのでしょう。
「浦島さん」(「お伽草紙」より)★★★☆☆
――浦島太郎という人は、丹後の水江とかいうところに実在していたようである。れいの問題の亀であるが、亀にもいろいろの種類がある。絵本には時々、浦島さんが、石亀の背に乗っている絵があるようだが、あんな亀は、海へ這入ったとたんに鹹水にむせて頓死するだろう。
「舌切雀」よりぐんと冴えてます。
「創世記――愛ハ惜シミナク奪ウ(抄)」★★★★☆
――海ノ底デネ、青イ袴ハイタ女学生ガ昆布ノ森ノ中、岩ニ腰カケテ考エテイタソウデス、エエ、ホントニ。
何だか本気で頭のおかしい人みたいで怖い。
「断崖の錯覚」★★☆☆☆
――その頃の私は、大作家になりたくて、決心していた。人間としての修行をまずして置かなくてはかなうまい。けれども生れつき臆病な私は、そのような経験をなにひとつ持たなかった。ああ、しかし、そんな内気な臆病者こそ、恐ろしい犯罪者になれるのだった。
故意か偶然か、「bk1怪談大賞」応募者向けの「How to be a 作家」アンソロジーみたいな作品ばかりの気がします。本篇には中二病のワナビーが登場。
「雌に就いて」★★★☆☆
――このような女がいたなら、死なずにすむのだがというような、あこがれの人の彫像をさぐり合っていたのである。客人は二十七八歳の、弱い側女を求めていた。問われるがままに、私も語った。「ちりめんは御免だ」「パジャマかね?」「いっそう御免だ。いや、洗いたての、男の浴衣だ」
また小説についての小説。はじめこそ二人の会話だったのに、途中から地の文なしカギカッコのやり取りだけになって、客人と語り手というよりほとんど脳内妄想みたいになって笑かしてくれます。理想の女の話に託して実は小説を如何に書くかの話でもある。片岡義男の作品にもこんなのがあった記憶がある。わたしはこういうのを読んでもしらけるタイプ。だいたい「あくる日」って何だ。確信犯じゃないか。「自分に就いて」じゃなくて「雌に就いて」だしさ。免罪符にもほどがある。これも創作講座としては面白いが、どうも「怪談にしてしま」い切れなかった様子。
「女人訓戒」★★★☆☆
――辰野隆先生に興味深い文章がある。……ある市に眼科の名医がいた。独創的な研究により、兎の眼を盲目の女に移植する手術を試みたのである。その後、彼女は猟夫を見ると必ず逃げ出したという……。これに就いて考えてみたい。病院にて飼養した家兎は、猟夫を恐怖する筈はない。
これも如何に書くかの小説。辰野隆のエッセイを引いて鋭いコメントを記したのを枕に、自分の書きたい方向に持っていくんだけど、せっかくの枕を活かしきれない下手なホラという感じ。
「待つ」★★★☆☆
――その駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。
こぢんまりとした小品。どういう話になるのかふらふら不安定な語りも納得の結末でした。
「皮膚と心」
「葉桜と魔笛」★★★★☆
――桜が散って、葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。妹は、よほどまえから、いけなかったのでございます。医者も、百日以内、と言いました。「ねえさん、この手紙、いつ来たの?」
こうやって怪談集のなかの一作として読んでみると、なるほど「怪談」や「哀蚊」で用いられていたような創作作法が本篇にも使われているのがわかります。芝居っ気のある台詞と名台詞は紙一重。
「フォスフォレッスセンス」
「メリイクリスマス」
「トカトントン」
「魚服記に就いて」
「古典竜頭蛇尾」★★★★☆
書かれてあるのは「日本文学に就いて、いつわりなき感想」ですが、つぶやきみたいな簡潔な内容なので、まるでアフォリズムのようで、面白いけどはっきりしないところもある。
「音に就いて」★★★★☆
トカトントンとかは抜きにしても、小説のなかの音の効果を語ったものとして、おお、とうならされるところが多い。
「ア、秋」
「むかしの亡者」
「五所川原」
「革財布」
「一つの約束」
「黄英」「竹青」「命取らるる人魚の海」
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