創元のアンソロジーのシリーズ。今回は「ロマンティック」「時間SF」というかなり縛りのきつい作品集。こういうのはちょこっとあるからいいと思うんだけど……。ドがつくほどのロマンチストでないと、まとめて読むのはつらい。
「チャリティのことづて」ウィリアム・M・リー/安野玲訳(A Message from Charity,William M. Lee,1967)★★☆☆☆
――1770年の夏、11歳のチャリティはしばらく高熱に苦しんだ。さて、1956年の夏、チフス菌にやられたのがピーター・ウッドという16歳の少年だった。高熱にうなされているあいだ、二人はある種の共鳴状態にいたったのだ。はじめのうちは心と心でしかやりとりできなかったが……。
冒頭にふさわしい直球勝負。十代のころに読むか、またはうんと年とってから読めば、じんと来るのかもしれませんが、今のわたしには、SFとしても恋愛ものとしてもあまりにも直球すぎる、甘ったるい作品でした。
「むかしをいまに」デーモン・ナイト/浅倉久志訳(Backward, O Time,Damon Knight,1956)★★★☆☆
――生まれてはじめて自宅の敷居をまたぐのは、なんとふしぎですばらしい気分だろう。エミリーの髪はしだいに色艶が濃くなってきた。その年、彼の息子と称する見ず知らずの青年がもどってきた。やがて息子は大学の寮に入り、何年かたつとすっかりかわいらしくなった。
因果律が逆になっている世界に生きる一平凡人の一生。こういうアイデアを実行に移してしまえるところがすごいです。さて「ロマンティック」傑作選に収録されているわけは――。感動的なのか何なのかもよくわかりませんが、確かにびっくり。
「台詞指導」ジャック・フィニイ/中村融訳(Double Take,Jack Finney,1965)★★★★☆
――この役はジェシーには無理だ、とぼくにはわかっていた。役に成りきれていないのは、役を理解していないからだ。若い恋愛なら演じられる。でも、父親ほどの男に恋して、捨てられて胸が張り裂けたことを表現しなくてはならない。撮影の前日、ぼくらは撮影用の古いバスを拝借して、夜のニューヨークに繰り出した。通行人をびっくりさせてやるつもりだった。
うわあ、いくらフィニイといえど、ベタでベタでどうなることかと思ったら、時間の隔たりを隔たりとして突きつけられて、そのあともう一つ別のロマンティックなお話が待っているのが印象的です。
「かえりみれば」ウィルマー・H・シラス/中村融・井上知訳(Backward, Turn Backward,Wilmar H. Shiras,1970)★★★☆☆
――「結局、若いときって一度きりですものね」「そうかしらね?」「ええまあ――普通はそういうことになってますけど」「もしかすると、わたしの場合はちょっと例外かも」ミス・トッキンは言った。
本邦初訳。ミセス・トッキンが経験した二度目の「若いとき」。ちょっとユーモア調のセオリー通りのタイムトラベル物語。
「時のいたみ」バート・K・ファイラー/中村融訳(Backtracked,Birt K. Filer,1968)★★★☆☆
――最初に目に飛びこんできたのは、こちらを見つめるサリーだった。「どうした? 今何時だ?」「あなた、時をさかのぼってきたのよ」
甘いのばかりじゃありません。これはぴりりと痛い作品。
「時が新しかったころ」ロバート・F・ヤング/市田泉訳(When Time Was New,Robert F. Young,1964)★★★★☆
――カーペンターは恐竜には驚かなかったが、木の枝に腰かけた二人の子どもには驚いた。いったいこの二人は白亜紀後期に何をやっているんだ! 調査しようとしている、時代錯誤な化石と関わりがあるのかもしれない。
本邦初訳。フィニイともどもこのテーマには欠かせない作家です。ということはつまり大甘なんですが、火星人を登場させているために、定番の結末なのにそこが盲点になっていて、お見事でした。
「時の娘」チャールズ・L・ハーネス/浅倉久志訳(Child by Chronos,Charles L. Harness,1953)★★★☆☆
――重要な社会的進展に関する母の予測は、不気味なほど的中しました。わたしは母を憎んでいました。母の持ちものをかたっぱしから奪おうとしました。
タイムパラドックスをとことん極めた一作。ここまで来るとロマンティックというより、いい意味でばかみたいで、脳内で勝手にドタバタ調に変換して読みました。
「出会いのとき巡りて」C・L・ムーア/安野玲訳(Tryst in Time,C. L. Moore,1936)
本邦初訳。『シャンブロウ』が苦手だったので読むのはパスしました。
「インキーに詫びる」ロバート・M・グリーン・ジュニア/中村融訳(Apology to Inky,Robert M. Green Jr.,1966)★★★★★
――ともあれ母親の家に同居しているモイラに電話をかけた。機関車の前にはタイアがパンクしたA型フォードが駐まっている。インキーを殺したやつ。ざまあ見ろだ。いや。いまはA型なんか駐まっていない。自転車一台駐めても渋滞するだろう。
この作品で描かれる時間移動は、〈タイムトラベル〉というよりも「デス博士の島その他の物語」を連想しました。飛び出してきたのは書物のなかからではなく、過去や未来からですが。幼いころの罪に苦しめられているらしい主人公の前に、かつての光景が現れたかと思えば、かつての少年の前にも現在や未来の姿が現れたり、どの時間が本当の時間というでもなくゆるやかに絡み合っています。
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