『貴婦人として死す』カーター・ディクスン/小倉多加志訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★★★

 『She Died A Lady』Carter Dickson,1943年。

 謎自体はものすごく単純で、行きだけで帰りのない崖の上の二つの足跡。クラフト警視が作中で疑るように、何らかのからくりがあるとしたらどう考えても第一発見者が怪しい状況です。

 しかも第一発見者のリューク医師には動機がある――不名誉な心中ではなく貴婦人として死んだことにしてやりたいという動機が――。

 「密室だから自殺である」という状況が、心理的な理由によって「自殺なわけがない」から「殺人である」ゆえに「不可能犯罪である」――カーでいうと『爬虫類館の殺人』の「彼がペイシェンスを殺すはずがない」とか、あるいはクリスティあたりによくありそうな、こういうぎりぎりの疑いってぞくぞくして好きですねぇ。単なるパズルじゃなくって、妄念に近いような執心が感じられて。

 一見ただの心中。ところが遠く離れた場所で見つかった拳銃。それも語り手が嘘をついていると考えれば謎でも何でもなくなってしまう。ところが自殺などするはずがない新証拠の発見。単純な謎なのに、説明しようとするとできそうでできない複雑さ。

 事件の背景について○○だと見えていたものが見方を変えると実は××だった、という伏線が鮮やかに決まっている作品です。何も知らない語り手の手記という形を取っているだけにいっそう効果的で、事件が起きる直前の記録を読み返してみると舌を巻くしかありません。

 犯人特定の単純にして見事な消去法も鮮やかでした。伏線どころかわざとらしいほどあからさまに書かれているうえに、真相がわかってしまえば「ほかの人間にはできない」理由も何度も繰り返し書かれていたことに気づいて唖然とさせられました。

 実を言うと、トリックに嵌っていた中学くらいのころに読んだときには、あまり面白いとは思わなかった記憶があります。物理的トリック中心に読んだら、リューク医師の推理のあとにH・Mの説明があるのって無駄なんだもの。でも読み返してみると、これは「犯人隠し」という点でものすごいアクロバティックなことやっているのが印象的でした。そのための手記形式でもあったんですね(というかこっちがメインでしょうが)。

 地味ですが完成度は高いです。地味であるがゆえに、登場人物が不必要にいちゃついたり、ベルという登場人物が陽気すぎて浮いていたりするところが気になりますが、*注意*ここからネタバレ気味?読み終えてみればこれも「犯人隠し」にかかわっていたことにびっくりです。*注意おわり*

 H・Mがあり得ない恰好で移動車椅子を乗り回して笑かしてくれます。

 絶壁へと続く二筋の足跡は、リタとサリヴァンのものに違いなかった。70フィート下には白い波頭が果しなく押寄せ、生臭い海の香が吹きつけてくる……。リタは老数学教授の若き妻、サリヴァンは将来を嘱望された美貌の俳優だった。いつしか人目を忍ぶ仲となった二人の背徳の情熱は燃えた。破滅がくることはわかっていたはずだったが、しかし……心中するような二人ではなかったのに? 果然、二日後発見された二人の死体には無惨にも銃痕が! 一見ありふれた心中事件の裏には、H・M卿にも匙を投げかけさせた根深い謎が秘められていた!(カバー裏あらすじより)
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