『さくらさねさし』水原紫苑(角川書店)

 第八歌集。角川書店が創立60周年記念で〈角川短歌叢書〉というシリーズを出しているらしい。紫の布装が嬉しい。これまでにも増してむずかしい。

 巻頭の「たまかぎる」はおそらく(というかまず間違いなく)春日井健に捧げる歌なのでしょう。「死して少年となりたまふ師よ」。挽歌でありながら「ほのかに恋は始まらむ」淡い初恋の歌でもあります。肉体は去って、瑞々しい魂だけが。
 

朝顔の襞の奥処に道在りてかなしもひかり届かば消えむ」さっそく幻想的なのが一首。この「かなし」は「あはれ」のような意味でしょうか。
 

「ちはやぶるギリシアの祭典」とはもちろんオリンピック。この枕詞のかかり方はインパクトがありました。
 

「恋知らに遠山鳥のしだり尾のながながし夜を死ぬる夢見む」。「恋知らに」は「恋しくて」の意。人麻呂の歌が何てのどかに思えることか。
 

「都鳥白をいのちとかがやけばわが想ふひと直面に在れ」。難しいといってもわたしの無知ゆえに難しく、この歌のように調べればわかるものもある。

 狂女が我が子を探す能「隅田川」(業平の「わが思ふ人はありやなしやと」)を踏まえているようです。もはや「ありやなしや」という問いかけではなく「在れ」。「直面」とは能で面をつけないこと、すなわち幽霊(の役)などではなく現実の人間(の役)であること。能「隅田川」では我が子はすでに死んでいます。だからこの歌は、生きていてほしいという思い。「わが」と言っているからにはこの歌を詠んでいるのは作中の狂女でしかあり得ません。にもかかわらず、「直面」という言葉は能作品の外からこの作品を見なければ使えるはずもなく、作中の人物が使うはずの言葉ではあり得ません。このねじれは水原短歌の特徴でもありますが、あの世とこの世が交流する能という装置を利用して、作中と作外も交流しはじめたかのようです。
 

 「金春禅竹に寄す」は能がらみなのでよくわからない。

 「ははそは」は、おそらく亡くなる前の母親の歌。かなりリアルな歌が収められています。「ICUに母を訪ぬるマフラーのからくれなゐをひたにたのめり」「はかりがたきいのちの力りんりんと母の目ひらき時を問ふなり」「時計、眼鏡、櫛を求むるははそはのいのちのはなびらひらきゆく順」など、実際にこういう情景があったのではないか、と思うほどに目に浮かびます。

 幻想や耽美という点からは、やはり「快楽」と題された章に惹かれます。「今しひとつの罪犯さむとするわれにはげしく美し古代エジプト」「如何ならん罪犯すとも原罪に及びがたきかこのうつそみは」
 

「三日月の鉤ゆ垂りたるしろがねの紐もて首を吊る快楽はや」。途中まで読んだだけなら、三日月から紐をぶら下げてブランコをしているようなメルヘンチックな情景すら目に浮かべられそうですが、不意に舵は切られ禍々しい魅力が爆発します。師と母の死を経験し、やはりそれがかなり影響を与えたのでしょうか、この歌のように途中から無理矢理ネガティブな方に首を振ったような、いびつにも見える発想や本歌取りが散見されるように感じられました。
 

「夏のあした道といふ道きんいろのリボンとならば巻く手かなしも」
 

「夏袴黒く透きつつ魔のひとりあゆみ来たればシャンデリアわらふ」。現実に即して考えるならば、「シャンデリアわらふ」とはシャンデリアの光が揺らめいたりちらついたりしている状態を指すのでしょう。たとえば魔のように美しい、弓道家か誰かが一人歩いて来た……とそこまで考えて気づいたのですが、袴姿の人間がシャンデリアの下にいること自体がかなり非現実的で、いっそ本物の魔の方が納得できようと言うものです。
 

「ショコラ呉るるひとみな幸くいませとぞ祈り口中にサタンを招く」
 

「わくらばを清きにかへす光在れ八月の天に言葉満ちたり」。言うまでもなく「清きにかへす光在れ」と区切るのが正しいのでしょうし、「言葉」とは文字どおり「葉」でもあるのでしょうが、「光在れ」から「光あれ」という創世記の言葉を連想してしまい、そうなると「言葉満ちたり」からもヨハネ福音書の「初めに言葉ありき」に連想が働き、なんだか歌全体に神があふれています。
 

 その他お気に入りの歌。

「わが犬のさくらみだれて乱菊となる日のあらばわれも狐よ」「太陽がおのれの挽歌うたふころつたなき乳房はばたかむとす」「木枯らしは硝子を打ちて去りゆきぬ追はむと流れいでたるピアノ」。「朝鳥」のここらへんの歌は、昔の水原紫苑みたいで懐かしい。
 

「巻貝のしづけく歩む森に入りただひとりなる合唱をせり」「髪解きて月は坐るをほほゑみの影すらなくて直ぐなる梢よ」「靴脱ぎて死に向かふ神遠く見つわれはわれにて夏さへ知らず」「垣間見し地獄に在りし一脚の籐椅子たれも坐らざりしを」「くちびるに迫る夕日のつめたさを海に告げたり海はわらふも」「波打ち際より指揮者あらはれわたくしのピアニシモ弱し弱しと叫ぶ」「リストカットしたまふ観音ほほゑみのいや深ければただにおそるる」
 

「やまに海、夏にさくらのひしひしと寄り来る気配、母な忘れそ」「原爆忌オバマ来たらず桔梗の紫のみの虹を見るかな」「マッチ擦る恐怖は今もわれに在り原初にいのち無かりし者か」「犬老ゆるあはれはをみな老ゆるより艶なるものを〈煩悩の犬〉」「罪びとの花火青しと見るうちに夜空全き花火となれり」
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  『さくらさねさし』
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