「運命のボタン」伊藤典夫訳(Button, Button,1970)★★★★☆
――ボタンをお押しになりますと、世界のどこかで、あなたがたのご存じない方が死ぬことになります。その見返りとして、あなたがたには五万ドルが支払われます。
小さな木箱に押しボタンが取り付けられ「ガラスのドームがボタンにかぶせてある」という、ベタな外観に時代が感じられますね。映画版ではどう表現されているのか楽しみ――と思ったら、帯のスチールを見ると原作そのまんまでした。。。王道のパターンをレトリックでカムフラージュして最後まで読者に気づかせないと同時に意外なオチにもなっているところが見事です。見知らぬ人の死を詭弁で正当化しようとする奥さんが、怖いというより実在するオバタリアンっぽくて嫌らしさ倍増。
「針」(Needle in the Heart,1969)★★★★☆
――四月二十三日、ようやく、テレーゼをやっつける方法を見つけたわ! ようやくあのいやらしい傲慢な女にとどめを刺してやれる! 不意にひらめいたんです。ヴードゥーの秘術を使って、テレーゼを始末できる、と。
運命の二十七日の結果に「おや?」と思わせておいて、なるほどこういうパターンもあるんですね。「運命のボタン」といい、さすがよく思いつくものだと感心しきりです。
「魔女戦線」(Witch War,1951)★★★★★
――P・G・センター。少女たち。七人の。美しい者たち。将校が説明をはじめる。「敵が二マイル先にいる」「車はいるの?」「ああ、戦車が二台だ」「じゃ、ちょろいものね」細い指で髪をいじりながら、少女が笑った。……兵士たちが高台に来たとき、炎が彼らをつつみこんだ。
幼児性と残虐性を持つミュータントというのは今や確立された型の一つですが、その型を取り繕うことなくむき出しのまま描ききった作品です。『悪童日記』の名を出すのは過分なうえに場違いか、な。こういうのを、CGばりばりの安っぽい映像じゃなくて、ほんとうにかっこよく映像化してもらえたらいいのに。さて魔女なのかミュータントなのか。
「わらが匂う」(Wet Straw,1953)★★★☆☆
――異変が起きたのは、妻が亡くなって数か月たったころだった。照明を消し、窓をひらく。毛布を頭までかぶって目をとじる。しかし、すぐに目をあけた。毛布のなかだというのに、かすかな微風が頬をなで、濡れたわらのような匂いが鼻をついたからだ。
感覚的に納屋の濡れた藁や雨に対する強迫観念がピンと来ないので、ショッキングな結末を除けば、全体として置いてけぼりをくらってしまったような読後感だけが残ってしまいました。ネズミと言われればぞっとするのだから現金なものですが。
「チャンネル・ゼロ」(Through Channels,1951)★★★★☆
――カチャ。ヴーン、ヴーン。準備はできたか? 完了。ヴーン。名前を教えてくれないか。ぼくの名前? そうだよ。ヴーン。レ、レオ。少し休憩しよう。了解。カチャ。……カチャ。よし、坊や、落ち着いたかな。うん。昨日の夜、ご両親はテレビを見ていたんだね? うん。家に帰ったとき、おかしなことはなかったかい? その……変な臭いがしてたんだ。
ああ、なるほど。テレビのうなりと録音機のうなり、テレビのスイッチと録音機のスイッチと照明のスイッチの音が二重三重写しに表現されているんですね。そう考えると、描かれている怪異以上に怖い作品です。テレビに限らず機械がすべて信用できなくなりそうな、機械音のバックコーラスが頭に染みついてしまいそうです。そもそも作品の語りが録音機を再生したものなのですから、作品全体が機械に支配されているとも言えるかもしれません。最後の「カチャ。」に、意味以上の深読みをしてしまい、とんでもなく怖くなりました。
「戸口に立つ少女」(Little Girl Knocking on My Door,2004)★★★☆☆
――わたしがコンロのそばに立っていると、ドアにノックの音が聞こえました。ドアの向こうにいたのは、少女が一人。白い絹のドレス姿です。長く黒い髪をしていました。「ねえ、おばちゃま。おばちゃまの家の子と遊んでいいですか?」「いいわ。明日いらっしゃい」わざわざ招いてしまったのです。ああ、“死”とはこんなふうに些細なことから忍び寄ってくるのです。
平和な家庭に不穏な存在が忍び込むという表面上は「子犬」と同趣向の作品。もっとも、家族が内側から蝕まれてゆく「子犬」と比べると、こちらは少女に悪意があるのが歴然としているため、(変な話ですが)安心して恐怖に身を委ねられますね。(ニューロティックとオカルティックならオカルトの方が好きなわたしの好みの問題に過ぎませんが)。語り手の私見とはいえ、最後に少女の正体が明らかになるのは余計に感じました。黒魔術めいた砂場遊びが不気味です。
「ショック・ウェーヴ」(Shock Wave,1963)★★★☆☆
――「いままで順調に動いていたのに。処分されようとしていることに、あの子も気づいているのかもしれません」「なぜ、そのように取り乱しているのだね? ただの、オルガンではないか」
音によるカタストロフのかっこよさ。それに尽きます。だけどそれだけでは小説にならないので、演奏者の不安とシンクロしながら不穏な空気が盛り上がってゆくわけですが……その分だけ平凡になってしまいました。
「帰還」(Return,1951)★★★★☆
――「もう行かないって言ったのに。五百年後に旅立つんでしょ!」妻のメアリーが言う。「これは、ぼくの仕事なんだ。夕食時には帰るよ」ウェイドは時間転位機の扉を閉め、金具を固定した。メアリーの写真を見ようとして、財布がデッキに落ちてしまった。ウェイドはストラップをはずし、財布を拾った。急に球体が振動しはじめる。闇がどっと押し寄せ、なにもわからなくなった。
五百年後の未来では、死者の意識を甦らせることに成功したが肉体には短時間しか定着させることができない。そんな設定をうまく活かしたタイムトラベルもの。
「死の部屋のなかで」(Dying Room Only,1953)★★★★★
――砂漠の手前で休憩をとったほうがいいかもしれない。ボブとジーンは安レストランで車を降りた。「お手洗いにいってくるわ」とジーンが言う。ほどなくして、ボブも洗面所に向かった。ドアノブに手をかけると、食事をしていた男が声をかけた。「そこは鍵がかかっているぜ、旦那」ボブはドアを押してみた。「いいや、あいているようだ」と答えて、なかに入った。ジーンが洗面所から出てくると、ボブがいない。
立ち寄った先で理由も正体もわからない存在に襲われる――そんな殺人鬼ホラーものを思わせる、肺が苦しくなるような恐怖がたまりません。無理にこういう結末にするために、破綻しているような気もするのですが、まあいいでしょう。
「子犬」(The Puppy,2004)★★★☆☆
――「デイヴィーに犬を飼わせたくないの。とても神経が細いでしょ」「あなたがそんなだと、あの子は自分の影にも怯えることになるわよ」サラがデイヴィーを連れて家に帰ると、キッチンから物音が聞こえた。電灯をつけると、白い子犬が尻尾を激しく振っていた。
神経の弱い反抗期の子どもと、子離れできない心配性の母親のあいだに起こった衝突と愁嘆が、何をしても離れずにつきまとう子犬の姿を取って現れます。
「四角い墓場」(Steel,1956)★★★☆☆
――「ケリー、わかっているはずだ。こいつはポンコツなんだよ」「いいや。まだ現役だ。試合が終われば五百ドルのギャラを払ってもらえる。それで潤滑油を調達するさ」人間同士の試合が禁止されるまでは、ケリーもこの手で闘っていたボクサーだった。
ロボットの振りして人間がロボットと闘うなんて、いくら何でもあり得ないんだけれど、熱い思いが上回ってしまってます。スポ根SF。
「声なき叫び」(Mute,1962)★★★☆☆
――ニールセンの家が火事だぞ! 家に入ることは無理だった。生存者はいないだろうと思われたが、少年が丘の下から見つかった。ウィーラー保安官は少年を家に連れ帰った。その夜、保安官夫妻は少年が話すことができないのに気づいた。
言葉よりも可能性を秘めたテレパシー能力を引き出されているがゆえに、言葉に対して過敏になっている少年。田舎が舞台になっているために、田舎ゆえの無理解で親切なおせっかいにさらされてしまいますが、最後に至ってそれが活かされることになります。
「二万フィートの悲劇」(Nightmare at 20,000 Feet,1961)★★★☆☆
――翼の先端でライトが点滅し、エンジンカバーから凄まじい光が吹き出ていた。吐き気が急に襲ってくる。なんてことだ。稲妻がはしり、翼の上に人間がいるのがわかった。
グレムリンとの戦いよりもむしろ妄執との戦いがメインになっているのが面白い――というより、ぼろぼろの神経が見せた妄執がグレムリンという形を取っているのでしょうが、怪物の姿を実際に読者に見せずに済むというのは小説の強みですね、怪物が実際にいるかどうかにかかわらず読んでいる側にもパニック感がひしひしと伝わってきますから。
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