『心洗われる話 ちくま文学の森2』(筑摩書房)★★★☆☆

 文庫化を機に、積ん読を消化。『1 美しい恋の物語』は既読なので『2』から。基本的に美談は鼻で笑うタイプなので、あまり楽しめなかった。
 

「少年の日」佐藤春夫 ★★★☆☆
 ――野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも。

 なぜか「君は夜な夜な毛糸編む」のを知っていたり、編んでいるのが「ラムプ敷き」だということを考えると、少年少女ではなく少年と母親の歌? 「君をはなれて」というのは親元を離れているのかな。
 

「蜜柑」芥川龍之介 ★★★★☆
 ――ある冬の夕暮れである。発車の笛が鳴った。十三、四の小娘が慌しく中へはいって来た。手には三等の切符が大事そうに握られていた。幾分か過ぎた後であった。小娘がしきりに窓を開けようとしている。汽車が今まさに隧道の口へさしかかろうとしているのはすぐに合点の行くことである。にもかかわらずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする。

 あざといようなお涙頂戴に見えて実は、少女が貧しくなければこの行動自体が成り立たない話なんですよね。お嬢様の思いつき、では話にならない。
 

碁石を呑んだ八っちゃん」有島武郎 ★☆☆☆☆
 ――八っちゃんが黒い石も白い石もみんなひとりで両手でとって、股の下に入れてしまおうとするから、僕は怒ってやったんだ。

 著者が子どもの一人称にまったく気を遣っていないので、ただのこまっしゃくれた話でした。
 

「ファーブルとデュルイ」ルグロ/平野威馬雄(La vie de J.‐H. Fabre naturaliste,Legros)★★★★☆
 ――ある日、私は中学で視学官の訪問をうけた。「きみに財産はあるのかね?」「給料だけです」「それは残念なことだ。きみの博物学年報の論文を読みました。きみは観察精神をもっている。だが大学の教授になるには財産がいるのだ……」

 ファーブルとデュルイに関する記述を、ファーブルの弟子が昆虫記から抜粋してまとめたもの。昆虫記ってこんな抜け作のおもしろ紀行エッセイみたいな話だったんですね。
 

「最後の一葉」O・ヘンリー/大津栄一郎(The Last Leaf,O Henry)★★☆☆☆
 ――「最後の一枚が落ちると、私もさようならするにちがいないわ」

 改めて読んでみるとひどい。見られるところは、肺炎の流行というのがジョンシーだけでなく最後のベールマンさんの伏線にもなっているところぐらい。
 

「芝浜」桂三木助 ★★★★☆
 ――お前さん、魚河岸ィ行ってくれないと……というんで、浜をあっちへぶらぶらこっちへぶらぶら、一服吸って上手へ叩き、その落ちた先に何かを見つけ、たぶりよせると、なんでえ、汚ねえ財布だなァ。豪え目方だなァ、砂が入っちまやがったんだな。と覗き込んで中身を認めると、おッ嬶ァ、金拾ってきたい、おッ嬶ァ。

 人情噺の古典。同じ仕事をしないのでもただぶらぶらしているのではなく、酒をかっくらって仕事をしないという設定が、財布を拾ったことを酔っぱらって夢だと思ってしまう展開にちゃんと活かされていて、それがまたしっかりサゲにもなってます。どうしてもしっかり者のおかみさんの印象が強いのですが、実は旦那さんのこういう人柄あっての噺なんですよね。
 

「貧の意地」太宰治(『新釈諸国噺』より)★☆☆☆☆
 ――これはお金ではございません。これ、この包紙にちゃんと書いてあります。貧病の妙薬、金用丸、よろずによし、と。

 太宰の新釈シリーズは大嫌い。書いてる手つきが透けて見える(見せている)のが嫌です。ラーメンズの笑いみたいな。プロなら隠せよ、と。
 

「聖水授与者」モーパッサン河盛好蔵(Le donneur d'eau bénite,Guy de Maupassant)★★★☆☆
 ――彼らは授かった子供に、ジャンと名づけた。子供が五つになったとき、軽業師の一行が流れて来た。三日後、子供がいないことに気がついた。「ジャン!」子供は二度とは見つからなかった。失くした娘さんにパリでめぐりあった人がいるという話を聞いて、パリを指して歩き始めた。

 見覚えはあるのに思い出せない、というのも、幼かった子どもの面影に気づくのではなく、若いころの自分に似ていることに気づくというのが、ちょっとリアルかもしれない。逆にあざといのかな。わたしはこういう発想の転換って好きですが。そして何よりも結びの一文です。
 

「聖母の曲芸師」アナトール・フランス堀口大學(Le jongleur de Notre-Dame,Anatole France)★★★★☆
 ――ルイ王のフランスに、バルナベという曲芸師があった。あるとき坊さんが、曲芸師の素直なのに感動して、僧院を紹介してやった。僧侶たちは競うて聖母マリヤに対する信仰に熱中していた。だがバルナベには説教も論文も画も彫刻も詩もつくれなかった。

 おお何だこりゃ。小説を読んでいると思っていたらいきなり戯曲になったようなびっくりするような切れ味。芝居がかった振る舞いをさせることで、かえってわざとらしさがなくなっています。神々しいほどにかっこいい。
 

「盲目のジェロニモとその兄」/山本有三(Der blinde Geronimo und sein Bruder,Arthur Schnitzler,1900)

 ポプラ社の『諸国物語』で既読なのでパス。
 

「獅子の皮」モーム/田中西二郎訳(The Lion's Skin,Somerset Maugham)★★★★☆
 ――フォレスティヤ大尉が森火事で、妻の愛犬を救おうとして焼死したという新聞記事を読んで、多くの人々はショックを受けた。大尉がエリーノアの看護を受けることになったのは戦争の最後の年で、休戦になるとふたりは結婚した。エリーノアの考えでは、夫は国家のために生命を的に働いてきたのだから、今さら働くことはないと思ったが、親戚の人たちは亭主を遊ばせておくことに反対したし、大尉自身も心からそれを望んだ。

 最初っから最後まで皮肉で面白い話ではありますが、このアンソロジーに収録されているのにはちょっと違和感があります。大尉が獅子の皮をかぶっているだけでなく、奥さんの方もちょっととぼけた人で何でもかんでもいい方に解釈してしまうのが笑いを誘います。最後の言葉は、いつもは軽薄な隣人ハーディの言葉だからこそ、重みがありますね。遺された人に対する言葉としてはあれ以外にはないわけですが。
 

「闇の絵巻」梶井基次郎 ★★★★☆
 ――有名な強盗が語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることが出来るという。闇! そのなかではわれわれは何も見ることも出来ない。

 梶井基次郎はよくわかりません。繊細、と言われるけれど、檸檬爆弾や猫の耳や、本作で触れられた闇と一本の棒のように、繊細さよりもむしろ、挿話のインパクトの方が記憶に残っています。が、ここに描かれた闇の不安と安心はよくわかります。
 

「三つ星の頃」野尻抱影 ★★★☆☆
 ――「御礼の申しようもございませんじゃ」父は声を弾ませていた。(それじゃ僕は癒るんだ)俊輔はそう思った。「あ」看護婦が閉め忘れたか、鎧戸が開いて、深夜の空が覗いていた。その空に三つ星がきらきら輝いていた。

 最後の一葉なんて取ってつけたものではなく、毎年消えては現れる季節の星というのであれば、その不安と諦めにも納得がいきます。そこに自分の命ではなく、義妹の思い出を重ねたところが単純じゃなくていい。
 

「島守」中勘助 ☆☆☆☆☆
 ――これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この島守の無事であることを湖のかなたの人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。

 パス。
 

「母を恋うる記」谷崎潤一郎 ★★★★☆
 ――私は七つか八つの子供であったし、おまけに幼い時分から極めて臆病な少年であったから、こんな夜更けにこんな淋しい田舎路を独りで歩くのは随分心細かった。「ああお母さんは大好きな秋刀魚を焼いているんだな。きっとそうに違いない」

 明らかに実体のなさそうな語り手が、現実感のない世界をふらふらと旅します。すでに現実の母というよりすべての年上の女に母の像が重ねられ、何をなくしたのかも思い出せないような、このなくしものの感覚が寂しく切ない。「天ぷら喰いたい」の三味線の音のリフレインが胸を打ちます。
 

「二十六夜宮沢賢治 ★★★☆☆
 ――その時に疾翔大力、爾迦夷《るかい》に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善くこれを思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。爾迦夷、すなわち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、おもむろに座に復し、拝跪してただ願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我等がために、これを説きたまえ。

 梟の坊主の説教がやたらとかっこいい仏教譚。
 

「洟をたらした神」吉野せい ★★☆☆☆
 ――ノボルはかぞえ年六つの男の子である。墾したばかりの薄地に繙かれた作物の種が芽生えて、ぎしぎしと短い節々の成長を命がけで続けるだけに、肥沃な地に育つもののふさふさした柔根とはちがう、むしりとれない芯を持つ荒根を備える。

 ところどころ日本語がおかしい。語り手の無教養がうまく表現されているのか、作者の地なのかわかりません。「研究された運動の統一された安定」など、頭の悪い人が必死で難しいことを言おうとしている様子が感じられて絶妙です。
 

たけくらべ樋口一葉 ★★★★☆
 ――龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、春季の大運動会とて水の谷の原にせし事ありしが、信如いかにしたるか平常の沈着に似ず、松が根につまづきて手をつきたれば、居あわせたる美登利みかねて絹はんけちを取出し、介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬や見つけて、取沙汰しける。

 遊女と僧侶の幼き日の。
 

瞼の母長谷川伸 ★★☆☆☆
 ――半次郎:これが堅気なら逃げ隠れもしよう、だがヤクザ渡世の泥沼へ、足を入れた男としては、やつらと白刃をブッつけなくちゃ、男じゃあねえと人にいわれる。

 自分大好き系の人の話。
 

土佐源氏宮本常一 ★★★☆☆
 ――そのころわるいことをおぼえてのう。雨の日にはあそぶところがない。子守はときにまえをはだけて、×××をくらべあわせたり、そこへ指を入れてキャアキャアさわぐ。おまえのも出せちうて、わしのも出させておもしろがっていろいよる。

 民俗学の古典『忘れられた日本人』より。何がどう「心洗われる話」なのかわかりません。
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