『定本久生十蘭全集 第八巻』久生十蘭(国書刊行会)

 この巻には、三一版全集をはじめとしたこれまでの作品集に収録された作品が多く、未収録作の多くもプロトタイプや変奏作だったりするので、あまりお得感がない。
 

「無月物語」()★★★★☆
 ――後白河法皇院政中、めずらしい死罪が行なわれた。死刑そのものがめずらしいばかりでなく、死刑される当の人は中納言藤原泰文の妻の公子と末娘の花世姫、どちらも美しい女性だったので、人の心に忘れられぬ思い出を残したのである。いまの言葉でいえば、二人の罪は尊属殺の共同正犯というところである。

 架空の史料をもとにした真説、の形を取る。だから自明のこと(とされていること)については書かれません。もっともらしく始まり、すぱっと幕。なぜ、と問うことすら拒否しているかのような文体。悪漢にして自由奔放・奇人に類する男として描いたピカレスク
 

「新西遊記()★★★★☆
 ――山口智海という学侶が西蔵へ行って西蔵訳の大蔵経をとって来ようと思いたち、カルカッタに向った。とりあえず西蔵語学者に逢って入蔵の方法をたずね、できたら紹介状のようなものでも貰おうと考えていたのである。

 外国人立入禁止だった西蔵チベット》に、明治時代に経典を入手しに行った男の物語。チベットの拷問のことやら何やらが長々と紹介され、智海がやろうとしていることがどれだけ命がけのことであるかが説かれ、実際に命を賭けることになってしまった顛末が語られます。しかも賭けには……。
 

『十字街』()★★★★★
 ――電車がとまると、山高帽を阿弥陀かぶりにした三人連れの酔漢がよろけこんできた。それにしても真ん中の一人は身体がしゃっきりしているのに首だけがクニャクニャ動く。それが合点がいかない。よく見てみると、上着の裾から手を入れて、死人の首を操っていたわけ。酔っぱらいに見せかけて死体を運んでいる……なんのために? 小田は電車からよろけ降りると、ひと時、ホームのベンチでぐったりとしていた。

 スタヴィスキー事件に巻き込まれた日本人たちが、運命に転がされてゆきます。汚職の火消しに腐心する政府に対する不信から国全体がファッショに走りかねない情勢を回避するため、国民のガス抜きとして真相を暴露しようとする一派の努力もむなしく、政治家たちの自己保身から事件は揉み消され、やがて暴動に発展してゆく様子が怖いくらいに描かれていて、歴史に材を取った長篇久生作品のなかでも一、二を争う傑作です。
 

「信乃と浜路」()★★★☆☆

 三一版未収録。「新版八犬伝」の語り直し。
 

「姦」()★★★☆☆
 ――いつお帰りになって? ……昨夜? ちょいと咲子さん、昨日、大阪から志貴子がやってきたの。しっかりしないと、たいへんよ……志貴子の追悼会をやったあとのことを考えたら、厚顔しく東京へなど出てこられる顔はないはずなのに……あんな大嘘をついた手前、木津さんに合わせる顔がないわ。……

 女性の電話の語りだけで構成された作品。世評の高いその技巧に期待していただけにちょっとがっかり。当たり前だけれど、ふつう人はこんなふうに電話ではしゃべらない。その点に関してはごく普通の一人芝居の台詞劇です。事態が少しずつ小出しに明らかになってゆくのは一人語りならでは。さらっとしたユーモア作品です。
 

「白雪姫」()★★★☆☆
 ――ある夏、阿曽という男が新婚匆々アルプスへ煙霞の旅としゃれたのはよかったが、新妻が質のわるい濡れ雪を踏みそくなって、底知れぬ氷河の割目に嚥みこまれてしまった。

 ガイドなしでは無謀な雪山に、少なからずうとましく思っていた妻と二人きりで繰り出した結果、妻だけがクレバスに落っこちてしまいます。事故か他殺か、というような話ではありません。そういう視点では書かれていないし、「すこし懲りさせたほうがいいくらいの気はあったが」まさか殺そうとは思っていない、という夫自身の心情が三人称ではっきり書かれているし。
 

「プランス事件」()★★★☆☆

 三一版未収録。『十字街』と同じ事件を扱った作品、というよりも、この短篇がのちに単行本版『十字街』に組み込まれたとかいうことらしい。
 

「南極記」()★★★☆☆
 ――何者とも正体の知れぬ、補捉しがたい、意図不明瞭な日本の南極探検のことは、バード大佐も、当時、新聞を読んで知っていた。「あの連中の仕業だ」……竹竿の上で日本の国旗がひるがえっていた。

 南極探検についての記録文学および「○○な日本人がいた」シリーズ。
 

「玉取物語」()★★★☆☆
 ――西国のさる殿様のことである。右の方のふぐり玉が俄に痒くなり、御側医者が拝見いたすところ、軍鶏の卵ほどの大きさになって股間にのさばっているのに仰天した。

 この巻には架空の古典に取材したという形を取った作品が多い。
 

「鈴木主水」()
 

「泡沫の記」()★★★☆☆
 ――博士は王を追って浅瀬へ入りこむ。服の後身が裂けるほどの格闘があり、それでも終らずに揉みあった。疑問に思うのは、それほどの争いをしながら、王も博士も叫び声ひとつたてなかったというそのことである。王の側には自殺にたいする強烈な欲求があった。

 狂王ルートヴィヒ二世についての記録文学
 

「ゴロン刑事部長の回想録」()★★★☆☆
 ――ルネ・ゴロンは陰退するまでの二十六年の間に、フランスに起った大きな事件をほとんどみな手懸けている。その回想録から、ゴロンが「変装殺人」といっている、三つの事件のお話をしようと思う。

 フランスの犯罪実録もの数篇。従来は「悪の花束」のタイトルで知られていた作品。
 

「うすゆき抄」()★★★☆☆
 ――仮名草紙や浄瑠璃は慶長三年の「うすゆきものがたり」を粉本にしている。これは一対の男女の上に、両親の反対や、政治的な策謀や、行きすぎた友情や、偽りの恋や、ありとあらゆる妨害が山と積みかさなる。

 これも偽書を隠れ蓑に別のネタを換骨奪胎した真説再話。風魔とかが出てくる。
 

「重吉漂流記聞」()★★★☆☆
 ――七日になっても風がやまない。船底に水が入り、梁まで届くようになった。そのまま正月もすぎ、二月も送り、三月の末になると、誰彼なくいちように身体が腫れてきた。

 漂流もの。最後の方でちょこっと高田屋嘉平衛の話とリンクする。助かって気が抜けた一行に活を入れるところがいかにも侍。
 

「死亡通知」()★★★★☆

 三一版未収録。『氷の園』や「水草」の語り直し。
 

「海難記」()★★★☆☆
 ――ルイ十八世復古政府の第三年、仏領西亜弗利加の海岸で、過去にもなく、将来にもあろうとも思えぬ惨憺たる海難事件が起った。

 メデューズ号事件もの。愚かな人間を描かせると筆が冴える。
 

「藤九郎の島」()★★★☆☆
 ――せっかく島根に漂い着いたが、おそろしげな焼け島で、草木のアヤもみえない。粮米も残りすくなになったし、船もこんな壊れかただ。思いきって島にあがるほうがいいと思う――。これが二十一年という長い滞在のはじまりになろうとは、誰一人知るよしもなかった。

 ほかの漂流ものとは違い、島に流れ着くのが十蘭にしては珍しい。潮の流れがそうなっているらしく、「十五少年」ならぬ、入れ替わり立ち替わりおっさんばかり何十人もやって来ます。
 

「美国横断鉄路」()

 三一版未収録。「新残酷物語」のブラッシュアップ。
 

「雪原敗走記」()

 三一版未収録。ナポレオンのロシア遠征
 

「幻の軍艦未だ応答なし」()

 三一版未収録。
 

『愛情会議』()★★★★★
 ――春雨の降る暗い日曜日、渋谷の奥にあるバラックの玄関の土間に、接収解除通知のハガキが、音もなく投げこまれた。どういう因縁でか、月々、百ドルという『アメリカの家賃』をもらいながら、物価の安い、三間きりのバラックに住み、体面をつくろうことのいらぬ庶民生活の気楽さを執りいれていたのだった。

 三一版では『我が家の楽園』というタイトルでした。戦後アメリカに接収されていた自宅が戻ってきた家族のすったもんだ。シッカリものの母親と頭の捩子の緩んだ長女の好き勝手な企みに、惨めったらしいお父さんがしょーもない抵抗を試みたりする日々が、おしゃまな次女の視点で綴られています。長女の一言「パパ、国旗を出したいよの。身もだえするほど、アメリカの国旗をだしたいの」。
 

「再会」()

 三一版未収録。メロドラマ映画の原作(というか同時進行タイアップ小説)。
 

「影の人」()

 三一版未収録。

 「青髯二百八十三人の妻」()★★★☆☆
 ――戦前でも、人間の片脚や胴体が、一と月に一つや二つはセーヌ河に浮かびあがるのはめずらしいことではなかったが、治安のゆるんだ戦中だといっても、四年の間に三百人の失踪者はなんとしても多すぎる。

 本書収録「ゴロン刑事部長の回想録」でもちょろっと触れられていた事件ですが、解決したのはゴロンではなくゴロンの弟子ということになっています。
 

「或る兵卒の手帳」()

 三一版未収録。ナポレオンもの。
 

「天国の登り口」()

 三一版未収録。終戦直前に部隊が引き上げた基地に落下傘降下した兵隊。
 

大赦請願」()

 三一版未収録。
 

「かぼちゃ」()

 三一版未収録。へちまからかぼちゃ。掌篇。
 

「皇帝の御鹵簿」()

 三一版未収録。ナポレオンもの。
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